君にあった日それは優しさを知った日






 目にいっぱいの涙を浮かべて、足早に近寄ってくる見ず知らずの他人がいたら、誰でも驚き、訝しむだろう。そしてこう思うのではないだろうか。ああきっと、このヒトの目当ての人物が、自分の後ろにいるに違いないと。

 翌日から通うこととなった小学校に、手続きの関係で妹と二人訪れていた美鶴は、まさにそんな状況に置かれた。美鶴と、妹のアヤの担任になる教師に挨拶し、必要な書類を提出して、さあ今日はこれで帰ろうかと、昇降口へ向かった後のことである。

 昇降口に辿り着いた美鶴とアヤは、翌日から使用することとなる下駄箱の場所を確認してから、借りていた来賓用のスリッパを所定の位置に戻し、適当な場所で靴に履き替えていた。アヤは明日からの新しい学校での生活が楽しみでならないのか、いつもより随分と浮かれていた。さっさと靴を履き替えてしまうと、美鶴の制止も聞かずに、ぱっと走り出す。

 あっと思う間もなく、アヤはちょうど玄関を入ってきた二人組の生徒のうちの一人に、ぶつかってしまった。そのまま転がるかと危ぶんだが、なんとか踏みとどまったようである。ぶつかられた方も、なにやらアヤを気にして声をかけてくれているようだ。美鶴と同い年くらいの、優しそうな面持ちの男子生徒である。美鶴は安堵のため息を吐いた。小学生だって、性質の悪いのもいる。

「アヤ」
 ともあれ何事もなくてよかったと、美鶴は妹の名を呼んだ。弾かれたように、アヤが振り返る。
「お兄ちゃん」
「勝手に行くなって、言っただろ」
 咎めるような視線を向けると、アヤは首を竦めてごめんなさいと言った。美鶴の右腕にその両手を絡ませ、えへへと笑ってみせる。仕方のないヤツだなと、美鶴は苦笑した。それから先刻アヤが迷惑をかけた生徒に謝罪するべく、顔を上げた。
 
 呆気に取られた顔を、していたんじゃないかと思う。だがそれも当然だと、思う。何故ならば先の生徒が、目にいっぱいの涙を浮かべて、足早に美鶴たちの方へと向かってきていたからだ。美鶴は勿論アヤだって、この学校へ転校するのも、この土地自体に来るのも今回が初めてのことである。知り合いがいよう筈もない。

 突然の出来事に、美鶴は一瞬途方にくれてしまった。だがすぐにあることに気がついて、あまりの馬鹿馬鹿しさについ笑みを浮かべてしまう。なんてことはない、彼の目当ての人物は、美鶴とアヤの背後にいるのだろう。

 美鶴はなんとなく気になって、顔だけで後ろを振り返ってみた。小学校の昇降口には、ひどく場違いな彼の様子に、ちょっとだけ好奇心を刺激されたからである。彼はまるで――そう、生き別れの肉親に漸く巡り会えたような、そんな雰囲気をまとっていたのだ。一体どんなヒトが、どんな事情で彼にこんな表情をさせているのか、気にならない訳がない。

 だが昇降口と平行して走る廊下に、人影を見出すことは出来なかった。

 美鶴は首を傾げつつ、視線を前方へと戻した。なんとなく釈然としないものの、まあ自分には関係のないことだからと、右腕にまとわりついているアヤを促して、歩き出す。当然のことながら、先の生徒の顔が、視界に入った。
 その表情のあまりの変わりように、美鶴は思わず足を止めていた。唐突に歩みを止めた兄を不審に思ったのか、アヤが小さな声でお兄ちゃん? と問いかけてくる。

 アヤの声で我に返った美鶴は、彼女を見下ろすと、なんでもないと言う代わりに首を横に振った。彼女の手を引いて、今一度歩き出す。極力彼の顔を見ないようにして、その横を通り抜けた。どうしてだか胸の辺りがもやもやと疼いて、美鶴は顔を顰めてしまう。

 不意に玄関口に佇んでいた彼の連れらしき生徒が、はっとした表情で声を上げた。
「おい、亘? おまえ一体どうしちゃった訳?」
 美鶴とアヤは、ばたばたと件の生徒――ワタルという名前らしい――に駆け寄るその子もやり過ごして、校舎を後にした。一歩扉を出てしまえば、喧しいワタルとやらの友達の声も、はっきりとは聞こえなくなった。だが廊下には随分反響しているに違いない。きっと、遅かれ早かれ教師に叱られる筈だ。

「なんだか変なお兄ちゃんたちだったね?」
 そんなどうでもいいことを考えていた所為だろうか、美鶴はアヤの言葉を聞き逃してしまった。
「え?」
 どこか茫漠とした調子で呟くと、アヤがぷくっと頬を膨らませた。
「もう、聞いてなかったの?」
 非難がましい口調でもって、言う。美鶴はごめんごめんと謝った。

「仕方ないから、許してあげる」
「そうしてくれると、嬉しいな」
 他愛ない喧嘩に終止符を打ちつつ、二人は校門に向かって歩いていた。まるで二人を見送るかのように、チャイムが鳴り響く。きっと、朝のホームルームの始まりを告げるものだろう。ふと、彼らは遅刻をせずにすんだのだろうかと思った。

「……ぶつかったお兄ちゃん、どうしちゃったんだろう……」
 アヤが、誰に聞かせるでもないといった風に、囁いた。ちらちらと、顔だけ振り返って、校舎を気にしている。美鶴が気がついたように、アヤも気がついていたのだ。だがそれよりも、あまりにもタイミングの良いアヤの台詞に、美鶴はどきりとしてしまった。心の内を、アヤに見透かされているような気分になる。
 だがそんなことは微塵も表に出さずに、美鶴はぽつりと口にする。
「そうだね、どうしちゃったんだろうね」

 生き別れの肉親に漸く巡り合えたような、喜びに満ち溢れた顔をしていた彼。
 この世の終わりをその目で見てしまったような、苦痛に満ち満ちた顔をしていた彼。
 単なる通りすがりのヒトだけれども、それでは済まされないような何かを、美鶴たちは見てしまったのではないか。

 その時、またしても胸の辺りがもやもやと疼いて、美鶴は眉を顰めた。左手で、ぎゅっと胸元を掴む。しかしそのもやもやは、一向に消え去る気配を見せなかった。いつまでも胸の中に巣食って、美鶴に謂れのない罪悪感のようなものを覚えさせる。
 そうだ、この感覚は、罪の意識に似ているのだと、美鶴は気がついた。

 だがどうしてそんなものを見ず知らずの彼に感じなければならないのかと、首を振る。そうすることで、おかしな考えを追い払えればいいと、思った。



 それきり、ワタルという名の生徒のことなど、忘れ去ってしまう筈だった。美鶴はもう、覚えのない妙な罪悪感に苛まれることなく、新しい学校で、新しい生活をスタートさせる予定だった。しかし、得てして物事は、そう都合よくいかないものである。
 
 前の学校では、どの程度授業が進んでいたのか教えて欲しい。担任にそう言われた美鶴は、転校初日の昼休みを、職員室ですごした。粗方の説明を終えた頃には、既に午後の授業の予鈴まで後僅かになっていた。美鶴は礼儀正しく職員室を辞すると、足早に教室へと向う。担任と確認してみて分かったのだが、教科によって進み具合に多少のずれがある。アヤの方でも、きっと同じような話をしているだろう。もしアヤが遅れてしまっている教科があるのなら、教えてやらなければならない。

 そんなことを考えながら、隣のクラスの前を通りかかった時だった。美鶴は不意に視線を感じて、俯きがちだった面を上げた。取り立てて探す必要もなく、美鶴は視線の主を見出すことが出来た。
 彼、だった。ワタル、と呼ばれていた生徒だった。ワタルは隣のクラスの扉口に佇み、じっと美鶴を見つめている。その不安定に揺らぐ瞳が訴えかけるものに、どうしてだか気がついてはいけないと思った美鶴は、慌てて顔をそらした。ぱっと駆け出すと、ワタルの前を俯いたまま通り過ぎ、自分の教室へと逃げ込む。廊下から一歩室内へ足を踏み入れたところで立ち止まると、ほっとため息を吐いた。途端に自らの行動が、随分と滑稽なものに思えてきて、美鶴は気がつけば自嘲の笑みを浮かべていた。

 落ち着いて考えてみればなんてことはない。彼はきっと、昨日のことを口止めしに来たのだ。二人の間には、他に接点がないのだから、まず間違いないだろう。

 それなのに美鶴は、逃げ出した。そう、まさしく逃げ出したのだった。何故彼を前にするとそんな風になってしまうのか、心当たりは全くない。

 自分の席へ向かいながら、アイツの所為だと、美鶴は独り言ちた。アイツが――ワタルが、あんな目で美鶴を見るからいけないのだ。あんな、まるで、美鶴自身が気づいていない罪を、咎めるかのような目で――。

「芦川?」
 出し抜けに声をかけられて、物思いに耽っていた美鶴は自分でも驚くほどびくりと身体を竦ませてしまった。美鶴の大げさな反応に、これまた驚いたのであろう。呆気に取られた口調で、学級委員の宮原が続けた。
「なに? なんかあった?」
「いや……」
 美鶴は吐息を吐くと、首を横に振った。宮原の隣の、自分の席に腰をかける。新しい学校に慣れるまで、面倒見のいい学級委員の隣の席が都合がいいだろうとは、担任の言である。当の宮原も、嫌な顔ひとつせず、朝からあれこれと美鶴の世話を焼き、担任の期待に応えていた。まだ小さな弟妹がいる所為で、どうもお節介になってしまうんだよと笑う彼に、やはり小さな妹のいる美鶴は親近感を抱いていた。

「そういえばさ、三谷、知ってるの?」
 机の中から5時限目の授業に使う、真新しい教科書を取り出している美鶴に、宮原が問いかけてきた。美鶴は手を止めると、宮原を見て首を傾げた。
「ミタニ?」
「さっき廊下で、芦川のことじっと見てたから、知り合いなのかと思って……違うの?」
「ああ……」
 美鶴はちょっとだけうんざりしつつ、ため息混じりの相槌を打った。別に望んだ訳でもないのに、どうして彼の話が降りかかってくるのだろう。

「知らない、全然知らない」
 とりあえず、そう言っておく。
「そう?」
 だが宮原はいまいち腑に落ちない様子である。腕を組んで、じゃあなんであんなに芦川のこと見てたんだろうと、首を捻っている。それも当然かと美鶴は思った。美鶴だって、立場が逆だったら不審がるに違いない。宮原が見て、二人は知り合いなのかと勘違いするほど、ワタルは美鶴を凝視していたのだ。転校生の世話を頼まれている学級委員としては、ちょっと気になる様子だったのだろう。昨日の出来事を知らないのだから、当たり前の反応といえる。

 けれども美鶴は、昨日のことを宮原に話してしまう気にはならなかった。脳裏を過ぎるワタルの姿に、またしてももやもやとするものを感じながら、一番当たり障りのない解釈を提示してみる。
「きっと、転校生が物珍しいんだろ」
「ああ、まあ、そうかもね」
 宮原は、一応は納得したようだった。
「特に芦川は目立つから……」
 意味深長な沈黙を挟んでから、宮原は言う。
「その容姿でね」
「なに言ってるんだよ」

 美鶴が苦笑すると、宮原も笑みを浮かべながら、なにをご謙遜をと冗談めかして口にする。それだけで先刻までの嫌な雰囲気が、吹き飛んでしまった。美鶴は嫌な話題から逃れられたことに安堵しつつ、宮原と軽口をきいていた。宮原となら、いい友達になれるのではないかとふと思う。

 そう、ワタルのことなど気にしなければいい。どうせクラスが違うのだから、接点といえば時折廊下ですれ違うだけだろう。それよりも今は、早く新しい学校に慣れることが重要だ。アヤの為にも、転校はこれっきりにしたかった。小学校という狭い世界で勘違いしている馬鹿に目をつけられぬよう、目立たず、騒がず、静かにひっそりと生きてゆくのだ。アヤと二人で。

 スピーカーから流れるチャイムの音と同時に、担任が教室に入ってきた。どうやら美鶴は、予鈴に気づいていなかなかったらしい。
 宮原がまた後で、という意味を含ませて手を振る。美鶴はこっくりと肯いた。宮原の号令の声に、教室内が俄かに静かになる。

 教科書を開きながら、美鶴は今一度自分に言い聞かせていた。アヤと二人で、静かにひっそりと生きてゆくのだ。ずっと、ずっと。その為ならば、美鶴はなんだって出来る。

 ――なんだって、出来る?

 どうしてだか早まる鼓動に、美鶴は口唇を噛み締めた。






 彼の名を再び意識したのは、半年以上経ってからのことである。

 美鶴は昇降口前に貼り出された新学年のクラス分けを、ぼんやりと見上げていた。自分の名前は、もうとっくに見つけている。親友の宮原の名前も、同じクラスの欄に見出していた。アヤのクラスにいたっては、アヤと一緒に、朝一番に確認している。アヤは同じクラスになった友達と連れ立って、とっくに教室へと去っていた。
 それでも美鶴がクラス分けから目を離せないでいるのは、ひとえにあるヒトの、名前の所為だった。それは美鶴のずっと下、宮原のすぐ上に記されていた。

 三谷亘――ミタニ、ワタルと。

 ――折角、忘れかけていたのに。
 その表記が意味するところを思い、美鶴は深いため息を吐いた。貼り出されている用紙から漸く目を離すと、のろのろとした足取りで、新しく割り当てられている下駄箱へと向かう。辺りはクラス分けを見上げる生徒で溢れていて、喧しいくらいなのに、美鶴にはまるで遠い出来事のように感じられた。

 クラス分けの、名前の横にふられていた出席番号と、同じ数字が書かれている下駄箱に外履きを突っ込みながら、美鶴は今日二度目のため息を吐いた。ついでに、彼の出席番号の箱をちらりと盗み見る。そこには既に外履きが納められていた。
 持参した上履きに履き替えると、美鶴は重い足取りで教室へと向かった。宮原がもう来ているようにと、心の中で祈る。

 階段を上り、廊下を進むと、昨年同じクラスだった友達との別れを惜しんでいるのか、方々で生徒たちの塊が盛んにおしゃべりをしていた。その内容は主に新しいクラス編成と、担任の予想のようである。まるで井戸端会議の様相だ。
 それらを横目で見ながら、美鶴は三度目のため息を吐いた。ため息の数を数えているようじゃおしまいだと、自嘲する。だが晴れない気分はどうすることも出来ない。すぐに四度目のため息を吐いてしまった。思わずアイツの所為だと、責任転嫁する。亘におかしな態度を取られたのなんて、結局件の二日間だけだったというのに。

 だが美鶴も、先刻までは確かに忘れかけていたのだ。そうなるよう努力したし、なにより問題の、全てを見透かしたような亘の眼差しを感じなくなったのだから、当然だったろう。勿論、一切目が合わなくなったということではない。しかしそれらは同じ小学校の、隣のクラスで生活している以上、仕方がないと思える程度のものだった。
 
 それ故美鶴は、こう考えた。自分はきっと、亘の知り合いに似ていたのだろうと。
 初対面のあの日は突然のことに、亘は完全に勘違いしていたのだ。翌日は、あまりにもよく似た美鶴をついまじまじ見つめてしまったとか、前日の口止めをするつもりだったとか、そんな理由に違いない。
 けれども美鶴は、亘の知り合いではないのだ。すぐに美鶴のことなどどうでもよくなって、興味を失ったとしても不思議ではないし、つじつまも合う。

 ところが美鶴の方では、こんなにも亘のことを引き摺っている。いや、引き摺っていたのだと気がついた。もう特におかしな態度を取られている訳じゃないのに、同じクラスになっただけで、これほど落ち着かない気持ちになるなんて。おかしいのは亘ではなく、美鶴ではないのか。

 どうして亘のことを思うと、胸がざわつくのだろう。もやもやとした焦燥感に苛まれ、居た堪れなくなり、謂れのない罪悪感を覚えなければならないのだろう。

 半年以上見ないふりをしてきた疑問が、いままた美鶴の内でむくむくと頭をもたげ始めていた。

 五度目の大きなため息を吐いた時、美鶴は教室の前へと辿り着いていた。開け放たれた引き戸から、始業前の喧騒が漏れ聞こえてくる。
 美鶴は一旦、足を止めた。僅かに躊躇ってから、思い切って教室内に踏み込んでみる。幸いにもクラスメイトたちは各々おしゃべりに夢中なようで、無言で入ってきた美鶴に注意を向ける者はいなかった。

 ほっとした美鶴が黒板に目をやると、そこには大きな文字で、出席番号順に廊下側から着席するようにと書いてある。美鶴は極力教室内――特に窓際を見ないようにしながら、自分の席を確認し、そそくさと席に着いた。周囲の生徒が美鶴に気がつき、おはようと声をかけてくる。
 だが恐れていた視線は、一向に感じられなかった。
 美鶴は途端に気恥ずかしくなり、どことなくうわの空な調子で、クラスメイトの挨拶に答えた。胸中では、馬鹿馬鹿しいと毒づく。

 視線が感じられない? そんなの、当たり前だ。亘はもう、美鶴のことを気にしてはいないのだから。その理由だって、美鶴はちゃんと推測出来たじゃないか。それなのにどうして美鶴は、また亘に見られるんではないかと思ってしまったのだろう。これじゃ、まるで――。

 まるで美鶴は、亘に気にしていて欲しいみたいじゃないか?

 自らが思い当たったとんでもない考えに、美鶴は慌てて首を振った。もう数える気にもならないため息を、吐く。そんなことあり得ないのに、美鶴の心境を顧みるとそうとしか考えられないだなんて、絶対におかしい。何かが間違っている。

 美鶴は鞄をわきにかけると、机に両肘をついた。手を組み合わせると、そこに額を預ける。ゆっくりと瞼を閉ざして、暗闇の中に身を置くと、周囲の喧騒が余計に喧しく聞こえた。だが今の美鶴にとっては、まるで自分という存在が薄れていくようで、ありがたかった。堂々巡りを続ける思考に、いささか疲れていたのかもしれない。いくら問うてみたところで、美鶴の中には用意されていない答えを、引き出すことは出来ないのだから。

「芦川っ!」
 しかし暗闇の中で得られた安息も、ほんの僅かな時間で破られることとなった。
 周囲のおしゃべりをものともしない大きな声で、しかも名指しで呼ばれては、流石に無視することも出来ない。美鶴はやはりゆっくりと、瞼を開いた。伏せていた面を上げ、声のした方を振り返る。かけられた声音に覚えがなかったから、きっと訝しげな顔をしていたと思う。

 美鶴の視界にまず飛び込んできたのは、にこにこと優しげな笑みを浮かべた宮原の姿だった。一番窓際の列の、中ほどの位置に腰掛けている。美鶴と目が合うと、宮原は左手を机につき、中腰になった。美鶴に向かって、ぱたぱたと右手を振る。
「おはよう、また同じクラスだな」
 聞きなれた親友の声に、言葉に、美鶴は途端に気が緩むのを感じた。自然と表情も和らぐ。

 安堵から、その面にほんのりと笑みを浮かべた美鶴は、宮原に返事をしようとして口を開きかけた。しかしその時になって初めて気がついた彼の存在に、顔を強張らせるに止まった。何故こんな当たり前のことに思い及ばなかったのだろうと、臍を噛む心持ちだった。

 先刻まで宮原と話をしていたのだろうか。椅子を随分と横に引き、斜めに腰掛けている。右手の平を宮原の机に、左手の平を自分の机についている格好は、まるで今にも立ち上がりそうな雰囲気である。中途半端に開かれた口から、先刻美鶴の名を呼んだのが彼だったと知れた。驚愕と不安の入り混じった表情は、一体なにを物語っているのだろうか。

 宮原の前の席に腰掛けた亘は、真摯な眼差しをじっと美鶴に向けていた。
 
 胸が締めつけられるような感覚に、美鶴は眉を顰めた。注がれる視線に、顔をそらしたくて堪らなくなる。だがそれでは、宮原まで無視することになってしまう。宮原は大切な友達だ。決してそんな風にはしたくない。

「芦川?」
 一向に応じようとしない美鶴を不思議に思ってか、宮原は首を傾げている。訝しげな口調で、美鶴の名を呼ぶ。

 逡巡している場合ではなかった。取れる道はただひとつである。同じクラスになってしまった以上、これからの一年間を上手くやり過ごさなければならない。こんなことで挫けている場合ではないのだ。そもそも亘の視線に深い意味のないことなど、この半年間で十分に知ったではないか。なんらかの事情があるのなら、とっくに接点を持たれている筈だろう。だが実際はそんなことなかった。美鶴が勝手にだらだらと意識し続けていただけである。今だってきっと、宮原に美鶴の話を聞かされて、気まぐれで呼んでみたとか、その程度のことに違いない。

 美鶴は心を落ち着かせようと、軽く深呼吸する。自意識過剰もいい加減にしなければならないと自らを諌めつつ、口を開いた。
「おはよう。ごめん、ちょっとぼうっとしてた」
 彼らに聞こえるよう、幾許か声を張り上げる。口元に笑みを浮かべて、普段となんら変わらない調子になるよう、慎重に言葉を発した。

 美鶴の努力が功を奏したのか、途端に宮原はどこかほっとしたような表情を浮かべた。椅子に腰かけつつ、なにやら亘に話しかけているようだが、周囲が喧しくて内容までは聞き取れない。二人は塾が一緒だと宮原から聞いていたが、美鶴が思っていたよりずっと親しそうな雰囲気だった。宮原の言葉に、相変わらず美鶴を見つめていた亘は、困ったような顔をした。それから宮原の方を向くと、何事か答えている。しかし亘の声も、美鶴の元へは届かなかった。それがどうしてだか腹立たしくて、美鶴は彼らから視線をそらした。前を向き、椅子にきちんと腰掛け直す。机の上で腕を組むと、じっと本鈴が鳴るのを待った。今日は始業式だから、簡単なホームルームの後に体育館へ移動することとなっている。その時にでも宮原に、亘となにを話していたのか聞けばいいと思った。

 まるで嫉妬でもしているかのような心境に、美鶴は自嘲の笑みを浮かべるしかなかった。



「なんか、おまえの様子がおかしいって、具合でも悪いんじゃないかって、言い出したんだよ」
 体育館へ続く廊下を、クラスメイトに交じって歩きながら、宮原はそう解説してみせた。ちょっと困ったような顔に笑みをのせて、先を続ける。
「芦川、顔伏せてただろ? だからみたいなんだけど。気のせいじゃないかって言っても聞かなくて、止める間もなく叫んでた」
「ふーん……」
 美鶴は目を伏せると、小さな声で相槌を打った。なんとなく、手にした体育館履き入れを眺める。それは美鶴の歩調に合わせて、ゆらゆらと前後に揺れていた。

「三谷、俺のこと見てたんだ」
 暫くその様子を見つめてから、美鶴は口を開いた。少しばかり刺々しい語調になってしまったのは、仕方のないことであろう。やっぱり、という単語が脳裏を過ぎる。単に気がついていなかっただけなのだ。
 視線を上げると、少し前方を歩く亘の姿が目に入った。小村と――あの日、亘と一緒に登校してきた生徒だ――楽しそうに話をしている。
 そんな二人の姿をどうしてだか見ていたくなくて、美鶴は再び俯いた。

「ああ、それは」
 すると宮原が、まるで美鶴の心中を察したかのように、亘をかばった。
「俺が芦川だって、言ったんだ。おまえが教室入ってきた時だけど。また同じクラスで良かったとか、そんな話、してさ」
 だから俺の所為なんだよね――。宮原は最後にそう呟くと、それきり口を閉ざしてしまった。廊下を行く生徒たちのざわめきにかき消されてしまいそうな、小さな声だった。
 だが隣を歩く美鶴には、幸いにもしっかりと聞き取れた。言外になにかを伝えたげだということも、なんとなく理解した。だから美鶴は沈黙を守り、宮原の次の言葉を待つこととした。

 宮原は、なかなか口を開こうとしなかった。その間も二人は、生徒の波に紛れて体育館への道を着々と進んでいる。このままでは話を終える前に、体育館に到着してしまうのではないかと心配になった美鶴は、横目で彼の様子を窺った。
 宮原は目を伏せ、じっと床を見つめている。しかし実際は床よりももっとずっと遠いところを見透かしているように感じられた。宮原をそれほどまでに逡巡させるなんて、一体なにを言われるのか、美鶴はちょっとだけ落ち着かない気分になる。

 生徒たちの群れは一斉に階段を下りた。一階に辿り着くと、またしてものろのろと廊下を進む。体育館はもう、目と鼻の先であった。

「芦川はさあ」
 宮原は、黙り込んだのと同じくらい唐突に、言葉を発した。ひどく言い難いことだからこそ、極力なんでもない風を装っている、そんな口振りだった。
「うん?」
 美鶴が相槌でもって先を促すと、宮原はひとつ息を吐き出してから続けた。
「もしかして三谷のこと……嫌い?」
「……なんでそう思うの?」
 咄嗟にそう答えるのが精一杯だった。だがその声は、隠しようのない動揺に震えていて。察しのいい宮原にはそれだけでもう、十分答えになってしまったようだった。

「そっか……」
 宮原の大きなため息に、美鶴は弾かれたように顔を上げた。見れば宮原も、いつの間にか面を上げている。視線を辿れば、どうやら亘の背中を見つめているらしい。
 なんとも返事のしようがなくて、美鶴は結局口を噤んだまま、宮原に目を戻した。まるでなにもかもを了解しているような彼の態度に、ちょっとだけ腹立たしいものを感じる。

 すると美鶴の物言いたげな視線を感じたのか、宮原がゆっくりと顔を向けてきた。瞬きをしてから、残念だなと呟いた。美鶴は首を傾げる。
「なにが?」
「三谷、いいヤツだよ。頭もいいから、話してて楽しいし。それに俺なんかより、ずっとしっかりしてるし」
「それで?」
 なにを言われているのか微塵も分からない美鶴は、苛立ちを隠しきれなかった。吐き捨てるような語気に、宮原は困ったような顔で苦笑する。
「芯が強いっていうのかな? 自分をちゃんと持ってるんだ。だから……芦川と気が合うんじゃないかなって……思ってたんだけど……」

 まあどうしても虫の好かない相手って、いるもんな。宮原は口早にそう言うと、不意に屈みこんだ。見れば上履きを体育館履きに履き替えている。それで漸く美鶴も、体育館に着いたのだと知った。話に夢中になっていて、周りが全く見えていなかったようである。

 美鶴も宮原に倣って、慌てて履物を替えた。上履きを手持ちの袋にしまって顔を上げると、美鶴を待っていてくれたらしい宮原と目が合う。
「余計なお世話だったな、ごめんな」
 静かに語られる謝罪に、美鶴はゆるゆると首を振る。宮原の潔い態度に、自分の矮小さが途端に恥ずかしくなった。

 宮原は口元に笑みを浮かべると、踵を返して体育館の中へと向かった。その背中を美鶴も追う。
 一年生から順に移動を行う為、美鶴たち六年生が体育館へ入る頃には、他の全ての学年の整列が終わっている。後は六年生が並び終えれば、始業式の始まりだ。

 まだきちんとした並び方の決まっていない始業式は、体育館へ入った順に列につくよう指導されている。従って美鶴は、宮原のすぐ後ろに並ぶこととなった。少し前には亘と小村が、やはり前後に並んで列についている。
 目前の宮原の背を眺めながら、美鶴はこっちこそごめんと呟いた。すると宮原は右手を上げて、いいんだと言わんばかりに振ってくれた。美鶴は安堵のため息を吐く。なにもかも話してしまえればいいのに、と思った。

 しかし美鶴も自身理解していないことを、一体どう説明すればいいのか。虫が好かない、宮原はそう表現してみせた。けれどもそんなに簡単な話ではないのだ。
 ――三谷、いいヤツだよ。
 宮原が言うのだから、確かにその通りなのだろう。しっかりしてるとか、芯が強いとかは、まだお子様を抜け切れていない外見からは想像し難いけれども、それもきっとその通りなのだろう。

 だが亘の視線に様々な戸惑いを覚える限り、美鶴が彼と親しくすることは、不可能だ。亘と仲の良い、宮原には悪いけれども。

 美鶴は宮原に気づかれぬよう、密かにため息を吐いた。それからぎゅっと唇を噛み締める。
 マイクを通した教員の声を合図に、始業式が始まった。






間違ったっていいじゃないへ


はあ? と思われるかもですが、お題全部でひとつのお話です。
引き続きお楽しみ頂けますと是幸いv

20061128




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