「アヤちゃん、病院?」
その声に、美鶴は表情を強張らせた。咄嗟に振り返ろうとして、しかしどうして彼が声をかけてくるんだと逡巡してしまう。
結果的には、その間が悪かった。美鶴が答えあぐねている間に、アヤが返事をしてしまったからだ。昨年の、あの出来事をすっかり忘れてしまっているらしいアヤは、にこにこと機嫌よく、まるで屈託がない。
「そうよ」
「一人で?」
そう言いながら美鶴の隣に佇んだ亘は、すっかり帰り支度を済ませた格好だった。今日は掃除当番に当たっていないらしい。
「うん」
大きく肯くアヤに優しげな笑みを浮かべてやってから、亘は美鶴を見た。だが口を挟む隙を逸していた美鶴は、咄嗟に言葉が出てこない。慌てて視線をそらすのがやっとだった。アヤの肩に手をかけ、早く行くよう無言で促す。
まるで亘の存在を無視するような所作に、アヤが困ったような顔をして美鶴を見上げた。美鶴はなんでもないんだよという意味を込めて、アヤに微笑んでみせる。もう一度肩を押しやれば、アヤは小さく肯いて踵を返した。昇降口へ向かって歩き出しつつ、一瞬だけ亘に目をやり、それから美鶴に顔だけを向けた。ばいばいと元気良く手を振る。美鶴が手を振り返してやると、満足そうな笑みを浮かべて、ぱっと駆け出していった。
アヤの姿が階段に消えるのを見届けた美鶴は、途端に笑みを引っ込めた。亘に構うことなく、教室へ引き返そうとする。だが亘の更なる言葉に、美鶴は思わず足を止めていた。
「芦川、帰りなよ」
美鶴を追い越すような形で教室の中へと入った亘は、美鶴の前に立った。小首を傾げて、じっと美鶴を見つめている。その全てを見透かしているような視線に、美鶴は居た堪れないものを感じて目を伏せた。亘の胸の辺りを所在なげに眺めながら、どうして、と小さな声で問う。なんで亘がそんなことを言うのか、さっぱり分からないからだ。
「芦川掃除当番だぞー」
そんな二人のやり取りを耳にしたのだろう、クラスメイトの一人が亘に言った。すると亘は背負っていた鞄を下ろしつつ、応じた。
「知ってる、僕が代わるから」
「なんで」
反射的に面を上げた美鶴は、亘の台詞を遮った。苛立ちを隠しきれない美鶴の口調に、亘はどこか呆気に取られたような顔をしている。それがどうしてだか無性に頭にきて、美鶴は言い募った。
「そんなこと、してもらう筋合いはない」
「でも、アヤちゃん病院なんでしょ? 独りじゃ心細いじゃない」
だから、ね? とでも言いたげな笑みを浮かべると、亘は下ろした鞄を手に、先刻美鶴が立てかけておいたほうきへ向かおうとする。美鶴は足早に彼を追い越すと、財布をズボンのポケットに突っ込み、ほうきをひったくる様にして手に取った。
「芦川……?」
美鶴に一歩遅れた亘が、困惑を滲ませた口調で呟いた。周囲では掃除に勤しんでいたクラスメイトたちが、なんだ、どうしたと手を止め、二人の動向を伺い始めている。
美鶴が望んで止まないのは、アヤとの平凡な生活だ。その為には目立たず、騒がず、静かに暮らしてゆくしかない。何事か面倒を起こして家庭環境を探られては、美鶴たちに分が悪いからだ。
これまでずっと、ずっと、色々なことを我慢してきた。美鶴の容姿や成績をやっかんだクラスメイトに喧嘩を吹っかけられても、一切応じず耐えてきた。自己満足でしかない同情にも、感謝するふりをし続けてきた。
それなのに、何故、亘にだけはそう出来ないのだろう。皆が見ているというのに、何故、我慢出来ないのだろう。
「随分とお優しいんだな」
気がつけば美鶴は、嘲笑いながらそう言っていた。教室内はしんと静まり返り、さして大きくない美鶴の声も、よく響く。
「恵まれてるヤツは、他人に厚意を押し付けてられるくらい暇で、羨ましいよ」
美鶴の背後で、亘は息を飲んだようだった。言いたいことを言いたいように口にしてしまった美鶴は、逆に長いため息を吐いた。後先を考えずに感情のままに言葉を連ねるなんて、あの日以来初めてのことである。
不意に亘は今、どんな顔をしているのだろうと思った。美鶴の発言にひどく傷つけられたと、その面でありありと訴えているだろうか。それとも、厚意を無下にするなんてと、怒りを滲ませているだろうか。もしかしたら、親切を素直に受けられないひねくれたヤツだと、呆れているかもしれない。
辺りは、相変わらず水をうったようにしんとしている。両隣のクラスから漏れ聞こえてくる物音だけが、時の流れを知らしめていた。手にしたほうきをぎゅっと握り締めると、美鶴は意を決して振り返った。
はたして亘は、美鶴の一歩後ろに佇んでいた。鞄を胸にぎゅっと抱き締めている。
だがその表情はあまりにも美鶴の想像からかけ離れていて。美鶴は思わずうろたえてしまった。
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20061216
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