だが案ずるまでもなかった。ホームルームを終えた頃には、亘はもういつもの調子に戻っていたからだ。
一時間目の授業が始まるまでの僅かな時間に、小村と笑いながら軽口を利いている亘の声を耳にして、美鶴は秘かに苦笑した。彼のことになると、どうしてこうも神経過敏になってしまうのか、不思議でならない。亘は、美鶴のことなどこれっぽっちも気にしてなどいないのに。
不意に、久しく忘れていた胸の疼きを、美鶴は覚えた。心がざわざわと落ち着かなく、得体の知れない焦燥感に苛まれる。早く、早く、早く――しなければならない。でも、なにを? 肝心なことが分からないから、美鶴には如何ともし難い。ただただ焦りだけが、美鶴の内でその体積を増してゆく。
またしても亘に意識を取られそうになって、美鶴はゆるゆると頭を振った。気持ちを切り替えようと、授業の用意を始める。鞄から教科書とノートを取り出し、机の上に広げた。宿題は勿論、予習復習も完璧だ。そうあるべく努力しているから、当たり前なのだけれども。
教師が来るまでには、まだちょっとだけ時間がある。折角だからと美鶴は、宿題の最終確認を始めた。几帳面な文字の記された、ノートに目を通す。幸いなことに、取り立ててミスはなさそうだった。続けて、予習した部分を見直してゆく。美鶴は塾に通っていないから、とにかく自分で頑張るしかない。家には、美鶴の勉強を見てくれるような大人はいないから、尚更である。
しかしどんな理由があろうとも、周囲に遅れを取る訳にはいかなかった。美鶴とアヤは、他の子供にはないハンデを背負わされているからだ。だがどんな背景があろうとも本人たちが品行方正でいる限り、槍玉にあげられることはそうそうない。要するに、つけいる隙を与えてはいけないのだ。
美鶴はこれまで、そうやって生きてきた。アヤを、そういう風に導いてきた。生涯続くであろうそんな生活に、時折うんざりすることもあるけれど、他に道がないのだから致し方ない。両親を恨んでみたところで、なにが変わる訳でもないのだから。
そもそも、幸せなお子様たちに構っている暇などないのだ。だからそんな連中がなにを考えているのかなんて、否応なしに大きな不幸を負わされてしまった美鶴には、理解出来なくとも当然であろう。
そう思い至って、美鶴は吐息を零した。その通りだと、独りごちる。置かれた立場が異なれば、同じ物事も全く違った風に見えてしまうのだ、きっと。
恵まれた亘と、そうでない美鶴。だから二人は相容れない。ただそれだけのことである。ならばあれこれ考えても、時間の無駄でしかない。
なんとなく心が軽くなったように感じられて、美鶴は微かに笑みを浮かべた。
ただ、それだけのこと。
本当にそうだったら、どんなにか良かったろう。
「お兄ちゃん」
たとえひどい騒音の中でも、聞き違えようのない最愛の妹の声に、美鶴は顔を上げた。教室の入り口を見やれば、はたしてアヤが愛らしい笑みを浮かべながら、美鶴に手を振っている。
「ちょっと待って」
美鶴は相好を崩しながらそう言うと、手にしていたほうきを一旦壁に立てかけて、教室の後ろへと寄せてある机に向かった。鞄から財布を取り出すと、掃除当番仲間へちょっとごめんと断ってから、彼女の元へと踵を返す。こうしてアヤが美鶴の教室を訪れるのは初めてではなかったから、皆も慣れたもので、おーとかあ、芦川妹だ、なんて声が上がるばかりで、美鶴の掃除の中断を非難する者はいなかった。
「お待たせ。保険証と、診察券。お金はこれで足りると思うから」
アヤの傍へ辿り着くなり、美鶴は口早に告げると、財布からそれらのものを取り出した。
「歯医者に着いたら、まず保険証と診察券を受付のヒトにお願いしますって、渡すんだよ」
「分かった」
美鶴はアヤが首肯するのを見届けてから、その二枚を彼女が首から提げている小さなポシェットにしまってやる。お札も小さく畳んでから、同じ様にした。
「失くさないように、気をつけて。なんかあったら、すぐ電話するんだぞ?」
「大丈夫よ」
アヤは、美鶴が手を離したポシェットを、大切そうに撫でながら答えた。その様子を、美鶴はちょっとの間眺めていた。本当はついて行ってやりたいのだけれども、生憎掃除当番と重なってしまったのだ。当初は予約をずらすつもりだったのだが、当のアヤが一人で行けると言い張ったので、そうさせてみることにした。初めてのおつかいならぬ、初めての歯医者である。美鶴としては心配で仕方ないのだが、保護者である叔母も了解してしまってはどうしようもない。
宮原に言わせると、美鶴は過保護なのだそうだ。でもたった一人きりの家族なのだから、当然だと美鶴は思っている。だって美鶴には、アヤしかいないのだから。
「じゃあ行ってくるね」
「うん、頑張っておいで」
一頻りポシェットを撫でてから、アヤは幾分紅潮した顔を上げて元気良く言った。やはり初めて一人で行く歯医者に、少なからずとも緊張しているのだろう。だからこそ美鶴は、アヤを安心させる意味で、満面に笑みを浮かべた。あまり心配しすぎて、不安を煽ってしまってもいけない。
美鶴の笑顔に、アヤはひとつ肯いてから立ち去ろうとした。足を一歩後ろに踏み出す。だがちょうどその時、言葉をかけてくる者があって、アヤはその状態でぴたりと動作を止めてしまった。
3へ
20061210
戻る