一抹の不安
野球部の練習は、入学式の翌日から早速始まることになった。
とは言っても、しばらくはグラウンドの整備がメインになるだろうなと、春休みから通っていた所為で教室よりずっと慣れ親しんでいる部室に足を向けながら、オレはぼんやりと考えていた。
「とりあえず飯食って、今日は外野の整備からかー」
「そうだろうねー」
すぐ傍らを歩く、同じクラスだった花井と水谷が少しばかりうんざりしたような調子で言っている。
その通りだよとこころの中で肯定しつつちらりと視線をやれば、花井がはっとしたような表情を浮かべた。
「あー……ワリィ、阿部と栄口は春休み中から練習――ってかグラウンドの整備しててくれたんだよな」
さも申し訳なさそうな花井の言葉に、水谷もしまったと思ったのだろう。
どこか困ったような面持ちで目をそらすと、人差し指で顎をかきながら口を開く。
「そうだったそうだった。ごめんなー、おまえらばっか」
「別に。好きでやってただけだし」
「それでも、二人だけじゃ大変だっただろ? 残りはオレら頑張るから、おまえたちは練習でもしてろよ」
なぁ、なんて顔を見合わせて口を揃える二人に、オレは思わず笑みをこぼした。
春休み中、栄口と二人きりで黙々と生い茂った草を刈りながら、一体どんな連中が入部してくるのかと、期待と不安の入り混じった心地でいたものだ。
だがなかなかどうしていい連中が集まったじゃないか。
まだ半日一緒にすごしただけだけれども、オレは自分の直感がそうそう外れてはいないことを確信していた。
――約一名を除いては。
不意に脳裏をよぎったあいつの姿に、オレはため息をこらえることができなかった。
するとなにを誤解したのか、花井と水谷がなおも謝ってくる。
なんだか訂正するのも面倒で、オレは右手を振って適当にあしらった。
それから、ちょうど辿り着いた部室のドアノブに手をかける。
わずかに漏れ聞こえてくる声で、すでに鍵が開けられていることが知れた。
どうにも落ち着かない胸中を吹っ切るように、勢いよくドアを開ける。
「ちわーっす」
「ちわー」
「遅かったなー」
頭を下げつつ室内に足を踏み入れると、途端に気持ちのよい挨拶がそこここから返ってくる。
どうやら、オレら以外はすでにみな揃っているようだった。
あちこちで思うがままに寛ぐチームメイトの姿が目に映る。
部室内には、昨日会ったばかりの面々が集っているとは思えないほど、和やかな空気が流れていた。
一年生しかいないうえに、野球という共通項目がある以上、なんの接点もないクラスメイトたちより打ち解けやすいのは当然だ。
初対面同士の緊張感溢れる教室とは異なった雰囲気に、オレも気がつけば吐息をもらしていた。
花井や水谷も同じような心境なのだろう。
瞬間呆気に取られたようだったが、すぐに気を取り直すと大きな声で挨拶し、部室内へと足を進めた。
昨日決めたばかりのロッカーに荷物を放り込むと、なんの躊躇もなく周囲の人間と言葉を交わし始める。
「今日の予定は?」
「とりあえず着替えて、飯食っとけって志賀が言ってた」
「監督は?」
「なんか、バイトでまだ来れないらしいよ」
「ふーん……」
「飯は? どこで食う」
「ここ……じゃあ狭いよな」
「天気がいいから、外ー」
シニア強豪の元四番、田島の一声に、みながじゃあそうするかと腰を上げ始めた。
弁当やコンビニの袋を手に、部室を出て行く。
遅れたオレたちも慌てて練習用ユニフォームに着替えると、弁当を引っつかんで外に飛び出そうとした。
だが先頭を行く花井がふと立ち止まったものだから、オレは危うく花井の背中に激突してしまうところだった。
そして水谷の野郎はオレの背中に激突しやがった。
「……っおい、なにやってんだよ」
「――ったー」
決して広くない室内に、オレの怒声と水谷の呻き声が響く。
けれども花井は聞いているのかいないのか、ドア口にじっと佇んだまま、室内を凝視している。
オレは自分の目がすわるのを感じながらも、花井がなにを見ているのかが気になって、その視線を辿っていった。
そうして目に入ったものに、怒りも忘れて思わず首を傾げる。
「……なにしてんの?」
オレの呟きに、視線の先で小さくなっていた身体がびくりと震えた。
俯いていた面が、見るからに恐る恐るといった調子で持ち上がる。
だが視線がかちあったと思った瞬間、それまでのゆっくりとした動作が嘘だったかのように、凄まじい勢いで目をそらされてしまった。
きょときょとと落ちつかなげに、視線がそこここをさまよい始める。
「三橋……だったよな。飯行かねぇの?」
花井がドアに手をかけたまま問いかける。
ぶつかった衝撃から立ち直ったであろう水谷も、不思議そうな面持ちで三橋を見つめている。
オレも身体を反転させると、三橋に向き直った。
オレたちにじっと凝視されているのが居た堪れないのか、三橋の挙動不審がますますひどくなる。
口をぱくぱくさせているところを見る限り、なにか言おうとしているのだろうが、その唇から言葉が発せられることはなかった。
まるで、陸に上げられた魚のようだ。
「なあ、飯行かねぇの?」
ふとドア口を離れた花井が、三橋の方へと近寄った。
すると三橋は、再び大げさなくらいに身体をびくつかせると、座ったまま後ろにずり下がろうとした。
だがそもそも部室の隅で小さくなっていたのだから、それ以上どこへも行かれるわけがない。
逃げ場所がないと悟ったであろう三橋の大きな目に、途端に涙がいっぱいに浮かんだ。
あわあわと顔をあちこちに向けている。
オレは思わず大きなため息をついた。
なかなかいい連中が集まったと思われたメンバーの中で、唯一の問題児がコイツ――三橋だった。
中学時代、ひいきでエースをやっていた所為だかなんだか知らないが、当時のチームメイトにすげー嫌われていたらしい。
だもんでとかく行動がおどおどびくびくしていてむかつくことこの上ない。
しかも些細なことですぐ泣く。
フツーに泣く。
ばたばたと涙をこぼす。
高校生男子としてありえねーだろと思うんだが、そういった感覚はコイツの中には皆無らしくて、そこがまたむかつく。
本当なら一番関わりたくない人種だ。
でもそうも言っていられないのは、ひとえにコイツが奇跡の九分割コントロールを有するオレのだんなさまだから。
捕手に嫌われていた過去が手伝ってか、サインをもらえるだけで馬鹿みたいに喜んで、決して逆らおうとしない。
首を振らない。オレにとっては理想の投手だった。
だから――と、オレは軽く深呼吸して、湧き上がるいらいらをなんとか散らそうとした。
だから、このうじうじいじいじした性格には目を瞑ることにしたんだ。
試合中、オレの言う通りに投げてさえくれれば、コイツの性格なんて関係ない。
飯だっつーのにひとり部室に残る不可解な行動にも目を瞑る。
瞑るったら瞑るんだ。
「――飯、食わねぇの? それとももしかして、忘れてきた?」
よし、多少低めだけど、普通に話しかけられた。
あんまびびらせて、オレには投げたくないなんて言われたらたまったもんじゃねぇからな。
とは言っても、捕手経験者はオレだけだから選択の余地はねーんだけど。
なんてことを考えていた所為か、オレはふるふると首を横に振った三橋の言う意味が、咄嗟に理解できなかった。
「いっ、いいの?」
「は?」
いいの? って、なにが?
飯食えって指示出てるんだから、ここはさっさと食っとくべきだろう。
むしろ食い終わってない方が、監督に怒られるんじゃねーか?
昨日のケツバットを忘れたわけじゃあるまいし、あの監督は見かけによらず意外とこえーんだぞ。
なにを言ってんだコイツは?
そんな苛立ちがはっきりと表に表れたんだろう。
三橋はひっと首を竦めると、ぶるぶると身体を震わせ始めた。
だが震える声でなおも懸命に言葉を継いだから、オレはすんでのところで怒鳴りつけるのをこらえられた。
「オ、オレも……ご飯……一緒で……」
「ご飯? 一緒?」
「オレ……食、べても……」
しかしオレの忍耐がもったのもここまでだった。
だって話したところでコイツがなに言いてーんだかさっぱり分からないんだもん。
こんなことしているうちにオレたちまで飯食う時間がなくなっちまう。
どうにもこうにも鬱陶しく、そして面倒になったオレは、手っ取り早く実力行使に出ることにした。
大股で三橋の元へと近付くと、オレの突然の行動に身体が竦んでしまったらしいヤツの腕を取り――咄嗟に利き腕を避ける辺り、オレも大概野球馬鹿だ――無理矢理立たせる。
右手にしっかりと弁当の包みらしきものが握られているのを確認すると、そのままドア口まで引き摺っていった。
呆気に取られた表情でオレらを見ている花井と水谷を押し退けると靴を履く。
ちらりと後ろへ視線をやれば、三橋もなにが起こっているのか分からないといった面持ちながらも、オレにつられたのか靴を履いている。
左手をオレにつかまれ、右手に弁当を抱えている所為かずいぶん時間がかかったけど、つっかけただけでこけられでもしたら大変だからここは大人しく待ってやった。
きちんと履き終わったのを見届けてから、部室を飛び出す。
覚束ない足取りの三橋に更なるいらいらを募らせながら部室棟を出ると、プール脇の木陰で残りの連中が弁当を広げているのが目に入った。
三橋の手を取ったままそこに向かう。
背後から聞こえる慌てくさった足音は、花井と水谷のものだろう。
「おー、おせーよ」
「お先に頂いてるよー」
「あーっ!」
飯を口いっぱいにほおばりながら、オレらに気がついた面々が口々に言う。
そんな中、不意に田島が大声を出したもんだから、オレは思わず足を止めていた。
なんなんだ一体。
「阿部ー、おまえ三橋泣かしてんじゃねーよ!」
「はあ?」
田島の言葉に後ろを振り返れば、俯いた三橋の頭頂部が目に入った。
そのまま視線を下げていくと、三橋の顔辺りからなにやらぼたぼた落ちているものがある。
かすかに震えている身体が、時々ひくりと大きく揺らいだ。
そうして気がついてみれば、小さな嗚咽も聞こえてくる。
驚いた。
てゆーか、びびった。
びびったついでに手を離せば、ようやく取り戻した左腕でぐしぐしと顔を拭った三橋は、くずおれるようにその場にしゃがみこんでしまった。
嗚咽がますますひどくなる。
オレはといえば、そんな三橋をただぼんやりと見下ろすしかなかった。だって。
――わけ分かんねー……。
だがそれは他の面々にも共通の思いだったようだ。
誰もがかける言葉もなく、ただただ三橋を注視していた。
唯一田島だけが、軽やかな足取りで三橋の元へと近付くと、阿部にいじめられたのか? なんて言っている。
その動じなさはさすが強豪シニアの元四番だからか?
見習いたくねーけど。
っつーかオレはなんもしてねーよ。
飯だっつーのにうだうだしている三橋を連れてきてやっただけじゃねーか。
それのどこが悪いってんだよ。
オレは今日三度目のため息をつきながら、天を仰いだ。
抜けるような四月の青空が、校舎と梢の間から窺える。
差し込む陽射しに目を細めながら、ホントにわけ分かんねーと口の中で呟く。
こいつと本当にバッテリーやっていけるんだろうかと、オレの胸中を一抹の不安がよぎったのも当然だと思うんだこの場合。
終
三橋サイドはコチラ
20071008
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