飛行夢 〜出会い 前編
ジョミーに会うのは簡単だ。
心の中で、ただそうと願えばいい。
ものの数秒もかからない。
その瞬間は、いつもだいたい同じ場所だった。
だからシロエは、見逃さないでいられた。
空気が、そこだけ熱を帯びたように、ぼんやりと揺らぐ。
じっと目を凝らしていると、不意にジョミーの姿が現れる。
空に浮く身体は、重力をまるで無視した軽やかさで、床に降り立つ所作もスムーズだ。
ブーツと床の触れ合う、硬質の音。
一拍遅れて、ふうわりと舞う真紅のマント。
面を上げたジョミーの視線が、シロエの上で焦点を結ぶ。
微笑を浮かべる。
シロエは心底、ほっとする。
もちろん、ごくまれに、いくら呼びかけても応じてもらえないこともある。
そういうときは決まって、ジョミーの右腕だという人――リオと名乗った――がやってきた。
ごめんね、ソルジャーは今、ちょっと手が離せなくて。
だいたい、そんなようなことを頭の中に吹き込まれる。
リオは会話に、声を用いることができないのだ。
でも、不自由はないらしい。
彼がESPを持つ、ミュウだからだ。
ミュウ。
人類から生まれでた新人類。
ESPを保有する者の総称。
これまでシロエは、彼らのことをまったく知らなかった。
ぽかんとした面持ちのシロエに、知らなかったんじゃなくて、知らされていなかったんだよと言ったのは誰だったか。
確かに、その通りかもしれない。
ユニバーサルのやりそうなことである。
だが、シロエを本当に驚かせたのは、彼自身もまた、ミュウであるという事実であった。
目だけでなく、口までまん丸に開いたシロエを、ジョミーはどうしてだか不安げなまなざしで見つめていた。
けれども、シロエが勢い込んで言った言葉に、一瞬呆気に取られたような表情を浮かべてから、満面を笑みで彩った。
――僕も、ピーターパンみたいなこと、できるようになる?
訓練すれば、きっとね。
にこにこと嬉しそうに微笑みながら、ジョミーはシロエにそう約束してくれた。
でも、それにはまず、身体をよくしなくちゃならない。
だからシロエは、こうして大人しく寝台に収まっている。
彼の持ってきてくれた、幾冊かの本を相手に。
その中には、もちろん『ピーターパン』もあった。
とても嬉しかった。
でも、気にかかることもあった。
ソルジャーが、君にって。
『ピーターパン』を差し出しながら、ジョミーはそんなことを口にしたのである。
彼こそがミュウを統べるソルジャーだってこと、シロエもとうに知っているのに。
どうして?
そういえば、シロエは結局、聞きそびれている。
ソルジャー。
ミュウの長。
この船で一番、力のある人。
それがシロエのピーターパン、ジョミーだった。
なんだか自分のことのように誇らしくて、シロエは照れ笑いを浮かべたものである。
シロエを驚かせた様々な能力も、ジョミーだからこそ為しえたこと。
いつか彼のように、自在に力を操れるようになりたい。
だがシロエの切なる願いは、まだまだ叶いそうになかった。
テレパシーを使うのに、どうしてここまでやってくるの?
シロエの疑問に、リオは困ったような面持ちで首を傾げたものだった。
なにを気づかっているのか、ずいぶんと遠まわしな彼の言葉から察するに、どうやらテレパシーも万能ではないらしい。
対面していれば問題はないが、一定の距離を越えてしまうと、途端に双方の力が必要になるのだそうだ。
要するに、シロエがESPの制御を知らないばっかりに、リオに足労をかけさせているのである。
リオがジョミーのようにテレポートしてくるのであれば、シロエも取り立てて気にとめなかっただろう。
だがテレポートができるほどの力を持つのは、ソルジャーくらいだそうだ。
リオはずいぶん申し訳なさそうだったけれども、そもそもESPの制御ができないシロエが悪い。
どうしてリオを責めたりなんかするだろう。
まれに、すっかり諦めたシロエが、うとうととまどろみ始めた時分になって、ようやくリオが訪れることがあったとしてもだ。
そういった事々は、シロエにジョミーへの崇拝と、自身の無力さを再認識させた。
それから激しい後悔に襲われる。
まだシロエが幼い頃、シロエの潜在能力を見出し、迎えにきてくれたピーターパン。
にもかかわらずシロエは、彼を拒絶してしまった。
今思えば、ただただ、幼かっただけだろう。
でも、あの時、もう少しピーターパンの言葉に耳を傾けていれば、あんなことには、ならなかったのに――?
……あんな、こと?
って、なんだったろう――。
「難しい顔をして、考えごと?」
不意に、大好きな人の声が頭上から降ってきて、シロエは我に返った。
立膝に預けていた面を勢いよく上げると、寝台の傍らに佇むジョミーの姿が目に入る。
少し驚いたような表情を浮かべているのは、シロエの過剰ともいえる反応に対してだろうか。
そう考えてみて初めて、シロエは自分が、緊張に全身を強張らせているのを知った。
その声から、やってきたのがジョミーだと気がついていたにも関わらず、まるでなにごとか警戒しているようなふうである。
医局には、二人のほかに人影はなかった。
ドクターも、看護師も、席を外しているようだった。
天井に灯る明かりが、辺りを柔らかな白で照らし出している。
あまりにも静かで、空調の微かな音さえやけに大きく聞こえた。
気まずい雰囲気が、周囲に漂い始める。
物思いに耽っていたのだから、突然声をかけられて驚かないはずはない。
けれども、とてもそれだけの所為だとは思えなかった。
シロエは大きく深呼吸して、緊張を解すよう務めた。
だが、あまり効果はなかった。
シロエの身体はシロエの意思を無視して、なにごとかに備えているのだ。
でも、一体なにに?
――分からない。
なんだか、分からないことだらけだ。
「ピーターパン……」
気がつけばシロエは、ため息混じりにそう呟いていた。
まるで救いを求めるかのように手を差し伸べかけて、しかし結局、その手は彼に届くことなく寝台の上に落ちた。
ジョミーが突然、がっくりと肩を落としたからだった。
「……それはやめてくれって、お願いしたじゃないか……」
絞り出すように紡がれた言葉に、シロエは思わず笑みを浮かべた。
途端に、全身から力が抜ける。
ほっとした。
そういえば、恥ずかしいから止めてくれと言われていたのだった。
それじゃあと皆に倣ってソルジャーと呼んだら、ジョミーでいいんだよと正された。
なんだかシロエだけ特別みたいで、嬉しかった。
だからピーターパンと呼ぶのは、心の中でだけにしようと決めたのに。
うっかりすると、まだ口をついて出てしまうようだった。
「ごめんなさい……ジョミー……」
「いや、謝るほどのことじゃないけど」
しゅんとして謝罪を口にするシロエに、ジョミーは困ったような笑みを浮かべると、右手を胸の前でぱたぱたと振ってみせた。
それから、流れるような仕草でマントをさばくと、寝台の端に腰かける。
シロエの面をのぞきこむと、ちょっとだけ首を傾げた。
「急に来てしまったけど……、大丈夫?」
ジョミーの言葉に、シロエは大きく頷いた。
大丈夫じゃないことなんて、ありえない。
シロエにとって、ジョミーは至上の存在だからだ。
たとえ真夜中の、ぐっすり眠っているところを無理矢理起こされたとしても、シロエは喜んで彼を迎えただろう。
むしろ、眠っているからといって放っておかれた方が、傷つくかもしれない。
「そう、よかった」
にっこりと微笑んだジョミーは、しかし何故だかシロエから、つと視線を逸らしてしまった。
そのまなざしに、なにごとか考えごとの気配を覚えて、シロエも首を傾げる。
きっと、大切な用でもあるのだろう。
そうでなければ、常日頃忙しい彼が、唐突にシロエの元へとやってくるわけがない。
シロエのもの問いたげな視線を感じたのか、ジョミーがはっとしたような面持ちになった。
慌ててシロエに目を向けると、ごめんごめんと口にする。
別に、構わないのに。
ジョミーがそこにいてくれる。
それだけでシロエはもう、とても幸せなのだから。
そんな想いがこぼれ落ちるかのように、シロエは満面に笑みを浮かべていた。
大好きな、大好きなジョミー。
僕のピーターパン。
特別な人。
ジョミーもそう思ってくれてればいいのに。
でも、現実はそんなに甘くはなかった。
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