大垣(5:56)-米原(6:29)
米原(6:50)-敦賀(7:36)
敦賀(7:42)-加賀温泉(9:11)
米原で北陸本線に乗換え、時刻表通りに加賀温泉駅に到着。
駅の「加賀市観光情報センター」で今日一日の移動と見学に使う「キャンバス乗車券セット」を購入し、大聖寺町の地図など観光情報をゲット。 駅舎前のコインロッカーにバックパックを預け、しばし休憩後、JRで「大聖寺」駅に戻り、最初の訪問場所「石川県九谷焼美術館」に向かった。
石川県九谷焼美術館
入館し、右手に中庭を眺めながら回廊を進み、「青手の間」、その奥の「色絵五彩の間」を経て、「赤絵・金襴の間」に進んでグルっと一周となる。 それぞれの「間」に、ゆったりと作品が展示されていたが、量的に少なく、大して時間もかからず、三つの「間」を二周して見学を終了した。 それぞれの間の展示内容説明文、館内撮影不可のため写真はなし。
館内に配布資料として置かれてあった「東洋陶磁学会会報」のペーパー(コピー)「
江戸前期における上杉家を介しての鍋島家と大聖寺前田家の関連系図」には、
伊万里、有田を治めた佐賀藩鍋島勝茂(初代)、光茂(二代)と、
古九谷窯を創め支援した前田利常(加賀藩三代)、利治(大聖寺藩初代)、利明(大聖寺藩二代)とは大変深い姻戚関係にあった」と記されている。
また、「元禄6年(1693)鍋島光茂が有田皿山代官へ示達した「手頭」からは、次の二点が読み取れるとある。
@元禄6年までは有田皿山では他領の窯場へ出稼ぎ指南に行く絵書や細工人がいた
A泉山陶石が他領に持ち出されていた
注:「有田皿山」は有田焼の窯場、「泉山」は有田町東部にある元磁石場で日本磁器発祥の地、
17世紀初め朝鮮人陶工の李参平がここに磁器の原料を発見した場所
伊万里(有田・鍋島)と九谷には少なからぬ接点があったと考えられる研究報告だと思う。というか自分の腹にはストンと落ちた。
パンフレットの説明書きによると、
「江戸末期から明治にかけて活躍し、北前船主の中でも最大の勢力を誇っていたのが久保彦兵門家です。
六代目彦兵衛は海を見渡す小高い丘の上に豪勢な住宅を天保11年(1841)に建て、離れには大聖寺藩主もたびたび訪れたといいます。
久保彦兵門邸の母屋の部分がここ大聖寺に移築復元され「蘇梁館」として蘇りました。」とあった。
お茶を振舞われ、お話を伺い、庭を眺め、しばしゆったりとした気分を味あわせてもらった。
パンフレットの説明文によると、
「当家は、江戸時代から明治の中期にかけて日本海を雄飛した北前船主酒谷家の屋敷です。」、
また「全館紅がら漆塗りになっております。」
とあったが、「紅がら漆塗り」の知識に疎い自分にはわからなかった。
ここには北前船に関するさまざまなコンテンツがあった。
特に「文久4年(1864)酒谷家幸貴丸の積荷と利益」のパネル説明は興味深い。
パネルの内容を「両」以下切捨てで表示・計算してみると次の表になる。
文久4年(1864) | 買入れ | 売り | 年間利益 | 売上高利益率 |
---|---|---|---|---|
下り | 424両 | 484両 | 60両 | 12.4% |
上り | 3833両 | 6015両 | 2181両 | 36.2% |
船中費用 | ▲197両 | |||
合計 | 4257両 | 6499両 | 2044両 | 31.5% |
合計(現在価値) | 2.13億円 | 3.25億円 | 1.12億円 |
パネルにある「年間の利益」とは「粗利」になるだろう。 そこから船の造りかえ(減価償却)、遭難による積荷と船の損害への対応(損害保険)、買入れのための資金手当て(利息)などの 諸費用を差し引くことになるが、それにしても粗利で3割以上というのはすごい。
さらに「下り」と「上り」の金額の大きな違い、「買入れ」で9倍が、「売り」で12倍になるという数字は 経済格差と情報格差がもたらしたものと推定した。
「合計(現在価値)」は、文久4年(1864)は幕末期なので、1両がおおよそ5万円、千両で5000万円で計算してみた。 あくまでも仮の数字に過ぎないが、「億円」の単位になると、庶民としては途方も無い莫大な金額だし、 それだけの資金を動かせるのはいわゆる豪商しか居ないのも数字で理解できる。
北前船主はその地方の支配者や豪族と緊密な関係にあったわけで、自分としては「北前船」=「重商主義」そのものと理解した。
北国船、ハガセ(ハカイゾ)船、ベザイ(ベンザイ)船、西洋型の四船型に分類されている。
古伊万里になりますかね
違和感を感じるが、「古九谷色絵」という説明書きが見える
船着場のまん前の食堂「マルヤ水産」にてセルフ・サービスの昼食をし、隣の魚屋を覗くなどしてバスを待つ。
この加賀市橋立地区には路線バスが無い。コミュニティバスも無い。 ほぼ一時間おきに7本、一日券1000円のキャンバスしか通っていない。 車の運転ができないお年寄りにはつらい場所のようだ。
この橋立は、北前船が立ち寄った明治時代までは「日本一の富豪の村と言われたそうだが、それは昔の話。 後背地には片山津温泉、山中温泉があるが、「旨い蟹と魚の町・橋立漁港」と紹介されている海側からの経済は細ぼそ、というのが漁港前からの眺めであった。
14:03のキャンバスで、加賀温泉駅(14:37着)に向かった。
写真手前の石組みの下部が焚き口だそうだが、埋もれていてよくわからなかった。
パンフレットには文政9年(1826)、古九谷再興を志した大聖寺の豪商、吉田屋伝右衛門によって九谷村から移されたとある。
これだけ大規模な窯跡(登り窯)は見たことがない。
説明員から「一回に2万個の製品が入った」との説明があったが、それには大変な量の薪が必要だったはずで、焼成と窯の維持には大金を要したと思われる。
要するに、ここは「製陶工場」であったと理解した。
受付奥の建屋には展示室ほかがあり、そこも見学できるようになっていた。上の壺は展示されていたものの一つ。
本日早朝、夜行列車で大垣に到着したあと、夕方まで加賀をまわった疲れをおいしい日本酒で癒し、就寝。
明日は「現代の北前船」と呼ばれることもある「新日本海フェリー」にて秋田に向かう。