ハイシーズンは指定券が瞬時に埋って、取れないと聞いていたが、幸いにも一ヶ月前の朝、それも進行方向右の窓側で取れた。
・1936年(78年前) 十二湖駅の次の陸奥岩崎駅から深浦駅の間を最後に全通し、「五能線」と改称された
・1966年(48年前) 自分は五能線沿いを浦から浦へ車で旅をした
・1984年(30年前)まで貨車客車混合列車が走っていたが、この年で国鉄最後の混合列車が廃止された
・1990年(24年前)「リゾートしらかみ」の前身である観光列車「ノスタルジックビュートレイン」が運行開始された
・1997年(17年前) 快速「リゾートしらかみ」が走り始めた。10月1日 あきた白神駅新設
・2001年(13年前) ウェスパ椿山駅新設
・2005年(9年前) 水森かおりの新曲「五能線」リリース、「恋にやぶれた女ひとり旅、窓いっぱいに日本海」
自分には、「五能線は失恋した女が乗りにくるうらぶれた路線」というイメージが刷り込まれていたが、 今回、五能線の歴史をチェックすることで、その刷り込みは間違いであったことを知った。
48年前の8月、この五能線沿いを車で走り、観光しており、その当時の思い出がその刷り込みになったのかも知れない。
弘前(8:49)-千畳敷(10:19)
青池号の先頭
青池号の車内
青池号の車内、シート・ピッチが広いので快適。
車窓より岩木山を望む
演奏は他の車両でもテレビで見ることができる。男性の奏者は固定していて、女性は替わるようだ。
男性のバチさばきは本物て、曲弾きも披露された。
津軽三味線の伴奏で、女性が津軽民謡を歌ってくれた。
鯵ヶ沢の手前で写した海岸
五能線鯵ヶ沢駅。
48年前、この町で大間越街道(地図で海沿いの黄色の県道)を街中で右折して、鯵ヶ沢街道に入り、岩木山・弘前へ向かった。
自分の乗った「リゾートしらかみ2号」は、千畳敷駅で15分間停車し、乗客が海岸まで出られるように配慮されていた。
千畳敷の駅名標
千畳敷への入り口
千畳敷海岸、48年前とさして変わっていないが、上の写真の石柱と階段は無かった。

深浦駅手前の沿線風景、この一連の海岸沿いの景色が五能線の売り




下は、48年前の写真、日本海をバックにした五能線、上の写真とほぼ同じところかもだが、深浦駅の先の景色かもしれない。
深浦駅の正面
ここまでの途中、車掌が「終点深浦駅」と放送していたのを耳にしてはいたが、本当に終点とは、駅に着くまで全く理解していなかった。
8月6日の豪雨により岩館駅手前の線路の地盤がえぐられて、線路が宙に浮いたニュースは新聞で読んだ覚えがあったが、
それが自分の旅に関係してくるとは露ほども思ってなかった。
その影響で五能線を使ったツアーに多くのキャンセルがでたようで、道理で車内がガラガラであったことに納得がいった。
深浦駅の改札で駅長さんに「終点ですか?」と尋ねたら、掲示板の前に連れていかれて、不通とバス代行の案内掲示を見せられて、やっと頭に入った。
自分は深浦駅でリゾートしらかみを降りて、2時間半後の普通列車で先に進むつもりであったので、問題はなかったが、まことにうかつであった。
しかし、バス代行のおかげで48年前に車で大間越街道を能代から鯵ヶ沢まで来た道筋をよりはっきりと思い出すことができたのは大変にラッキーであった。
駅長さんに、予定した2時間半後の普通列車のバス代行が運行されることを確認して、まずは「円覚寺」と「風待ち館」を訪ねるべく街中を歩き始めた。
途中、深浦町役場があったのでトイレを借りながら、掃除していた年配の女性に尋ねた。
「48年前にこの地に車で来て、このあたりの浜の海の家みたいな所で泊まったんですが・・・」。
その女性は、「それならこの辺ではなく、横磯でしょう。民宿があるし」という返事をもらった。
一泊二食、1000円で泊まったが、夕食に出てきた「あわび」は新鮮そのものだったが、硬いのと食べ慣れていない食材なのでそのまま残してしまった。
翌朝それは柔らかく煮付けられて、大変に美味であったことが記憶に強く残っている。
深浦港の海側から見て右手奥にある円覚寺にお参りした。
仏間にも入って拝観したが、奥様らしき方が業者と相談中であったので声かけは遠慮して退出した。
この階段下に樹齢1200年と推定されている杉の大木「竜灯杉」がある。木の上の方は裂けているように見えた。
「竜灯杉」から細い綱が手前まで垂らされていて、それを自分の額に当てて、『臨兵闘者皆陣裂在前』の9文字を唱えるべしとあった。
「江戸時代、深浦沖で暴風雨に遭った船乗りが髷を切り、一心に神仏に祈ったところ、この杉の梢から一条の光が放たれ、
船は光に導かれて無事に港にたどり着くことができたという。」そうした伝説から竜神が宿る杉と崇められ、「竜灯杉」の名がついた、とのこと。
館内に入るとまずは北前船の大きな模型がある。
もらった人が処分できずに寄贈されたそうだ

購入した資料冊子

「風待ち館」には北前船を勉強しにきたのだが、多くはレプリカらしいとは言え、正直言って、ここで古伊万里を見るとは予想もしていなかった。
北前船が多くの肥前磁器を東北にも もたらしたことを知ったのは、望外の収穫であった。
本来この深浦〜岩館間は、鯵ヶ沢〜深浦に劣らず、車窓に素晴らしい日本海の景色が続くはずだが、バスではそれは望めない。
しかし、代行バスのお陰で、48年前にこ辺りを車で通過した景色を思いだした。
その当時は、国道101号線は能代あたりまでで、その先は「大間越街道」が、海岸沿いの集落をつないでいたと思われるが、
深浦の手前で小さな峠というか岡を越えた記憶が残っていた。
岡越えの砂利道の左右は畑、要するに街道とはいえ、農道を通過していった。
実際にその場所に改めて来たわけだが、48年前の記憶が確かなものになったのはこの旅の収穫であった。
駅で代行バスを待つ地元の乗客はまず居ないのが常だが、「代行バスの常として」国道から一つ一つの駅に律儀に入って立ち寄る。
しかし、さすがにここは観光路線、「ウェスパ椿山駅」と「十二湖駅」ではかなりの観光客が乗車してきた。
岩館駅で列車に接続。
岩館駅の職員に乗換えをせかされながら先頭車両の海側に乗車、バスは10の駅を経由して遅れはたったの7分、能代に向かう。
車掌が「新幹線には間に合います」と放送していた。

阪急交通社のツアー客が大勢乗り込んできた。 年配の方々が多かったので、白神山地のブナ原生林の中でのハイキングを楽しみ、 駅前にある「あきた白神体験センター」で「白神体験」を楽しんできたのだろう。
ただ、問題は秋田白神駅を過ぎると海から離れるので、海が見れるのは一箇所のみ。
「五能線乗車」に引かれて参加した客は、ある意味、だまされたみたいになる。
海側の車窓に張り付いて海を見ていたツアー客のおばさんが「え、これだけ?」と声をあげ、不満たらたら席に戻った。
能代の手前、米代川の河口の所で添乗員が「海が見える」と説明していたが、実際に見えたのは河口の景色だけ、 添乗員も「不満残し」になるのはわかっていたわけだ。 列車は能代駅にほんの少しの遅れで到着。途中下車した。まずは、駅から歩10分の「旧料亭 金勇(かねゆう)」に向かった。
旧料亭 金勇の玄関口、確かに料亭の雰囲気、迎える松の姿が良い。
一階「満月の間」の天井、長さ9.1メートル、幅が最大で約1メートル、厚み25ミリほどの杉板が5枚使われている。
元になった長さ約10メートルの杉材は機械では板に引けず、人力で板にされた、とのこと、1枚の木挽に3日から4日を要したそうだ。
二階大広間、110畳。天井は畳一畳分の杢目の天然秋田杉を卍型に配した「秋田杉全面杢四畳半仕切格天井」、
床の間左にあるのが竹と木の根で編んだ花篭だがなにやら複雑でよく分からなかった。
二階大広間の床の間と床柱、および床柱の上の部分の始末。床柱は十和田湖畔から伐採された「いたや楓」だそうです。
一階「田毎の間」、茶室の「にじり口」のようにも思えた
建築関係の技術者らしい方が館員の説明で見学していたが、勉強する価値のあるもの家屋なんだろうと理解した。
見学後、能代駅前に戻り、観光協会の方に教えていただいた
「かねだ食堂」で能代うどんを食べた。細身のうどんで美味であった。
稲庭うどんとは違うようであったが、その違いはよく分からない。
東能代(17:23)-秋田(18:31)
車窓からは男鹿半島の寒風山が見え、手前には八郎潟の大きな水田が連続している。
昨日同様、水平線が赤い、幸いにも明日も晴れのようだ。
秋田駅に到着、投宿して旅の一日を終えた。