とまらない理由
「天気がいいから、外ー」
田島君の一声で、今日のお昼は外で食べることになったみたいだった。
みんながご飯を片手に、次々と部室から出て行く。
残ったのは遅れてきて着替えがまだな七組の人と、オレだけだった。
さっきまでの騒々しさが嘘みたいに、室内は静まり返っていた。
遅れてきた三人の着替えの物音が、時折かすかに聞こえる。
三人とも、全然口をきく気配がない。
きっと、出遅れたことに焦っているんだろう。
もくもくと手を動かしている。
部室の片隅で膝を抱えたオレは、膝頭に顎を埋めながらも、ちらちらと三人の様子を窺っていた。
――ううん、三人の様子なんかじゃない。
オレが目を奪われているのは、その中の一人の人だった。
阿部、君。
こころの中で、名前を呟いてみる。
すると昨日のことが思い出されて、オレは顔が熱くなるのを感じた。
きっと、真っ赤になっているに違いない。
気づかれてはいけないと、膝を抱えた両腕に顔を埋める。
でも視線だけは阿部君から離せなかった。
上目遣いに、彼の姿を追ってしまう。
驚異的な手際のよさで着替えを終えた阿部君は、多分お弁当の包みだろうものを持って、どこか手持ち無沙汰な雰囲気でロッカーの前に佇んでいる。
花井君と水谷君が着替え終わるのを、待っているんだろう。
先に行ってもいいはずなのに、阿部君より少しだけ着替えに手間取っている二人を待っている。
やっぱりすごくいい人なんだって、オレは気がつけば笑みを浮かべていた。
もちろんそんなこと、昨日の時点ですごくよく分かってた。
けどこうして改めて確認すると、昨日の出来事が夢なんかじゃなかったんだって実感できて、嬉しい。
阿部君。
オレはこころの中で、もう一度呟いた。
中学時代のオレの我儘を、投手の長所だって言ってくれた、阿部君。
こんなにいやな性格のオレを、投手としてなら好きだって言ってくれた、阿部君。
ほんとのエースにしてやるって言葉には半信半疑だったけど――だって、いくら阿部君がすごくても、投げるのはオレだからだ――阿部君の言う通りに投げたら本当に花井君を抑えられてしまった。
信じられなかった。中学時代ぱかすか打たれていたオレの球で、元四番の花井君に三打席勝負で勝ってしまうだなんて。
でも夢なんかじゃなかった。
現実だった。
それだけの力が、阿部君のリードにはあったんだ。
もう二度とマウンドには登れないはずのオレに、機会を与えてくれた阿部君。
オレはここでなら、ホントのエースになれるんじゃないかって、思ったんだ。
だから――。
はふとため息をついて、オレは視線を俯けた。
お世辞にも綺麗とは言い難い部室の畳を、じっと見つめる。
だからオレは、せめて阿部君に、みんなに嫌われることがないように、大人しくしていようと決めたんだ。
だってオレは、本当に性格悪いし、頭も悪いし、話し方はおかしいし、気のきいたことは言えないし、すぐにおたおたしちゃうし。
それで三星のみんなにもずいぶん嫌われちゃったから、今度はそんなことにならないように気をつけるんだ。
オレなんかを投手として認めてくれた阿部君に、みんなに、オレのせいでいやな思いなんかさせたくないから。
頑張るって、決めたんだ。
はたはたと畳を踏む慌しい足音に、オレははっとした。
ちょっとだけ視線を持ち上げると、ドアへと向かう三人分の足が目に入った。
先に行ったみんなを追いかけるんだろう。
どこで、食べるのかな?
外は確かにいい天気で、おひさまはぽかぽかあったかだし、風はそよそよとここちいいし、絶好のお弁当日和だ。
みんなで食べられたら、普通のお弁当だってきっとずっと美味しく感じられるに違いない。
と思ったところで、我に返ったオレは慌ててかぶりを振った。
オレってば、なんてずうずうしいことを考えちゃったんだろう。
オレなんかが、みんなとお弁当を一緒に食べられるはずがないのに。
みんながあんまりいい人だからって、それに甘えてたらまた嫌われちゃうだろ。
そんなのは絶対にいやだった。
夢みたいなこと考えてないで、阿部君たちが出て行ったら、オレもここでご飯を食べよう。
大丈夫、一人で食べるのには慣れてる。
寂しくなんかない。
それよりもみんなに嫌われて、マウンドを追われるほうがよっぽど怖い。
「……っおい、なにやってんだよ」
「――ったー」
その時、阿部君の怒声と誰かの呻き声――といっても、花井君か水谷君のどちらかなんだけど――が室内に響き渡って、オレは驚きと恐怖に身体を引き攣らせてしまった。
思わず顔を膝頭に伏せる。
大人しくしていたつもりだったんだけど、なにか阿部君の気に障ることをしてしまったんだろうか。
そう思った途端、鼓動が激しくなる。
心臓がばくばくいってやかましい。
早く顔を上げて、状況を見極めて、オレのせいなら謝らなきゃって思うのに、なかなか行動に移せない。
強張った身体は、一向にオレの思い通りに動いてはくれなかった。
焦りだけが募っていく。
「……なにしてんの?」
ところが次いで聞こえてきた阿部君の声は、ずいぶんと落ち着いていて、怒気が含まれているようには感じられなかった。
でもオレの身体は、さっきの口振りとのギャップに、びくりと震えてしまう。
ああみっともない。
ちょっと声をかけられただけなのに、こんなにびくついちゃうなんて。
だからオレは嫌われるんだろ、なんて思ったんだけど、不意に、オレが自意識過剰なだけで、阿部君はオレに向かって話しかけてるんじゃないかもしれないって可能性に気がついた。
考えてみれば、練習中ならともかく――捕手と投手だからだ――、まだ練習が始まってもいないのに、阿部君がオレなんかに声かけてくれるわけがないじゃないか。
だとしたら、さっきの怒声もオレに向けられたんじゃないのかな?
そうだといいな。
そう願いながら、オレは恐る恐る顔を上げてみた。
阿部君が、オレなんかを見ていないことを確認するために。
でもドアに身体を向けた阿部君は、オレの予想に反して、顔だけで室内を振り返っていた。
そして意思の強そうなまなざしを、じっとオレにそそいでいる。
それだけじゃなくて、阿部君の後ろにいる花井君まで、オレをじっと見ていた。
水谷君だけが、丸めた背中をオレに向けている。
オレはもう驚いて、本当に驚いて、思わず目をそらしてしまった。
俯いちゃえばよかったんだけど、なんだかタイミングを逃してしまって、今更顔を伏せるわけにはいかないようなここちになる。
落ちつかなげに、視線をそこここにさまよわせるしかなかった。
「三橋……だったよな。飯行かねぇの?」
めまぐるしく移り変わる視界の中で、花井君が口を開いたのが分かった。
水谷君が背を伸ばすと、くるりと振り返って不思議そうな面持ちをしている。
阿部君も、身体を反転させた。
その間も、視線がオレからそらされることはなかった。
三人にひたと見つめられて、オレはもう完全にパニックに陥ってしまった。
花井君はオレの名前を呼んで聞いているんだから、さっさと答えなきゃいけないって分かっているのに、口を開いても言葉が全然出てこない。
というよりも、オレは一体なんて答えればいいんだろう?
花井君は、飯行かねぇの、って言った。
飯行かねぇのって。
だから、オレは――。
え……?
それって……?
「なあ、飯行かねぇの?」
頭の回転の鈍いオレが一生懸命考えている間に、花井君に同じことをもう一度言わせてしまった。
それだけでなく、ドア口で靴を履きかけていたのに、わざわざ脱いで部室に上がらせてしまった。
オレの方に向かって、ゆっくりと足を動かしている。
オレがすぐに返事をしないから、きっといらいらさせちゃったんだ。
まだ二日目だっていうのに、オレはまたみんなに嫌われちゃうのかな。
もうマウンドに上がらせないって言われたらどうしよう。
恐怖にかられたオレは、思わず後ろに下がろうとしていた。
でも考えてみれば、部屋の隅で壁にもたれていたんだから、これ以上どこへも行けるわけがない。
オレって本当に馬鹿だ。
そう思ったら途端に視界がぼやけてきた。
情けないことこの上ない。
オレは無駄だろうと知りつつも、涙をごまかすために顔をあちこちへと向けてみた。
「――飯、食いに行かねぇの? それとももしかして、忘れてきた?」
今度は、阿部君の低く落ち着いた声が聞こえてきた。
ああ、もう。
オレがもたもたしているから、阿部君にまで同じことを言わせてしまった。
ん、だけ、ど。
オレは弾かれたように阿部君の方を見ていた。
とはいっても、目を合わせる勇気なんてないから、視線は若干下がり気味だ。
阿部君の口元から、首の辺りを窺いながら、オレはゆるゆるとかぶりを振った。
意を決して口を開く。
もしかして、という思いと、まさか、という思いがない交ぜになって、頭の中をぐるぐるしている。
期待しちゃいけないって分かっているのに、がっかりして痛い思いをするのは自分なのに。
それでもオレはほんのちょっとだけ感じた希望のようなものを、もう無視することなんてできなかった。
「いっ、いいの?」
「は?」
オレの言葉に、阿部君が不機嫌な声を発する。
きっと、オレの話し方が下手なせいで、いらいらさせちゃったんだ。
本当に怒らせてしまう前にちゃんとしゃべらなければと、オレはびくつく身体を懸命に押さえて、言葉を繋いだ。
「オ、オレも……ご飯……一緒で……」
「ご飯? 一緒?」
ああやっぱり通じない。
どうしてオレはこう頭が悪いんだろうって、泣きたくなる。
でも阿部君は、まだオレの話を聞いてくれようとしているみたいだった。
だから泣いてる場合じゃないと、オレは一瞬唇を噛み締めて涙をこらえてから、必死の思いで言い募った。
「オレ……食、べても……」
だけどオレが最後まで言い切る前に、阿部君の我慢に限界がきてしまったようだった。
というのも、あからさまに顔を歪めた阿部君が、不意にオレの方に向かって歩いてきたからだった。
その足取りからも阿部君の苛立ちが窺えるようで、途端にオレの身体は竦んでしまった。
まるで空気が質量を持ったかのように、喉が詰まってなにも言うことができない。
怒らせてしまってごめんなさいって、謝らなきゃならないのに。
だから嫌いにならないでって、阿部君に投げさせてくださいって、言いたいのに。
でもオレの目の前に佇んだ阿部君は、予想に反してオレを怒鳴ることも、なじることもしなかった。
無言のまま、オレの腕を掴むと、上にぐいと引っ張っただけだった。
阿部君の所作に倣ってオレが立ち上がると、ドアへと引き摺って行かれた。
瞬間、野球部から出て行けって追い出されるのかと思った。
それも仕方ないっていうか、当然だろうなとどこか諦めの極致のようなここちでいたら、阿部君はオレの腕を掴んだまま靴を履き始めた。
ちらりと視線を寄越されたので、オレももたもたと靴を履いた。
阿部君と弁当に両手を塞がれているので、ずいぶんと時間がかかってしまったけど、阿部君はなにも言わずにじっと待っていてくれた。
こんなにいい人を怒らせちゃうなんて、オレってばどんだけどうしようもないんだろ。
追い出すだけなら、オレと荷物をぽいぽいって外に放り出すだけでいいのに、阿部君はそんなことしないんだ。
霞む視界に阿部君の姿を捉えながら、オレはこころの中でひたすらありがとうとごめんなさいを繰り返していた。
もう二度とマウンドには登れないかもしれないけど、最後に阿部君に投げられて、花井君との三打席勝負に勝てただけで、オレは本当に幸せでした。
だからオレなんかのために、もう気をつかったりしないでください。
迷惑なら、ぽいっと捨ててください。
――そんなことで頭がいっぱいになっていたせいだろうか、それからのできごとはあんまり現実離れしていて、オレはなかなか状況を飲み込むことができなかった。
「阿部ー、おまえ三橋泣かしてんじゃねーよ!」
田島君の大きな声に、オレは自分がぼたぼたと涙をこぼしているんだって事実に、ようやく気がついた。
気がついた途端にこらえられなくなって、大きくしゃくり上げる。
突然大泣きを始めたオレにびっくりしちゃったんだろう阿部君が、掴んでいた手をぱっと離した。
オレは自由になった腕で顔を拭ったが、涙は一向に止まらない。
むしろますます酷くなるばかりで、どうにも立っていられなくなったオレは、思わずその場にしゃがみこんだ。
両膝を抱えて、顔を埋める。
はたはたと土を踏む軽やかな音に、誰かが近付いてきたのが分かった。
早く泣き止まないと、呆れられちゃう。
でもオレの涙腺はそんなことお構いなしにあとからあとから涙を量産し続けている。
今度こそうざいって、思われちゃうかもしれないのに。
「阿部にいじめられたのか?」
頭上から降ってきた声は、同じクラスの田島君のものだった。
オレは慌ててかぶりを振って、田島君の言葉を否定した。
本当ならきちんと顔を上げて、今のこの気持ちを説明できればよかったんだけど、そうするにはまだもうちょっと時間がかかりそうだった。
「そっか、じゃあなんで泣いてるの? 飯、忘れたとか?」
オレはもう一度かぶりを振る。
「なら一緒に飯食おうぜ!」
田島君はオレの頭をぽんぽんとたたきながら、そう言った。
その口振りには、呆れとか、うざいとか、めんどくさいとか、そんな感情はまったく見られなくて、オレは今の状況をようやく現実のものとして受け止めることができた。
こくこくと何度も何度も頷いて、田島君の言葉に同意する。
「ほらいつまでも泣いてんなよー、目ぇとけるぞ」
田島君が、阿部君が、みんなが優しいから、ますます涙が出るんです、よー、とは、やっぱり言葉にすることができなかった。
終
きっと三橋はすごく喜んだんじゃないかなという妄想。
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20071008
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