間違ったっていいじゃない






 いつもにこにこと機嫌よく、学校生活に対する姿勢は意欲的だ。授業は真面目に聞いているし、発言もよくする。宿題を忘れたなんて話は、今のところ聞いたことがない。また自分だけが苦労することを厭わないらしく、頼まれれば気安く宿題やノートを提供する。面倒ごとを押し付けられても、ちょっとだけ困ったような顔をするだけで、引き受けてしまう。それが三谷亘というヒトだった。

「亘ぅ、宿題忘れてた!」
「カッちゃん……、またかよ」
 始業前の他愛無い会話から、宿題の存在を思い出したらしい小村が亘に泣きついているのを、自分の席に腰かけた美鶴は聞くとはなしに聞いていた。彼らの席は教室の後ろの方なので、声以外のやり取りを知ることは出来ない。
「早くしないと、先生来ちゃうよ」
「サンキュー、恩に着るぜ」
「いいからさっさと写しなって……」
 亘の呆れ声に続いて、慌しく椅子を引く音が耳に入った。朝から騒々しいことである。

 ため息を吐いた美鶴は、彼らから意識を引き剥がした。宿題を写し終えるまで、小村は勿論亘も口を利くとは思えない。だがそうせずにはいられなかった。
 同じクラスになってから、美鶴は気がつけば亘に注意を払っていた。そんなつもりはないのに、彼の言動を目で、耳で追っている。亘には、美鶴を意識しているような素振りがないにも関わらずだ。

 以前は、亘の視線にもやもやとした気持ちの悪さを感じていた。だが今となっては、こんなにまで亘のことを気にしている自分の動向に、苛立ちにも似た思いを抱いている。考えまい、考えまいとすればするほど、思考が彼の元へと向かってしまう。しかも原因が分からないから、自らに対する憤りは増すばかりだ。宮原の言う通り、亘はいいヤツだというのに。

 いや。
 いいヤツっていうより、ただのお人好しだ。
 誰に聞かれている訳でもないのに、美鶴は律儀にも心の中でそう訂正した。机に肘をつき、組み合わせた手の上に顎を預けると、僅かに目を伏せる。思わず零れ落ちそうになったため息は、すんでのところで飲み込んだ。クラスメイトに見咎められて、どうかしたのかと問われるのはごめんだった。同学年の男子生徒に比べて、線が細く色の白い美鶴は、些細な仕草で具合が悪いと勘違いされがちだ。

 教室内は、始業前のお喋りを楽しむクラスメイトたちの声で、ざわざわと落ち着きがない。美鶴も気が向けば会話に参加するのだが、今日はとてもそんな気分にはなれなかった。一人でぼんやりと、黒板を眺める。昨日の日直は大雑把なヤツだったのだろう。黒板に、うっすらと授業の内容が見て取れる。このままにしておいては、朝から担任のお小言を頂戴しかねない。
 仕方なく美鶴は、椅子を引き席を立とうとした。昨日の日直が誰だったか覚えていないし、今日の日直に頼むのもなんだか面倒だと思ったからである。学級委員でもない美鶴が、日直の仕事にけちをつけるなんて、反感を買うかもしれないからだ。
 だが美鶴が席を立つより早く、傍らを過ぎる人影があった。
 そのヒトは真っ直ぐに黒板へと向かうと、黒板消しを手に取った。それから手早く、かつ丁寧に黒板を消してゆく。惰性で立ち上がってしまった美鶴は、その様子をじっと見つめていた。

「おっ三谷、わりーなぁ」
 教室の中ほどからかけられた声に、黒板消しを溝に置き、手を叩いていた亘が振り返った。笑顔に、ちょっとだけ困ったような色を滲ませている。
「ちゃんとしとかないと、叱られるのは日直だぞ」
「えっへっへ、わりーわりー」
「ごめんね三谷」
 そう言って黒板に名を記された、今日の日直二人が亘に拝むような素振りを見せている。亘は軽く肩を竦ませると、今一度黒板を検めた。それから席へ向かって歩き出す。

 亘の所作に、美鶴は我に返った。自分が立ちっぱなしであることを思い出し、慌てて席に着く。俯いて、亘をやり過ごそうとしたのだが、美鶴の目論み通りにはいかなかった。
「ありがと」
 唐突に頭上から降ってきた言葉に、美鶴は思わず顔を上げていた。視線の先に、優しげな笑みを浮かべた亘の姿を認める。その笑顔になんだか居た堪れないものを感じて、美鶴はすぐに顔を伏せてしまった。と同時に苛立ちも覚える。何故美鶴は彼を前にするとこうなのだろう。なにもやましいことはないのに、自分でも驚くほどうろたえてしまう。

 そんな美鶴の態度をどう思っているのか窺い知れない調子で、亘は言葉を重ねた。
「芦川も、気づいてたんだろ? ありがと」
「……なんでおまえが感謝する訳?」
 亘の言い分を、漸く理解した美鶴はぶっきらぼうに答えた。今日の日直でも、昨日の日直でもない亘に、礼を言われる筋合いはない。にも関わらず、当たり前のように感謝を口にする亘に、美鶴は激しい憤りを感じた。

 三谷はいいヤツ? それは彼を都合よく使っている連中が、罪悪感を覚えない為に繰り出す逃げ口上ではないのか。勿論宮原のように、単純に亘の人となりを見ていいヤツだと評価する者もいる。だが同じクラスになってみて、美鶴は亘のお人好しっぷりにほとほと呆れていた。亘も亘で、少しは腹立たしく感じたりしないのだろうか?
 
「お人好し」
 気がつけば、そんな思いが冷たい口調となって吐き出されていた。美鶴にしてみれば、何気ない一言である。だが亘の反応は、美鶴の予想外だった。

「えっ……」
 どこか呆然としたような、それでいて衝撃を含んでいるような声音だった。ぽつりと呟かれただけだったけれども、ひどく印象的な口振りである。訝しく思った美鶴は、ゆっくり面をと上げ、亘の顔を見た。驚きに、息を飲む。

 亘は、先刻とは打って変わって表情を強張らせていた。それは青ざめているといっても過言ではないほどだった。震える口唇が、何事か言いたげに開かれる。どうしてだか美鶴は、その言葉を聞いてはいけないと思った。だが金縛りにでもあったかのように、亘の顔から目を離せない。

 学校中に響き渡るチャイムの音に、美鶴は我に返った。改めて亘の様子を窺えば、彼もはっとした表情を浮かべている。美鶴は慌てて視線をそらした。
 その時、がらりと引き戸が開いて、担任が教室へと入ってきた。席に着くよう指示する声に、大きなため息を吐いた亘が、美鶴の傍らから立ち去る。美鶴はほっと安堵の吐息を漏らした。訳が分からないままに、それでも今の出来事を決して深く考えてはいけないのだと、思った。






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20061206



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