1).江戸崎入干拓計画
準用河川小野川が霞ヶ浦に流入する河口に榎ヶ浦と称する225町歩の遊水池があり、早くから干拓適地として注目されていました。しかし、小野川の遊水池としての使命や沿岸農民の反対、軟弱地盤のため、昭和10年度に茨城県の県営干拓事業として着工したものの、予想以上の難工事となり、放置されていました。
その後甘田入干拓(旧桜川村)完成の経験を生かし、耕地整理法に基づく補助事業として、この工事を再開するため、昭和14年11月、植竹庄兵衛氏を代表とする、江戸崎入干拓耕地整理組合が結成され、官民多数が列席し、江戸崎農学校(現 江戸崎総合高等学校)に於いて華々しく起工式が行われました。
仕切り直しとなった干拓事業ですが、実際に工事を再開したところ、小野川沿いの締切り堤防は沈下に沈下を重ね、加えて戦局の窮通はこの事業にも極端な労力難、資材難をもたらし、事業の進歩を阻害しましたが、当時の水戸刑務所長はじめ、入植者等官民一致した努力と超人的な努力で昭和22年に堤防は一応締切られました。
堤防とは名ばかりのいわゆるカミソリ堤防ではありましたが、この間毎年のように来襲する風水害には徹夜に徹夜を重ねる水防の日々を繰り返し、ただの一度も堤防の決壊を許すことはありませんでした。
昭和23年より、法律改正に伴って干拓事業は国の直轄事業となり、茨城県が代行して事業を行い、昭和33年に建設工事の全量完成しました。
この20年にも及ぶ工事期間に約1億800万円の国費が投入され、その甲斐あって、地区総面積227町5反9畝、内耕地面積は178町6反8畝が造成され、ここに富山県より36戸、ほか69戸、計105戸の新規入植者と、江戸崎町より270戸、桜川村より64戸の計334戸の増反者が土地の売り渡しを受け、営農に従事し、年間平均1万5千俵の米が生産されるようになりました。
2).昔の営農組織
昭和24年の本組合の営農組織は、6戸を一組とした組(班)を5組編成し、それぞれの組毎による組合分割共同作業で運営されていました。まだ農道は無く、排水路も未完成であり、水田とは名ばかりで、夜明けに星を戴き、夕べに月を望みつつ、腰から胸まで泥田に漬かりながら田舟につかまって田植えをし、稲刈りでは特製田下駄や、竹を敷いて伝い歩きをしながらと、現在では想像もつかないような重労働の連続でした。
同年秋は豊作と見られていましたが、キティ台風により稲作の大半が倒状して、冠水し、結実不良や穂発芽となってしまい、被害は甚大でした。この惨禍の中、組合員は日没まで稲刈りを行い、刈り取った稲束を舟で運び、荷車に満載して一台に十数人が取り付き、『エイヤ、エイヤ』の掛け声は夜遅くになっても離れた住宅まで響いたとのことです。
4).稲波誕生まで
足かけ20年に及ぶ干拓事業が完了し、翌年の昭和34年の農地売り渡しと同時に、この地の名称が『稲波』と正式に命名されました。それ以前は正式地名が無く、『干拓』 『砺波』 『佐倉川岸』 『外浦』などと呼ばれていたそうです。ここ稲波干拓は富山の出身の人が多いのですが、富山の実家から送られてきた荷物が他の開拓地に行った事もあったそうです。
稲波に正式に決定してからも地域にはなかなか浸透せず、小学校や、中学校での地区名は『外浦』が使われていたそうです。 地区名決定については、当入植組合は『砺波』を主張したが(富山県出身で砺波の人が多かったため)、他の入植組合から強硬な反対を受けたそうで、『稲の波のような地に』の願いと、字面から稲波(いなみ)も砺波(となみ)を連想できるという意見があり、現在の稲波に落着したそうです。
5).稲波に残る富山
富山県からの入植者が多いことにより、富山から持ち込んだ今も残る風習の代表格に、跡取り息子が数え25歳と、42歳の厄年を迎える際の祝いの席があります。地域の人達から見れば厄年を祝うこと自体が奇妙に見えるようですが、仏教が盛んな地域に共通な風習らしく、似たような行事は富山以外にもあるそうです。
近所や、親戚、友人達と厄を分け合い、今後もお互いに健康に。という願いが込められた風習と思われます。結婚式に先立ち、仏壇にお参りする風習もこの地域の人達には珍しいことです。
富山弁は一世の人達の言葉の端々にまだ色濃く残るが、茨城弁とかなり交じり合っており、二世の年長者の口からも、時折富山弁の名残りを聞くことがあります。しかし、三世にとっての富山弁は郷愁を誘うことなく、他所の言葉のイメージだけのそんざいです。
食べ物ものでは砺波出身の家庭ではカブラ寿司、新川地方であれば押し寿司を折りに触れて作ることがあります。そのほか、よごし(野菜の味噌和え、あるいは胡麻和え)や、べっこう(しょうゆ味の寒天寄せと表現すべきか)も富山から伝わりました。
山菜のゼンマイが食べられる事をこの地域の人達に教えたのも入植者たちでした。
6).オオヒシクイ
天然記念物のオオヒシクイが関東で唯一稲波干拓地に越冬のために、毎年冬に飛来してきます。 古い観測では昭和50年に50羽のオオヒシクイが確認されていました。
テレビや新聞でその姿が紹介されるようになってからは、大勢の人たちが稲波干拓をおとずれるようになりました。