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田んぼ屋は自然にやさしい有機栽培のお米の販売・通販・農業体験の農家です。

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〒300-0503 茨城県稲敷市稲波187

昔の稲作OLD RICE CULTIVATION

1).田お越し

田起こしと田植えは腰から胸までつかるような、沼地のような条件下で行われた。 春になると株踏みが行われる。下駄の裏に刃物をつけて残っている稲株を踏み切っていく、田起こしが始まる。一鍬一鍬手で耕す作業で夫婦で一日一反歩(10アール)起こせば大変な働き者だった。粘土混じりの砂質の水田は牛や馬で犂(すき…プラウ)を引かせることができたが、可能な土地は一部だった。手には血豆がいくつもでき、夜になると肩や腕がしびれて寝ていても目が覚めてしまう。 田起こしが済むと水を引き入れ、鍬で細かくほぐして行く。八角形の木柱に鉄片をつけた、現在のドライブハローのような物を作って、手で押したり引いたりして代かきもおこなわれた。

2).田植え

初期の苗代は水苗代。数年後、油紙を使用した保温折衷苗代が普及し徐々に前進栽培、つまり、田植えの時期が早くなっていった。
 最初の栽培品種は早生の農林1号と思われるが、米増産の時代で早期出荷奨励金があったことや、風水害を避けるため早生稲の選択は大事であった。また稲刈りは8月末から10月末までの二ヶ月に及んだから、品種の組み合わせは多様で、一軒で5〜6種類以上栽培された。 底なし状の沼地での田植えであるから、体が沈むのを防ぐためと苗を乗せるために、舟や洗濯タライが使われた。また弁当や水も乗せてあったとのことである。作業服などという気の利いたものはなく、男はふんどし、一本になっての仕事であり、「田もんぴき」が田んぼ仕事のユニホームだった。また、元来が湖だったところであるから、カラス貝(淡水)の殻や、魚をとるために沈められていた柴(松枝などの束)で足を切ることも珍しくはなかった。
昭和40年代末に田植え機が普及するまでは、田植えは手で行われた。あらかじめ定規で筋をつけた田んぼの所々に苗の束を撒いておく。田んぼに筋をつける定規は八角形の枠状の物を転がして、格子模様をつけてその角々に植えていく。縦横がそろってきれいな並木状になる。定規は建具屋に作ってもらった。

3).草取り

田植えが済むと間をおかず草取りが始まる。除草剤はなかったから、四つん這いになって稲株の間を手でかき回す。草取りも後になると、暑いのと伸びてきた稲の葉で目を突くことがあり、見た目以上の重労働である。目の怪我を防ぐのに、金網でできた防護面(フェンシングの面と似ている。)をかぶる人もいた。手押しの除草機が普及しても横列や株周りは手で行こなっていた。

4).稲刈り

稲刈りはすべて手刈りで行われ、足が沈むのを防ぐのに特性の大型田下駄を自作したり、竹を渡して足場にして刈った。 刈り取った稲束は水路に浮かべた舟に乗せ、岸に沿って人が引っ張って運ぶ。そして岸辺の地盤の固いところに立てられたオダ(ハサ)に掛けられ天日で干した。農道ができたからは牛や馬に引かせた荷車で運ぶようになった。8月下旬から始まった稲刈りが終わり、オダに掛けられた稲束がすっかり無くなるのは11月も終わるころ。木々も葉もすっかり落ちあたりは冬景色になっていた。

5).脱穀と籾摺り

最初は足踏み式だった脱穀だが、籾摺りの作業とともに一早く機械化された。動力は発動機(ディーゼルエンジン)だった。当時の脱穀作業は稲束の穂の部分を一束ずつ手で機械に通す。なれない人がやると稲束ごと機械に引き込まれてしまう。その後チェーンに稲束を挟むだけの自脱式に代わった。
脱穀は稲刈りの合間に行うが筵(ムシロ)に広げて天日で干してある籾を雨に合わせないよう、空模様をにらみながらの気ぜわしい日々が続く。天候によっては、田んぼから大急ぎでもどることもあった。稲藁も小束をひとまとめにした大束にして、大事にとっておく。円筒形に積み上げ藁屋根をかぶせた「にお」あるいは「にゅう」をいくつも作る。筵、菰、俵、縄などを作るときの材料にしたり、家畜の敷き藁にするのだ。畳屋に売ることもある。早春に始まった米作りもようやく米の形になる。俵に詰め、桟藁(さんだわら…俵の両側をふさぐ藁製の蓋)をかぶせて縄で絞め、出来上がりになる。

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