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日本赤軍拘束事件資料 Japanese Red Army(JRA) |
1.共産主義者同盟赤軍派略史
冥土出版発行「連合赤軍服務規律」解説より。赤軍派は、1969年に共産主義者同盟(略称ブント)から分裂して誕生した。鉄パイプと火炎ビンで武装した全共闘運動やその後の街頭武闘の敗北と行き詰まりにより、銃と爆弾による武装蜂起を指向する潮流が生じ、激しい内ゲバのすえ独立したものだ。この内ゲバでは赤軍側に死者が出ている。赤軍派は、2年半あまりで事実上壊滅するのだが、最盛期には400人ほどの勢力を保持した。議長は塩見孝也、軍事委員長は後によど号ハイジャック事件を起こし北朝鮮に飛ぶ田宮高麿であった。
全国全共闘結成大会で、入場を阻止しようとする300人のブント主流派をわずか100人で撃破し大衆の前に初めて登場した赤軍派は、革命戦争を宣言。その言葉どおり大阪戦争(関西暴動)、東京戦争(中央権力闘争)を連続的に戦うことになる。大阪戦争とは、大阪で警察署や派出所を襲撃しピストルを奪うという計画。さらに奪った武器を使い政府高官を殺害し、首相官邸などを襲い大衆を巻き込んだ暴動を展開する作戦を東京戦争と呼んだ。大阪戦争は、交番に火炎ビンを投げ込むところまでいったが、銃を奪うことには失敗してしまう。武器を奪うことに失敗した赤軍は、それでも東京戦争をあきらめず、火炎ビンで東京の本富士署を焼き討ちし署長室を炎上させている。この時不在で難を逃れた本富士署長が、後にオウム事件の最中狙撃され重傷を負った国松警察庁長官である。この戦いを「ブルジョワジーとその番兵を皆殺しにする戦いではなかった」と総括した田宮高麿ら赤軍政治局は、「今後は、せん滅戦が必要である」として爆弾闘争にとりかかった。まず、アナーキストから供与されたピース罐爆弾で新宿駅襲撃とパトカー爆破を狙うが、爆発寸前に発見され失敗する。それでもくじけず、さらに強力な20メートル四方に殺傷力を持つ鉄パイプ爆弾の開発に成功すると、100人の赤軍兵士による首相官邸と警視庁の襲撃を決定する。これは2.26事件をヒントにしたといわれ、首相官邸を占拠した後、人民政府の成立を全世界に宣言するつもりだったという。しかし襲撃の軍事訓練のために大菩薩峠に結集した赤軍中枢部隊53人が、逆に凶器準備集合罪で一網打尽に逮捕されてしまい、あえなく失敗する。弾圧はさらに強まり、幹部は次々に逮捕されてゆく。そのため赤軍派は武装蜂起路線から不連続ゲリラへと路線変更を余儀なくされる。つまり、資金かせぎの強盗(マフィア作戦)、ハイジャック(フェニックス作戦)、猟銃強奪(アンタッチャブル作戦)である。だが、この中で成功したのはわずかにフェニックス作戦だけであった。これが日本初のハイジャック、よど号事件である。軍事委員長田宮高麿をリーダーとする赤軍メンバー7人が日航機をハイジャックし、北朝鮮へ向かったというものだ。しかし何を要求するわけでもなく、この事件は追い詰められた赤軍の亡命事件ともいえよう。ここで使用された武器は、ヤクザから購入した日本刀であったという。この事件の前後、塩見孝也議長をはじめ赤軍創設以来の幹部はほとんど逮捕されてしまう。後に日本赤軍を結成する重信房子がアラブへ派遣されたのも、この少し前であった。ここまでが第一次赤軍といわれ、この後の第二次赤軍と区別される。
第二次赤軍の最初の戦いは、獄中の塩見孝也議長の奪還であった。各国の大使館員を誘拐し、人質にして塩見議長を釈放させ中国に亡命させようというもの。これはペガサス作戦と呼ばれた。しかしこれも決行直前に幹部が逮捕され、持っていたメモから計画が知られてしまい、失敗する。この時期の赤軍は、1970年の10月前後に革命が起こると信じ込んでおり、ペンタゴン突入など力量を無視した無理な作戦ばかりたてていた。そのため幹部、兵士に次々と脱落者が生じ、また地方と中央、公然と非公然の対立が深まり分裂しつつあった。中央は『軍』を掌握した武闘派の森恒夫らが握り、政治に対する軍事の優越を唱え独走する。徴発活動で鍛えられた軍が、第二段階として政治テロを行うという方針のもと、連続的に銀行強盗が行われる。これで数少なくなった兵士がさらに減少するが、なんとか闘争資金を入手することには成功する。また、このころ赤軍は明治公園で中核派の集会を警備中の機動隊に鉄パイプ爆弾を投てきし、30数人を負傷させている。爆弾と資金を持つ赤軍は、しかし銃を入手することがどうしても出来なかった。ここで現れるのが、赤軍と同じ軍事路線を突き進む京浜安保共闘である。
京浜安保共闘は、中国派として共産党から除名された日本共産党左派が再分裂して誕生した日本共産党革命左派の下部組織である。50年代武装闘争時代の共産党の革命理論や闘争スタイルを受けつぎ、軍事組織として人民革命軍を持つ。学生が中心で世界革命論の赤軍派と異なり、労働者主体で毛沢東主義による一国革命論の京浜安保共闘は、小人数によるゲリラ闘争を行っていた。盗み出したダイナマイトを使用しての米軍基地爆破未遂や、銃を奪うことを目的とした交番襲撃などだ。交番襲撃はメンバー一人が警官に射殺され失敗しているが、銃砲店から散弾銃とライフル銃など10丁を強奪することには成功する。赤軍のように下部組織を持たない京浜安保共闘は、警察の追及と資金不足のため動きが取れなくなってしまった。ここで赤軍との関わりが生まれる。赤軍の資金と京浜安保共闘の銃を交換し、最後に両者の軍事組織の合同を決定するのだ。赤軍派中央軍と京浜安保共闘人民革命軍が組織合同したものが連合赤軍である。
連合赤軍は、銃を使用した軍事訓練と山岳ゲリラ戦のため山岳ベースを設置した。しかし閉そくしたアジト生活で集団ヒステリー状態に陥り、総括の名のもとに28人のメンバーのうち12人を次々と殺害し自壊した。さらに警察の山狩りを逃れた生き残りの5人は、軽井沢あさま山荘に人質を取って立てこもり、警官隊と10日に及ぶ銃撃戦を展開し警官2人一般人1人を射殺し多数の負傷者を出した後、逮捕された。一連の連合赤軍事件は、70年代日本の最大の事件とされ、また大衆的な新左翼運動の終焉を刻するものとして記憶されている。赤軍派、京浜安保共闘ともにこの事件のため事実上壊滅し、アラブの日本赤軍のみが国際テロ集団として活動することになる。
2.日本赤軍略史
冥土出版発行「日本赤軍声明集」解説より。1969年、大菩薩峠事件を頂点とするいわゆる『前段階武装蜂起』に失敗した共産主義者同盟赤軍派は、一国内での武装闘争には限界があるとして、労働者国家を根拠地として武装蜂起の世界性と永続性を図るべきであるという『国際根拠地論』を提唱し、主要な闘争目標として国際根拠地の建設を掲げた。建設候補国として北朝鮮、アルバニア、キューバの労働者国家をあげ、軍事委員長田宮高麿をリーダーとする赤軍メンバー7人が日航機『よど号』をハイジャックし、北朝鮮へ向かった。北朝鮮で軍事訓練を受け、帰国して武装蜂起を行う予定であったという。しかし、北朝鮮の反応は冷淡で、国際根拠地論は最初からつまずいてしまう。それでも赤軍派は中東を次の国際根拠地建設の予定地として、1971年、アラブに中央委員の重信房子を派遣した。赤軍派とは別に武装闘争を行っていた京大パルチザンのメンバー奥平剛士と偽装結婚し、レバノンのベイルートに出国した重信は、当時過激なハイジャック闘争で知られていたPFLP(パレスチナ解放人民戦線)と接触し、その援助を得て赤軍アラブ支部を建設した。しかし、1972年、本体の赤軍派自体が『連合赤軍事件』で壊滅してしまう。これに対しアラブ支部は、5か月後テルアビブ空港乱射事件を引き起こし、『日本赤軍(当時はアラブ赤軍と呼称)』として自立することを明らかにし、20件以上のテロ闘争を行った。主なものを挙げる。
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テルアビブ空港乱射事件(リッダ闘争) 1972年5月30日イスラエルのテルアビブ空港で奥平剛士、安田安之、岡本公三の3人の赤軍戦士が小銃を乱射し、手榴弾を投擲。25人を死亡させ、76人に負傷させた。その場で奥平剛士、安田安之は死亡し、岡本公三はイスラエル警察に逮捕され、終身刑を言い渡された。この日が日本赤軍の建党記念日とされる。
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日航ジャンボ機ハイジャック事件 1973年7月20日『被占領地の息子たち(SOLO)』と名乗るパレスチナゲリラと日本赤軍の混成部隊5人(日本赤軍1人―丸岡修)が、アムステルダム発日航ジャンボ機を乗っ取り、リビア・ベンガジ空港に着陸させた。ここで乗客全員を解放し機体を爆破、リビア政府に投降した。なお女性戦士1人が手榴弾の暴発で死亡している。
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シンガポール・クウェート事件 1974年1月31日『バセル・エル・コーバイシ隊』と名乗るパレスチナゲリラと日本赤軍の混成部隊4人(日本赤軍2人―和光晴生、山田義昭と推認)が、シンガポールのシェル石油製油所に侵入し、施設の一部を爆破、フェリーボートを乗っとり乗員を人質にして脱出のための飛行機を要求した。その6日後、パレスチナゲリラ5人がクウェートの日本大使館を占拠し、大使館員を人質にとり、シンガポール事件の戦士と自らの脱出用飛行機を要求した。日本政府は要求をのみ、シンガポールに日航特別機を送り、クウェートの戦士と合流させ、南イエメンに飛行させた。部隊は南イエメン政府に投降した。
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ハーグ・フランス大使館占拠事件 1974年 9月13日日本赤軍戦士3人
(和光晴生、奥平純三、西川純)が、オランダのフランス大使館を占拠し、大使館員を人質にとり、フランス警察に逮捕された戦士の釈放を要求した。18日になって戦士と人質の交換が成立。部隊はフランス航空機でシリアに向かい、ダマスカス空港で投降した。*
クアラルンプール米領事館、スウェーデン大使館占拠事件 1975年 8月4日日本赤軍戦士5人
(内3名は和光晴生、奥平純三、日高敏彦と推認)が、マレーシアのクアラルンプール米領事館とスウェーデン大使館を占拠し、大使館員を人質にとり、日本で拘留中の西川純、戸平和夫、坂東国男、松田久、松浦順一(以上赤軍派)、坂口弘(京浜安保共闘)、佐々木則夫(東アジア反日武装戦線)の釈放を要求した。日本政府は、出国を拒否した松浦、坂口を除いた5人を日航特別機でクアラルンプールに送った。部隊は釈放者と合流した後、リビア・トリポリ空港に向かい、リビア政府に投降した。*
ダッカハイジャック事件 1977年9月28日日本赤軍戦士5人
(内4名は丸岡修、西川純、坂東国男、佐々木則夫と推認)が、パリ発東京行日航機をハイジャックし、バングラデッシュ・ダッカ空港に着陸させ、人質と交換に日本で拘留中の奥平純三(日本赤軍)、城崎勉(赤軍派)、大道寺あや子、浴田由紀子(東アジア反日武装戦線)、泉水博、仁平映(刑事犯)ら9人の釈放と身代金600万ドルを要求した。日本政府は、出国を拒否した3人を除いた6人と身代金を日航特別機でダッカ空港に送った。部隊は釈放者と合流した後、アルジェリアに向かい、アルジェリア政府に投降した。*
インドネシア日米大使館手製迫撃砲事件 1986年6月日米大使館に手製迫撃砲が撃ち込まれた事件を捜査中のインドネシア警察は、付近のホテルから日本赤軍の城崎勉の指紋が検出されたとして手配。5月にカナダ大使館外側に自動車爆弾が置かれた事件でも容疑者として手配。この事件では「反帝国際旅団
(AIIB)」が犯行を声明。(最近の事件では日本赤軍自体は声明を発表していない。「反帝国際旅団(AIIB)」が日本赤軍をあらわすものと思われる)*
ローマ事件 1987年6月ローマのイギリス大使館にロケット砲2発が撃ち込まれ、30分後アメリカ大使館付近で自動車爆弾が爆発、数分後同大使館用地にロケット砲2発が撃ち込まれた。「反帝国際旅団
(AIIB)」が犯行を声明。*
マドリード米大使館手製ロケット砲事件 1988年7月マドリードの米大使館に手製ランチャーよりロケット2発が撃ち込まれ、「反帝国際旅団
(AIIB)」が犯行を声明。参考資料
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送り先
東京都杉並郵便局私書箱21号〒166 ジャスコ内 遊撃インターネット
七〇年代にあさま山荘銃撃戦やリンチ事件などの大事件を起こした超過激派、『連合赤軍』の服務規律を中心に、赤軍派の『戦争宣言』や『蜂起の軍隊=赤軍に志願せよ』といった過激文書、さらに日本赤軍によるイスラエルのリッダ空港小銃乱射事件の声明など、赤軍派から見たあさま山荘事件のドキュメントなど、赤軍関係の重要文書を収録した。服務規律では、『住居』『生活』『交通』『指揮・行動』『連絡』『機密』『対捜査』『訓練』など党活動や軍事活動の実際についてこと細かに規定しており、都市ゲリラに関する一級の資料になっている。さらに付録として赤軍派の機関紙『赤軍』第五号の一面のコピーをつけた。
連合赤軍服務規律はホームページ上に公開しています。ここに紹介した以外にも多くの本やビデオを扱っています。