旅する言葉


旅が初まったのは、
1992年26歳の春でした・・・。
理由などなかった、
何かにつき動かされる様に・・・。


僕は、
生命(いのち)と共に旅にでた・・・。
世界へ旅に出た時から始まった言葉の旅。そして今も続く旅・・・
出あってくれた、すべてのものへ、感謝と共に記します。


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旅する言葉 1992



中国大陸、でかい。
河が存在する。その河は大地そのものが流れているかのように大きく、赤い。

                      4月19日 1992年


まだ俺はパリを撮っていない。

               4月23日 1992年 Paris,France


古い船の旅の世界だった。

俺は、シュールな絵は主題や背景(バック)があたたかみのあるのがいいと
思う。この無機質さとあたたかみのバランスがいい。

                4月25日 1992年 Paris,France


リズム感それは生(生きている(生命))である。

                4月26日 1992年 Paris,France


パリの雨上がり、
日がかげったら少し歩こう。ベンチに日が差し込んだらベンチに座ろう、
そんな時の流れ。

少しつめが伸びたみたいだ。
左の親指はルクセンブルグ公園で、人さし指はどこでけずろうか?

サッチモとノートルダムちょっと粋だぜ。

              5月 1日 1992年 Paris,France


空間とバランス それと生命を宿さなければならないのか?
だとしたらその方法は?

                 5月 2日 1992年 Paris,France


生と死。その意味、あたりまえの様に時が流れる。

                 5月 3日 1992年 Paris,France


人はみな自分のイメージによって行動しているのではないだろうか。

                 5月 7日 1992年 Paris,France


人がつくり上げるものは「錯覚」なのだろうか、「イメージ」それは
人が思考する事であり錯覚にすぎない。

5月 9日 1992年 Paris,France


人を撮るということは、俺が人を見る目であり人が何を感じているのかそれを
自分なりに理解しなければならないと思う。それには被写体である人間がいま
まで生きて来た時間、そして今の時間に何に感じたか、俺は全てに感じなけれ
ばならない。これは抽象的だが人間を撮るということはこういう事だと思う。
そして、人間を主題とした芸術は全て同じだとおもう。

5月24日 1992年 Paris,France


構図の単純化とはなんだろう、単純化するとどういいのだろう。
主題そのものだけを撮るということなのだろうか?違うような気がする。

6月 5日 1992年 Dijon,France


今日はいい天気だ。何か綿の様な物が空を舞っている、まるで今の俺のようだ。

6月 8日 1992年 Avignon,France


写真を撮るということは、誰にでもできる行為である。しかし、例えば同じ
ものを撮る行為には時間、背景、気持ち、無限にある被写体を見る角度・・・
全てがその一瞬である、これこそうつろいやすいものであり、抽象的な行為で
ある。

「イメージ」それはイメージであり「かたち」ではない。

       6月 9日 1992年 Avignon,France


今は港にあるカフェにいる。
“流れているのは、ヨットと車とそしてジャズ。”

6月20日 1992年 Marseille,France


人の意識と流れる時。俺はそれをつかむ事が出来るだろうか。

6月21日 1992年 Marseille,France


日本画は、ある意味において抽象画であり、ものすごく優れていると思う。

6月24日 1992年 Nice,France


カフェにいる。流れているのは、不思議な時と魅了のオペラ。

6月26日 1992年 Eze,France


シャガールは子供の様で素直絵。

  6月28日 1992年 Nice,France


家と家の間をぬう小さな道、人の気配はするが見当たらない。
この暑さのせいだろうか。
まるで他の世界にまぎれこんでしまったようだ。

6月29日 1992年 Menton,France


日本人はファッションに興味がある人がたくさんいる。だからファッションを
提案する人達はもっとしっかりしなければならないと思う。

7月 5日 1992年 Milano,Italy


短歌や俳句など抽象的な言葉で作ったものがある、これは抽象的だからこそ
この短い言葉の中に様々な意味が込められている。
抽象的ないいまわし、これこそ日本語の原点だとおもう。
しかし、これはすべてにあてはまるとはいえない。

7月13日 1992年 Venezia,Italy


流れているものは、けだるい時とたどたどしいピアノの音色。

7月19日 1992年 Fiesole,Italy


今までの日本は形にこだわっていた、これからは抽象的なものにこだわり、
それを行っていくだろう。

戦後日本は、日本経済をたて直すために物にこだわり一生懸命働き、今や
世界No.1の経済大国になった。その一生懸命働いてきた人達に俺たちは
感謝しなければならない。
しかし、俺たちのやり方は違う、これからはやりたい事をやって文化的にも
優れたものをやっていくだろう、そしてもっと抽象的なものをやる人達が
ふえるだろう。

7月26日 1992年 Volterra,Italy


本当の芸術はかたちではない。

ミケランジェロのピエタ。25才にしてあの作品のイメージをもてるとは、
そしてそれを表現出来るとはやはり天才なのか。

7月30日 1992年 Citta del Vaticano,Italy


オリーブのこかげで俺は風にふかれながらシエスタ、
なんてここちよいのだろう。

8月 2日 1992年 Rome,Italy


暑さのせいだろう、このむせかえるようなみどりの熱気。

8月 3日 1992年 Rome,Italy


イメージを持つということは、
ある意味において行動を決定する要素にもなりえる事である。

8月13日 1992年 Athinal,Greece


まわりは地平線。いく道は地平線への一本道。

8月14日 1992年 Turkey


ブルーモスクに行って写真を撮った。トルコを撮った様な気がする。

8月17日 1992年 Istanbul,Turkey


アンカラ駅前のブロンズ像には感動した。なんてことはないおじさんの
ブロンズ像、だがすばらしい。あの哀愁といい・・・。
俺は少し忘れかけていたのかもしれないものを、取り戻した様なきがした。

8月27日 1992年 Ankara,Turkey


エジプトが呼んでいる。

8月29日 1992年 Istanbul,Turkey


アップルティーに入れた角砂糖がとけていく、まるで砂漠の砂のようだ。

ある種日本は戦後「豊かな日本」という目的を達した。
そして今の日本はその後どうしたらいいのか、わらなくなっているのではない
かと思う。
目的は何か、すべきことは何か?

9月 1日 1992年 Istanbul,Turkey


暑さと歴史の重さにめまいがするほどだった。

9月 4日 1992年 Cairo,Egypt


真夜中のピラミッドの○○で感じたものは宇宙だった。

真夜中のピラミッドの○○に流れていたのは歴史の流れとコーランだった。

真夜中のピラミッドの○○にたどり着いたとき。
現在、過去、未来、いやそこには全てがあった。

9月11日 1992年 Aswan,Egypt


山の中腹。どこからともなく笛の音と歌声がきこえる。

砂漠の中のみどりの谷間。
一人もいない、俺は鳥の声を聞きながらよこになる。

9月25日 1992年 Petra,Jordan


市場の雑踏の中。ふとカナリヤの声がきこえた、静かな感動が・・・。

アラブ圏で感じたが。子供が大人っぽく、大人がこどもっぽいのだ。

なぜこんなに子供が一人前で大人がいいかげんなんだろう。

9月29日 1992年 Amman,Jordan


アラブ人には心の葛藤があまりない様に思われる。例えば今のまずしい生活
になれてしまっていて都会人の哀愁がない。このままではいけないとか、
もっと向上するにはどうしたらいいのか考える人は少なく思える。
あまり哀愁のあるひとが少ない。
結局、彼等は今のままでいいのだ。

子供のころから働きだしボル事を覚えそれがあたりまえになり大人になる。

彼らのいいところは、わきあいあいとしているところで、
ぎくしゃくしていないところだ。
ボル事や他人に迷惑かけなければこれもいい事だと思う。

10月 1日 1992年 Tunisia


俺は気が付いた様な気がする。俺には写真を撮る喜びがあるんだと、
いままでそれを忘れかけていた様な気がする、カメラが壊れて気が付かされた。
この事はこれからの俺にとって重要なことなのだ。

インスピレーションとはイメージへの過程である。

ブレッソンの写真集を視た、また新しい発見がかたちになりそうでならない。
イメージのかけらがすこしみえかくれしている。

もう一歩いけそうでいけない。

10月 4日 1992年 Djerba,Tunisia


この青い空。これがチュニジアなのだ。

まるで他の星へ来た様な気がする、不思議な地形。
ここはいったいどこなのだろう。

マトマタで見た夕日。青、ピンク、白、ゴールドのコントラスト。
すばらしい。

10月 6日 1992年 Matmata,Tunisia


写真を撮る時。日本を基準にしてしまえばめずらしいものばかり、
しかし現地を基準にすれば普通の事ばかり。俺はどうしたらいいのだろう。

アラブでは女が外に出ていない、
これはおれにとって決定的ないたでだ。つまらない。

10月 8日 1992年 Douz,Tunisia


夜は寝ながら星を見た。月には輪がかかりなんてすばらしいのだろう、
まわりは静かで怖いくらいだ。

俺はサハラに立ち無限の可能性と敗北感を感じた。

10月10日 1992年 Tunisia


流れる雲と月を見ながら寝た。寝るのがほしくてなかなか寝れなかった。

サハラでは、なにもかも一から考える事ができる。

サハラで聞いた小鳥のさえずり。俺は静かな感動を覚えた。

なんと言ったらいいのだろうこの感じ。
「どうしようもない敗北感、そして無限の可能性。」

二泊三日のサハラの旅。サハラが俺にあたえたもの、
いつかきっと俺はあたえかえしてみせる。

無限の可能性とはもちろん俺の可能性である。

10月11日 1992年 Tunisia


サハラではとっておきのシャツを着た。

アリの持つ本能、イヌの持つ本能、いったい彼等はどこまで本能でどこまで
考えているのだろう。アリの持つ本能をイヌに、イヌの持つ本能をアリに
すりかえる事など不可能なのだろうか。

サハラに落ちる夕日、なんてすばらしいのだろう。

10月12日 1992年 Douz,Tunisia


砂漠に雪が降ったようだ。

10月13日 1992年 ショット・エル・ジョリド、Tunisia


人はリスクが大きいものをやりとげた事に感動するのだろうか、
人によってはリスクの重さは違うだろうが、もっとも分かりやすいのが命とか
人生とか自分にはやりたくてもできないことだろう。

10月13日 1992年 Tozeur,Tunisia


モハメットのセカンドネームは「マコト」

サハラに立つ。

月夜のサハラで感じたものは、あらゆるものの生きづかいだった。

10月15日 1992年 Tozeur,Tunisia


メディナ(旧市街)に一歩はいるとそこは迷路。
俺はわざとさまよい歩き異国を感じている、もうここは別世界。

10月21日 1992年 Tunis,Tunisia


写真を撮るということは、そこに意味がある事を認識しなければならない。

ある時は、意味がある事にきずかなくてはならない。

10月22日 1992年 Tunis,Tunisia


そういえば俺は昔から窓の外を眺めるのが好きだった。
それが、俺の写真に影響しているのだときずいた。

あのカッコよさは、彼女の生き方からくるのだろう。

10月23日 1992年 Tunis,Tunisia


地中海と太陽の間に雲がさえぎり、
海に雲のさまざまな形がうつしだされている。
そして雲は流れ、ふたたび光と海が結ばれる。

雲のしっとだろうか、あまりにも太陽の光が地中海と調和して美しいから、
雲がしっとして海と太陽の間にわりこんだ。
地中海にうつしだされた雲の影、これもまた美しい。
「しっとは時として美しく、時として醜い。」

10月24日 1992年 シティブ サイド,Tunisia


俺は今、異邦人なのだと・・・。

10月31日 1992年 Fes,Maroc


サハラの風とわかった。

日本はもっと様々な事に失敗しなければならない。

夜。またたく星、あれが南十字星。俺はオリオンをかする大流星をみた。

俺は寝転がり満天の星とサハラの風を感じた。

メルズーガを昇る太陽。俺はまっすぐ立てないほど感動した。

11月 4日 1992年 Merzouga,Maroc.


しかし、どうしても行きたいのだ。
そして、それがどんなものか感じてみたいのだ。

11月 8日 1992年 トドラ谷,Maroc.


矛盾してこそ宗教だ。

11月15日 1992年 Marrakech,Maroc.


人の渦巻く広場とすばらしい自然、なんとすばらしいコントラスト。

11月17日 1992年 Marrakech,Maroc.


写真で表現できないもの、写真の限界。それはなんだろう。

写真は、写真でしかない。

今の俺は、視覚でしかイメージを追っていない様なきがする。
本当は視覚以外にもイメージはあるはずだ。

11月18日 1992年 Marrakech,Maroc.


誘われる様にモロッコのサハラへ。
そこで感じたのはチュニジアで吹いていたのと同じサハラの風だった。

今日からまた一人。一人になれなくては。

11月21日 1992年 Essaouira,Maroc.


空が赤く染まりかけたころ、また一隻漁に出かける。
すでに出かけた船たちは、夕もやの中まるで軍艦のように勇敢だ。

潮の引いた波打ち際、カモメは降り立ち、人は歩く。
いったいそこには何があるのだろう。

11月23日 1992年 Essaouira,Maroc.


サハラで見たオリオンをかする大流星、俺は一生忘れない。

11月24日 1992年 Essaouira,Maroc.


毎朝俺は海辺にあるカフェに行き海を眺める。
いつものように“アン・キャフェ・ノアール”と心でつぶやくと、
いつものようにギャルソンがキャフェ・ノアールを持ってくる。
“ボンジュール” そして俺の一日が始る。

11月26日 1992年 Essaouira,Maroc.


写真とはあいまいなイメージを形にする事が出来る。
もちろん完全なかたちではないが、形のイメージを形にする事が出来る。

抽象画とはなんだろう。形を自分のイメージにくずして絵(形)に
しているのか、くずしたイメージをもっていてそれを絵にしているのだろうか。

もちろんバランスとはシンメトリーという意味ではない。

11月29日 1992年 Asilah,Maroc.


むかし、写真を撮られると魂までとられつと思い写真を撮られる事を
嫌がった人がいた。
でも俺は思うのだ、実際魂を一瞬でも吸い取っていたのではないかと。

11月30日 1992年 Algeciras,Spein.


人間が考える事、作り出すこと。それには矛盾がないことなどありえない。

12月 2日 1992年 Malaga,Spein.


スペイン広場で日本人らしきカッコいいやつを見た、
広場の階段で寝ているやつだが。 日本人もすてたものじゃないぜ。

12月 3日 1992年 Sevilla,Spein.


雨が降ったりやんだりだ。枯れ葉は舞い、人は明るい。

堕天使はそこら中で見え隠れしているようだ。

素晴らしい芸術家がスペインで生まれるのが、わかる様な気がする。

学生だろう、制服を着た少女がティッシュを通りがけの人に売っている、
まだ若いのに、ほおに少しかげがある。
彼女が一瞬通りに視線を下ろした時、なんて悲しげなのだろう。

なんでもいいのだが感動出来る事ができたら、それにこしたことはない。
しかし、芸術においてその作品の意味や作る上でのなりゆきを知った上でのみ
感動出来る作品は本当の芸術とは呼べない。

12月 4日 1992年 Sevilla,Spein.


本能というのは考えた行動ではない。
本能を出すということは、いま自分がおかれている立場や情報を捨ていかに
考える事をやめるかということにかかっている。
しかし、自分は考えないで行動することなど出来るのだろうか、
それに考える事じたい本能になってしまっている事はないだろうか。

考えることをやめる事によって本能は自然に出てくると思うのだが、
その時とる行動が本能で自分すら予想出来ないだろう。

12月 5日 1992年 Seilla,Spein.


俺はもうフラメンコのとりこになってしまった。そしてジプシーの彼女の。

12月 7日 1992年 Selilla,Spein.


あるものに感動し、それに近づこうとする。
たいてい技術面だけをまねようとする、しかし本当はイメージを近づけよう
とするのがいいのではないか、技術を近づけようとするのはたやすい事だ、
それに技術をまねしたからといってそれがなんなんだろう。
しかしイメージを近づけるのはむずかしい、自分でためし・・・
技術に逃げてはだめだ、逃げてはだめなのだ。

12月12日 1992年 Madrid,Spein.


スペインも、もう冬。女性達は毛皮を着飾って教会に行く。
それぞれ違った毛皮を着ている、結局はみんな似たりよったりなのだ、
でも彼女達は私のは「ここが違うのよ。」で一応満足しておしゃれを
楽しんでいる。
大多数の人々は、自分の立場やレベルなどの世界で自己満足を
楽しんでいるのだ。

12月20日 1992年 Segovia,Spein.


もうすぐで、ガウディにあえる。

12月21日 1992年 Barcelona,Spein.


ガウディにあった。
すばらしい。
彼の空間とバランス、そしてリズム感。
俺は建築で初めてリズム感を感じた。

12月22日 1992年 Barcelona,Spein.


タピエス。  凄すぎた、あのバランス感と彼のカン。
特に、シンプルな作品はよかった。

12月24日 1992年 Barcelona,Spein.


今は、ジャズを聞きながら勇気をだしてノートを書く。

レコードは終わり、しかしまわりつづける。
針は無音をかなで、俺はおもいをめぐらせる。

12月29日 1992年 Barcelona,Spein.

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旅する言葉 1993


夢の終わりは、いつもはかない。

また一人になれなくては。

1月 6日 1993年 Barcelona,Spein.


また一人旅が始る、やはり一人になれるのはつらい。

1月 7日 1993年 Carcasonne,France.


古い町カルカッソンヌ。河は流れ、時は古い。

誰もいないふるい道を歩く。まだ一人がしみてくる。

河岸を一人歩く。つがいの黒鳥が後をついてくる、
そんなに俺はさびしくみえるのだろうか。

1月 8日 1993年 Carcassonne,France.


川沿いを歩いてみた。静かで人影も少ない、なんてすばらしいのだろう。

1月 9日 1993年 Carcassonne,France.


オード川沿いを歩いた。なんて落ち着くのだろう。

1月10日 1993年 Carcassonne,France.


少しづつ旅の感がもどってきたようだ。

1月11日 1993年 Carcassonne,France.


カッコよくなる為にはなにがカッコいい事かわからなくてはならない。

1月19日 1993年 Tours,France.


ビートルズは時代を超えた。

1月20日 1993年 Tours,France.


ヨーロッパではジャズをかれる店は少ない、
クラッシクやロックは多いのだが。

1月21日 1993年 Blois,France.


腹をすかせた犬と主人。
道端に座り物乞いをする、通りすがりの人々の食べ物やお金をもらう。
時には俺よりいい物を食っている、結構いい生活なのでは、なれてしまえば。


通行人がトマトを二つ落とした。
彼はやはりトマトを取りにいった。しかし二つ目のトマトを取るとき、
彼は少しだけちゅうちょした様な感じがした。
完全になりきってないのだろう。 でも、そんな所がいとおしい。

1月22日 1993年 Paris,France.


ジャコメッティ、その細さゆえにバランスが生まれる。

不安定から生まれるリズム感。

1月24日 1993年 Paris,France.


シャンソン。市民の歌、目をつむればパリの町がうかぶ。

1月25日 1993年 Paris,France.


エゴンシーレ。彼は絵をかいていなければ犯罪者だろう。

彼等はいったいその目で何を見つめていたのだろう。

1月28日 1993年 Paris,France.


今日は、街を歩いた。

1月31日 1993年 Paris,France.


今まで家に電話しなかったのは、なんか怖かったのだ。なんだろう。

2月 1日 1993年 Paris,France.


新しい事とはなんだろう、
誰が決めたのだろう、時代の流れが決めたのだろうか。
クリエイターにとって新しいとは何だろう、誰もやっていない事が新しい事
なのだろうか。俺は「新しい」と言葉を使うならば、テクニックではなく
「新しいイメージ」と使うだろう。
それがクリエイターにとって新しい事だと思う。

例えば 新しい物のとらえかた。

新しい事などあるのだろうか?

2月 4日 1993年 London,England.


古代から絵は伝達手段でしかなかった。
それはいつまでも変わっていないはず、これがいつ鑑賞にかわったのだろう。
だが、いい絵とは人の心に伝達しえる絵の事だろう。

俺は東洋人。人の持つ「間」を写真で表現してみたい。

人が放つ空間。それをとらえてみたい。

2月 6日 1993年 London,England.


今俺はカフェに入っている。
中年の男がカフェに入ろうとした、
だが一瞬中を見てカフェの中の様子を見た。
カフェはこんでいる、男はこのこみ合いにちゅうちょして立ち止まったが
「まあいいや入ってみよう」という勢いでドアを押した。

こんな人間の「間」を写真で撮ってみたい。

2月 8日 1993年 Edinburgh,Scotland.


そして俺は、カフェの中から海を眺める。なんておちつくのだろう。

2月10日 1993年 Edinburgh,Scotland.


ネス湖、この黒い湖。光が差し込み湖は、神秘に変わる。

2月13日 1993年 Invemess,Scotland.


静かな日曜。ホテルの窓で過ごした一日。

2月14日 1993年 Invemess,Scotland.


丘の帰り道、
俺があまりにも寂しく見えたのだろうか、一匹の犬が近づいてきた。
そして道案内をする様に俺の前を歩く。
道のわきにある池に彼は飛び込み水鳥をおっかけたりもした、
そんなに楽しいのか、それとも俺を元気ずけようと
してくれているのだろうか。
また少し彼と歩いた、
線路をわたるとき彼はわたらず、どこか寂しそうに見送ってくれた。

2月15日 1993年 Pitlochry,England.


丘から見える山の谷間の湖。
風は吹き、黒い雲は空をおおう。
しかし湖は、静かにそしてひっそりと時の谷間に浮かんでいる。

2月16日 1993年 Pitlochry,England.


午前中に散歩をし、
午後ゆっくり眺めのいい風景と音楽とで食事をしティーを飲み、
すばらしく晴れた太陽の光をあびて過ごした。

2月17日 1993年 Pitlochry,England.


一歩一歩小高い山を登る。背景にはすばらしい湖や山々。
俺は自分が一歩一歩タカになっていくのを感じる。

2月19日 1993年 Kesiwick,England.


ストーンサークル。
このすばらしい自然の中にもう自然と一体化したかに思える
(人口の)ストーンサークル、なぜか不思議な魅力を感じる。

2月20日 1993年 Kesiwick,England.


チャプリン、すばらしい映画ではあるが俺にとってブレッソン、ケルテスと
共に写真の方向性をあたえてくれる影響力のあるアーティストだ。
彼が映画を撮る意味、それは俺が写真を撮る意味と同じ様な気がする。

2月21日 1993年 Kesiwick,England.


橋の近くのTea roomでTeaを飲む。
俺の旅も終わりに近づく、毎日色々な事を考えてしまう。
それだからか、それとも少し寝不足なのからだろうか、
二人の老夫婦に顔がつかれぎみだと言われた。

2月23日 1993年 Kesiwick,England.


まどごしのTea room。
犬がふと通りに飛び出す、俺はおもわず声を出してしまった。
ぎりぎりの所で当たらずにすんだ。
飼い主のおばあさんの顔はこわばり犬自身もなにか落ち着かない様子だった、
二人とも本当にあせったのだろう。
家に帰ったらおばあさんは椅子に腰掛け、犬は自分の小屋に入りうずくまり。
ふたりしておちつくのだろう。

2月24日 1993年 Kesiwick,England.


雨の湖。まるで水墨画を見ているようだ。

2月25日 1993年 Kesiwick,England.


俺は鷹が立っていた岩の上に立ち、翼を広げ鷹になった。

2月26日 1993年 Kesiwick,England.


光がさすその時、小雪はまるでガラスをちりばめたごとく 美しい。

足を踏み締め歩く度、俺は一歩一歩カッコ良くなっていく様な気がする。

ポートレイトとは、題材となる人がどんな人なのかをわかり、
そして、それを表現しなければならない。

2月28日 1993年 Kesiwick,England.


クラプトンはシカゴに帰った。

3月 2日 1993年 London,England.


今のクラプトンはジミーヘンドリックスを越えた。

3月 7日 1993年 London,England.


人の生きづかいがきこえる。

3月 8日 1993年 London,England.


古着屋で黒のシャツを買った。前の俺より黒が似合うようになったようだ。

3月 9日 1993年 London,England.


去年5月ごろ、
A.E.P.P.で会ったアフリカ河くだり大学生二人との偶然の再会。 
感動的な再会だ、お互いいろんな事があったのがわかるから
よけいに感動した。

3月10日 1993年 Paris,France.


俺の旅ももうすぐ終わる。
これでいいのかと自分に問い、
これでいいのだと自分にいいきかせ歩いてきた。
いまも自分に問いかける、「これでよかったのか」と・・・。

ロンドンの黒人、パリ人達の視線をなぜか感じる。

ほんの少しの勇気があれば、立ち止まることさえ出来るかもしれない。
俺はその勇気を身に付けるためにも、歩みつづけなければならない。

答えはどこにあり、いつみつかるのだろう。
もしかしたら答えなどないのかもしれない、そんな気がする。
でももう少しでみつかるようなそんな気もする。

3月13日 1993年 Paris,France.


一日寝ていた。

3月16日 1993年 Paris,France.


本当は何もわかっていないのかもしれない、
けれども自分を信じて歩くしかない。

3月18日 1993年 Paris,France.


カフェに入ってきた恋人ふたり。
向かい合って同時に座り、同じタイミングで自分の左足を右足に乗せ、
次の瞬間会話が始った。

もしあと一枚しか写真をとれなかったとしたら、
俺は結局なにも撮れないかもしれない。

もうすぐ終わる、終わってしまう。
これでいいのか、これでいいのだ。
この苛立ちと葛藤の中、俺は歩きつづける。

3月20日 1993年 Paris,France.


子供が気に入って離さない「まくら」のような写真を撮っていきたい。

何もない所から物は生まれるのだろうか、
もし生まれるのならば俺は出来る限りそれに近づきたい。

3月23日 1993年 Paris,France.


新しいものとは、いままでにないもののとらえ方だと思う。

新しいもののとらえ方が出来ないのは、
アーチストもそうだが、それを要求する人達の責任でもある。

みんなに共感をあたえる作品。
人それぞれ色々な考えや好みもある、
だから俺たちは自分の作品を「提案」していくのだ。

3月23日 1993年 Paris,France.


ブレッソン、サッチモ、チャップリン。
人を愛しつづけた人達、そして愛しつづける人達。

爆発もコントロール出来なければ、狂気に変わってしまう。

3月24日 1993年 Paris,France.


なぜ子供は大きくなりたがるのだろうと、
思うのは間違えかもしれない。

3月25日 1993年 Paris,France.


人間のいらだちや悩み、それらはふとしたきっかけで気持ちも変わる。
そんな事はちっちゃな事なのだ。

3月26日 1993年 Paris,France.


少しやせてしまった様な気がする。

3月29日 1993年 Paris,France.


芸術家は「一提案者」であるべきではないだろうか。

3月30日 1993年 Paris,France.


ルクセンブルグ公園のお気に入りのカフェにいった。
いつの間にか木には緑の葉が付き、春の気配だ。
なんて気持ちがいいのだろう。

3月31日 1993年 Paris,France.


今日、フランス人におまえはカッコいいと言われた。嬉しかった。

4月 3日 1993年 Paris,France.


雨のパリを歩き、パリをかみしめる。

4月 7日 1993年 Paris,France.



4月 9日 1993年。



もう止まってしまった手巻きの腕時計。
リューズをゆっくりと一年ぶりにまわし、
俺の新たな時を動かす。


芸術とは言葉のかわりではなく、まして思考を表現するものではない。


物や人を見るのではなく、感じるのだ。

1993年 5月 Kanagawa,Japan.


あまり器用な事はよくない。

シャッターを押す瞬間、私は生をあたえる。

被写体とは形をなすものだけでなく、時の流れをもふくんだものをいう。

創造とは理屈で造るものではない。

ピカソのあの見開いた目。彼はその目でなにをみつめていたのだろう。

能が見たい、能は私に何かをあたえてくれそうな気がする。

地球いや宇宙のあらゆるものから力をもらい、そして爆発させるのだ。

1993年 6月 Kanagawa,Japan.

開放せよ。

ハッハッハッ  こんな天気の日、また一つ自分を見つけることが出来る。

文章において、市民ケーンのストーリーのように色々の前筋があったが、
結局は愛がほしいため。 その結局を最後に言ったらどうだろう。

男はどこか夢を追っていないと生きていけないんじゃないかな。

酒とジャズとあなたの寝顔

理屈で成り立っている芸術は、本来あるべき姿ではない。

良く見せようなんて事に、なんの意味があるのだろう。

自分を見つめる、見つめつづける。

私はいったい何をしているのだろう。
生きているのだ。

自我を忘れた自分の作品。

1993年 7月 Kanagawa,Japan.


写真は写真であって他のなにものでもない。写真でしかないのだ。

結局なにがわかっているのだろう、なにもわかっていないのかもしれない。
いや、わかっているのかもしれない。いったいなにが・・・・。

人と違うものをもっている人は、はじめは恐怖を感じる。

                1993年 9月 Kanagawa,Japan.


一人海を見つめる。異邦人だった事を思い起こさせる。

私は日本人であり日本にいる。それなのになぜか自分であればあるほど、
異邦人になっていく気がする。

センスの良さなんてことは、芸術にとってたいしたことではない。

溜め息でごまかそう。

溜め息で流してしまおう。

幸せはなるのではなく。感じるもの。

1993年10月 Kanagawa,Japan.


言葉を使うその時、それはすでに私的なものなのである。

いいかえれば言葉はその人の人生。

新しいという事は、手法ではなく新しいもののとらえ方である。

運命に流されるのも、のるのも、逆らうのも、また運命ではないだろうか。

生きていると感じること。それは輝くこと。

生きる意味を考えること、それは死の意味を考えること。
死の意味を考えること、それは生きる意味を考えること。

何かを伝えたい、言葉ではどうももどかしい。ゆえに私は写真を撮る。

人を感動させるということは、生きていると感じさせること。

感動するということは、生きていると感じること。

西洋人は、心に形のない物をもとめる。
東洋人は、心に形のない物をもっている、ゆえに形ある物をもとめる。

1993年11月 Kanagawa,Japan.


庭に植えてある背の高い木を見る。寒さと風のせいだろう、
葉がずいぶんなくなっている、もうこんな季節なのだ。
春。この木が緑でまぶしかった。
しかし私はまぶしい瞬間しか気付かなかった、
木が輝くまでの生きづかいを感じられなかったのだ。

堕天使は、“生きていると感じる時”天使だったころを思い出す。

“人が生きていると感じている”
それを感じる事、即ち天使を感じる事(時)。

芸術家との違い、それは生き方の違いである。

1993年12月 Kanagawa,Japan.

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旅する言葉 1994年



アメリカはストレス文化。

視覚表現だからこそ感じる事が大切なのだ、たとえそれを見なくても。
この事は、全ての表現に言える事だ。

人には決して作る事の出来ないものを自然は創りあげでしまう。
しかし、もし自然が話す事ができたら、
「私達が作る事の出来ないものを、あなた方人は創る事が出来るのですよ」
と話してくれるだろう。

何かをしたいと思う時こそ自然体でいるべきだ、
そうすればおのずと導かれ道が開ける。

自然のすばらしさを知るほど人のすばらしさを感じ、
人のすばらしさを知るほど自然のすばらしさを感じる。

人をきらいになる気持ちも大切な事だ。

1994年 1月


音が聞こえる写真。

静けさを創り出す為に音を利用する。
静かでなければ聞こえない音を利用する。

写真は一瞬をとらえているようだが。
現在、過去、未来、全て。
そう、時の流れをつかまなくてはならない。

映像は時の流れをとらえているようだが、
一瞬をとらえつづけなければならない。

人生は幸福(しあわせ)な勘違い。

被写体を一瞬のうちに、私的なものにする。

1994年 2月


どうしようもない敗北感と無限の可能性。”
これは私がサハラに一人立った時感じた事です。
死や虚無を思わせる砂漠に、強い生命を感じたのです。

静寂の夜が明け、砂丘に太陽が昇る時。
私はそこに人のぬくもりを感じ、そして写真を撮りました。


1994年 3月


なぜ北斎はデザイン画ではないのだろう、
それは作品に魂があるからではないか。

デザインに魂が宿り芸術になる。

言葉で全てを伝える事は出来ない。
どんな表現手段でも全てを伝える事は出来ない。けれどもそれでいいのだ。

人はなぜ水に向かい石を投げるのだろう。

1994年 4月


人が人になりたいために。
人は自分になりたがる。

単体の表現手段では得られない、
融合ならではの表現手段で新しい感覚を感じてほしい。

被写体はそれそのものであって、その他のものではありえない。

1994年 5月


はそこに命のSound(響き)を感じた。

偶然の必然性。それが大切なのだ。

1994年 6月


ここちよい風の中の朝食。
ゆったりとした時間、幸せな一時。
昨夜見た星達、そして流れ星。まるで夢の様だ。

                  7月6日1994年 Nusa dua,Bali.


インドネシアの踊りには、平たんなリズムと踊りての動きに対しての強弱。
これはやはり東洋の間といってもいいのだろうか。

強から弱、弱から強への間。すばらしすぎる。

7月8日1994年 Ubud,Bali.


理屈で写真を撮る事に何の意味があるのだろう。

サハラそこには何もないが全てがある。
全てはどこからうまれるのだろう。
それは、自分自身から。

1994年7月 Kanagawa,Japan.


被写体となる人の撮られるという意識がともなはない写真(世界)は。
それはまさに、すばらしい空間であり宇宙である。

被写体となる人の撮られるという意識がともなう写真(世界)は。
それはまさに、すばらしい空間であり宇宙である。

彼は生命(リズム)を自分に求めた。
リズムとは自分や題材だけでなく。風、火、海、大地、人・・・・。
それは、宇宙である。
それを、忘れてはいけない。

写真。
それ自体に意味はない。
あるとしたら、感じた人が付ける事。

1994年 8月


作品を撮るのではなく。
写真を撮るのだ。

1994年 9月


作品自体の力ではなく、テーマで作品を見る風潮があるらしい。
本質をとらえる事が大切なのではないだろうか。

作り手とそれ以外の人々の意識によって物事は変わりえる。

悩みのない事が幸せとはかぎらない。

撮らずにはいられないで撮った写真はすばらしい。
これが、バクハツなのだ。

ブレッソンは人を観察し、私は人を愛しく思う。

1994年 10月


人が本来あるべき姿とはなんだろう、それが普通でいるという事なのだろう。

人は生きて最後に灰になり、そして 人になる。(完成する)

生きながらにして、人になることは出来ないだろうか。

人はなぜいきる。

人とはなんだろうという事を探求する事も人になる
過程である。

人になるため。

ものとしての人を維持する為に人は様々な事をする。
しかし、それは人が生きていく為の全てではない。

人は全てのものへの執着を無にする事が出来るのだろうか。
無に出来たとしたら、人は人でなくなる。
即ち、人になれるのかもしれない。

無になるという事は全てのものに執着する事なのだろうか。

被写体は全て(全体)である。
即ち、被写体を生かす背景(もの)などありえない。

1994年 11月


女性が何かを表現しようとする時、責任を意識するといいのではないか。


約束とは期待すること。

期待とは時を待つこと。

「人」という言葉は概念である。
人は人とは何かと探しつづけ、そしてそれ(・・)になりたがる。

人はものを生みたがる。

1994年 12月




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旅する言葉 1995年



モデルとは商品としての自分を表現(演出)出来る人達をいうのではないか。

テーマが先行して表現しきれていないものは、いいとはいえない。

静から動へのエネルギー。
動から静へのエネルギー。
それらは無限の力である。
ならば
  生へのエネルギー。
  死へのエネルギー。
それらも無限の力ではないだろうか。

生と死を繰り返す事が出来れば、無限のエネルギーを得られるかもしれない。

ぎこちないと感じる表現に力を感じる事はまれである。

人は生まれる時。
それは 生 であり、 死 でもある。

思想や概念を超えるもの。

欲せず時を待つ。

暑かりしあの日の島を想いつつ
やさしき風がこの身にそよぐ。

表現自体に情熱をそそぐのではなく。
情熱のある表現をするのだ。

1995年 1月


自分を偽って表現すべきではない。

人は一見、絶対存在と思われるものを認識したと思う事により。
自らも認識したと思うのではないか。

ただ クラゲ それだけ
ただ 人   それだけ
なんてすばらしい事なのだろう。

1995年 2月


事をおもう。

物自体に意味はなく。
事に意味があるのだ。

あらゆる意見はおそらく正しいだろう。
しかし私は今、それを選ぶとはかぎらない。

私にとって写真とは、私が成長するための一手段であり。
私が人になるための一手段である。

動きのあるものを撮る。
動きがなければ自分が動いて撮る。
もちろん、動きのあるものを自分も動いて撮る事もいい。
動きのないものを動かず撮る、これもまたいい。

1995年 3月


創造とは、自然を限定してそれて生まれる。

創造とは自然であり、自然とは創造である。

自分の手足のとどく範囲で表現すべきだ。

カタチを視るほどカタチは無くなる。
しかし、カタチから逃れることは出来ないだろう。

カリスマ性がある人というのは、
その人に夢をゆだねてもいいと思える人ではないか。

自然と共に生きれば、自然を心に思う事になる。
そしていつの日か、自分は自然になり自然は自分になる。

的あれば矢向かい
矢向かえば的がある。

優雅である事は大切である。

私はいったい何のために何がほしいのだろう。
たとえほしい物が手に入ったとしても、
それが本当に必要なのかどうかわからない。

1995年 4月


写実とはカタチだけを写す事ではない。

自分が視えたままに撮る。

表現。それらは自分に対してのあらゆる目安である。
即ち、良い表現であろうとなかろうとたいした問題ではないのだ。

作品の為の作品と意識して作った作品に、
力のある作品はおそらく無いだろう。

1995年 5月


空間が現れ
バランスがとられる。

それらは回転しながら融合し、
無限の力となるだろう。

1995年 6月


モノの本質は事である。

人や自分が気に入るモノを作ろうとしてはいけない。

1995年 7月


文明は時間を操作することで発展してきた。

情報、交通・・・それらはすでに見る事の出来るタイムマシンではないか。

人は本来時間を操作しなくても生きていける動物なのである。

人の神へ対するぼうとくは、時をコントロールした時から初まった。

1995年 8月


よりどころのないダンディーはありえない。

非情であるということは、自らに対して非常である事である。

非情でいられる人は強い人である。

肉体と精神が分裂し、精神が肉体をあやつり肉体が精神のしもべとなる時。
その時である・・・・

花の似合う男は、一度死んだ男です。
花の似合わない女は、死んでいる女です。

間とはリズムである。

靴音がふと秋の音(ね)に変わった。

座り読みをしていた男が店員に注意された。
隣にいた私はその時、殺意のこもった凄まじいエネルギーを感じた。

1995年 9月


具体的な事が思い浮かばない。
それは、具体的な事ではないからかもしれない。

自分の作品を視る時、自分の作品ではないという目でそれを視るべきである。

彼が視線を向こうにむけた時、様々なものがつながった。

1995年 10月


人のここちよい、いいかげんさ。

11月6日1995年 New York,U.S.A.

朝日の中で紅茶を飲み、なんてここちいいのだろう。

               11月11日1995年 New York,U.S.A.


雪がちらつき人々は急ぐ。
そのはやさが、さびしいのです。

朝日が体にしみこみ、そしてとけこむ。

欲が集まる所には人が集まる。

11月13日1995年 New York,U.S.A.


教会に行った。
自分の位置が変わった、キリストにひかれる様に体が動いた。

一瞬彼女は横に倒れそうだった。
そのくずれたバランス、すばらしい。

11月21日1995年 Dallas,U.S.A.


公園に行った。
おもいっきり空気をすった、なんてここちいいのだろう。生きかえる。

11月22日1995年 Guadalajara,Mexico.


月の太陽に登る。

月のピラミッドに登る。
このピラミッドは太陽のとは違う種類のすばらしい力を感じた。

夕陽がすばらしくきれいだった。
アフリカで見たのを思い出した。

11月27日1995年 Mexico city,Mexico.

           1995年 11月

旅する言葉 1996年


リズム(空間、バランス)があるという事、それは 生の証しである。
リズム(空間、バランス)が無いという事、それは 死の証しである。

精神的に豊かでないと、それなりの事しかおこりえない。

ゴッフォ。 彼は、うねりによってリズムをだしている。

魂のうねり。

魂がゆさぶられた時、写真を撮る。

日本人の習性。
自分の出来ない事に関しては他人に力をかそうという考えは少ない。
自分の力をかし、お互い成長しあうという考えを持つべきではないか。

1996年 1月


写真とは現実という幻像を写すものである。

私の瞳が非常に輝く時
私は限りなく透明になる。

人が人である限り
人は真(まこと)の人にはなりえない。

日常の中から非日常を見いだしたときの エロチシズム。

新しい事をみいだす行為。
それは、エロチックな行為である。

1996年 2月


違和感を正当化してはいけない。

1996年 4月


天を視ずして
なぜ地が視える。

1996年 5月


どんなこころざしだろうと、本質は変わらないだろう。

意味はなくても、力は存在しえる。

1996年 7月


人生は己の執着なのだろうか。

1996年8月17日


私の新たな旅立ちが始まった。

自然とは死と生のうつろいである。
死の中に生はかすかな光をもってやどり、
生は死をその運命(さだめ)によりうけいれていく。

1996年 8月


時が子を宿す時、時代が生まれる。

酒は風景なり。

1996年 9月


無とは無の意味さえ無くなる事。

1996年 10月


多次元であるほど、共有性は限りなく無くなる。

必然をよそおい
偶然の時をまつ。

1996年 11月



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旅する言葉 1997年


自然として生きる。

おもさや時間、色すら無い。  ただ 光 あるのみ。

われなくなりて、われあり。

己がたどった 道のみあり。

1997年 1月


直感は空間から生まれる。

1997年 2月


天の目をもつ。

一瞬にたち切る非情の力。

1997年 3月


己の天命を歩(ゆ)く

ひらめきは、その時機である。

欲を断ち切り、意志をもつ。

1997年 4月


ゆっくりと扉が開くまでまちましょう。

山ん中 緑で ねむたい。

1997年 6月


さわさわ と 緑がゆれてる。

見上げれば 白いけはいが 流れてる。

空間から立ち現れ
空間へ立ち消える。

多次元が回転しながら融合し、さらなる次元が生まれるだろう。

1997年 7月


透明な力と響きあう。

1997年 8月


響き 知る人。

1997年 9月


秋風(しゅうふう)に吹かれ、歩みつづかん。

1997年 11月




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旅する言葉 1998年



志にともなった、意志をもつ。

物は他次元との扉である、その扉は多次元による響きによって開かれる。

私は、響きを具体化する。

人は物事を具体的なかたちで認識したがる。

自らの響きを具体化されると響きあう。

無意識の中での響き(多次元)の知覚。

1998年 1月


人は美しさを求めながらも、それを壊したがる。

響き宿るもの。

我 尽す。

限定とはそれを超える為のもの。

1998年 3月


めまいを誘う、 ゆれるけし花。

紅蓮(ぐれん)の うねり花

              1998年 5月


光が形を成し、物と生る。

翼は。 風に吹かれて、我を知る。

1998年 7月


翼 風に成る。

1998年 8月


生きながらにして死、そして生きる。

視る事は 出合う事。

視えない 道を歩(ゆ)く

1998年 9月


黄色い風の薫り。

1998年 10月


1998年11月17〜18日 しし座流星群。
日本がこの事により、一時的かもしれないが 調和した気がする。

1998年 11月




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旅する言葉 1999年



出来る事によろこび
出来ぬ事をゆるせ。

信ずるは
光のみ

1999年 3月


約束を信じる事だけが
「人を信じる」ということではない。

なぜその言葉を
使ったかが大切である。

1999年 11月

旅する言葉 2001年〜2002年3月



内なるものが 表に現る。   表 現

内なるものになにかがなければ
そのなにかは 現れないだろう。

有・無
全てをつつむ
大いなるもの

――――――――――――――――――――――――――――――――――
   来
本     音
   当

  本  音
――――――――――――――――――――――――――――――――――

花 そのものではなく
   種をまく。

百見は
一行に
しかず。

心も
つつみこむ
大いなるもの
内なる響きは
さがすものではない。

全ての 生命は
それを 全う
するように ある。

音 の 郷(さと) は 響 

大自然のストレス
人間のストレス
社会のストレス

私は
あらゆるものをも 
つつみこむ
それ と
つながっている。

考える事自体に
意味はない。

人が自分の足らない所を
真剣におぎなおうとする事はすばらしい。

自らがした様に全てのものは(世の中は)表現されている。

自分そのものだから響く。

響く それは自分そのものだから。

内なるものを
表現されると
響き合う。

社会で     通用する事
人間界で    通用する事
自然界で    通用する事

社会でしか   通用しない事
人間界でしか  通用しない事

大いなるもの
大いなるものは、全てに漂う
全宇宙が共有する それ ではないでしょうか
それ は、物質・非物質、意識・無意識・・・・
そう、あらゆるもの全てに介在しているのではないかと感じるのです。

そして

大いなるものは、
大いなる意志として
全てに働きかけているのでは、
ないでしょうか。

全ての生命が
それそのものである
  本 道

自然は生命そのものでなければ生きていけない。

自分の道は
みんなで一緒に
歩めるものでもない。

風の音、星のまたたき、川の流れ、鳥の声、波の音・・・
それらに私達が心も含め時として
それ以上に響くのは、それらは自然そのものから生まれ(表現された)たから
ではないでしょうか。
野生の動物、植物、鉱物、生命のまわりにアカのない子供達・・・・
自然であり、生命そのものであるものは
あらゆる全てのものと響き合っているのではないでしょうか。

私達は本来、自然そのものであり
その事はだれもがわかっている事です。

ここにある全ての生命がそれそのものであるならば、すばらしい響き合いが
おこるでしょう。
特別な事ではなく・・・・。

社会的行為でも
本心からくる行為ならば
それは自然の行為といえる。
自然と社会の共通行為

                     2001年〜2002年3月




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旅する言葉 2002年4月〜



後味の悪い
“だって”は
本心ではないから。

自然で
ありつづける。

                      2002年 4月


気が向く。

                      2002年 4月14日


1992年〜1993年の放浪の旅 それ以来だろう。 本当の一人旅
海外ではないからだろうか、それとも私の変化か
あの旅のキンチョウ感はうすいようだった

地元の人にサポートされながら旅を続けられた。
本当は人だけではないだろう。
本当にうれしくてたまらないたまらない・・・・

歩いた  歩いた  本当に歩んだ。

               滋賀県大津市・馬の神事の旅
                    2002年4月12日〜14日


個々がそれぞれに平和のイメージをもっていなければ真の平和はないだろう。

あらゆるものは
それそのものの為だけにあるのではない。

生命のよろこびとともに生きる。

人はあらゆる動き、もしくは、あらゆる感覚をも“自分の鏡のごとく”意識、
無意識にかかわらず まね をして共有しているのではないでしょうか。

これは人だけではないのかもしれない。

人の感覚をも鏡のごとく真似をしている。

あらゆるものはあらゆるもの全てで共有している。

2002年4月23日〜5月26日の間


人にはそれぞれのリズムを持っている、
そのリズムが響き合い ハーモニーが生まれる。

リズムは生命そのもの。

心も含み
それ以上に響くもの。

眠っていた何(・)か(・)が発動する、根源的なものにふれると

根源的な大自然(大宇宙)の響き(愛)
それを音で表現し、あらゆるもの(・・)と響き合い
それによって
眠っていた何かが発動する。

あらゆる動きを提案する。

思考や概念
五感をも飛び越え
それをも含む
大いなるものを
私達や全てのものは
共有しているのでは
ないでしょうか。

全宇宙の全ての現象は
大いなるものの 大いなる意志の現れではないでしょうか、
そして その
大いなるものは、全宇宙の全てが共有しているのではないでしょうか。
おまじないや超能力 それらをはるかに超える大きな世界は存在する。

いやされる事はある意味大切な事でしょう。
しかし、そのことだけでは生命は生き生きとしないのではないでしょうか。

理想を表現しない。

生命の責任

祭り顔
祭ばやしに粋なかけ声
血潮はざわめき魂おどり
いつしか顔(つら)は甦る

水は形を変え
個体、液体、気体・・・・と
それすら変化する事で
自由でいられる。

人の立場や状態を感じずに
むやみに話しや表現をしない。

たとえ話
あまいものがどうしても食べたくてケーキの食べ放題の店に入った、
いつしかケーキを食べ過ぎて体調を崩した。
・始めは根源からくる欲求だったのがいつしか、ただの欲となりそれを満足させたためそれをすすめ体調を崩した。
・体調を崩したのは根源からのメッセージ
・根源からの欲求かただの欲かわからなくなっている自分がいる。
・こういう感じ(一体感のような)のものが私達には元にあってそれらに私達はある。
だから私達はそれを基本にして生きていくが本来ある姿ではないでしょうか。

人は救われるだけでは、生命はいきいきしない。
しかし救いを必要とする時もあるだろう。

動きの波ではなく、それをもつつむ大きな波を音で表す。

〜2002年9月22日


大いなるもの
大いなるものは、全てに漂う
全宇宙が共有する それ ではないでしょうか
それ は、物質・非物質、意識・無意識・・・・
そう、あらゆるもの全てに介在しているのではないかと感じるのです。
そして
大いなるものは大いなる意志として
全てに働きかけているのではないでしょうか。

社会的な愛は感情や五感を
まぎらわすぐらいの愛ではないでしょうか。
それをも含む大いなる愛はある。

音はそれを発している人の意識が深くかかわっている。

機械の音と人の音
命がかかわる。

道を示す事と
歩む事は違う。

生命が関わるほど
本当のよろこびはましてくる。

いざという時にやればいい
というパターンは
本当にいざという時にはなかなか出来ない。

人体アンテナ現象

子供だっていきなり、まっすぐ歩くやつはいない。
なんどもなんども倒れながら、それでもなお歩きつづく
            それでもなお・・・・。

超感覚  Ultra Sences

人は五感を意識する事により
このような進化をした。

一般的な視点からの話
自分がもし、食べるにこまらないでいる立場の時
それでもやれる仕事は良い。

自分にだけ都合のよいひらめきは、本物ではない。

〜11月23日2002年


原初の響きの風や波の音を感じたからといって、深く響くとはかぎらない。

タイコは実は自然のものではない人工のものです、
でも音を出す人が自然になる事が大切であり、大きなポイントでもある。



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旅する言葉 2003年



テクニックを含め何かにとらわれていると、それがある故に入り込めない世界がある。
その世界はとてつもなく大きな根源の世界である。
その世界に入り込むには 方法というものはない。

人としての私を通して表現されたものは、人に伝わりやすい。

お金では本当の自由にはなれない。

〜な自分を無理なく自然に好きになれたら、どんなに素敵な事だろう。

テクニックだけでは分かちあえないものを分かちあいたい。

まわりとの係わり合いをも含めたいきいきとした道

私達はあらゆるものと係わり合いの中で生きている
自分だけで成り立っているものは何一つない。
わかりやすく言おうが言うまいが、
伝わるものは伝わる伝わらないものは伝わらない。

なにかと比較して幸せを感じるのではなく、
ただ訳もなく幸せと感じられたらどんなにすばらしいだろう。

〜2月9日2003年


人は不安になるとそれがゆえにまわり(自分以外)からの情報をほしがる
そして、安心したがる。
しかし、あらゆる情報は自分の中にある。

あなたの存在は
宇宙にとって
必要とされている。

方法とは目に見えない 形ではないか。

行なってみたその範囲からの事を語る。

枝葉の部分から出した音には
枝葉の部分しか響かない。
根の所から出た音は
全てに響く。

趣味をしていないとやってられないのは、社会(社会のシステムに)
はまっている証拠。

都合のいい時だけやるボランティアは、真のボランティアではない。

今の日本は飢えて死ぬことはない、
この世界でも特徴的な環境でしか出来ない事はなんだろう。

今、自分が出せるものを全て出す。

特別な状態の時ではなく、普通の状態の時“気づく”のがいいのかもしれない。
なぜならば、特別な状態にとらわれてしまい、普通の状態になったとき“気づき”は
変わってしまう、

しかし、特別な状態での“気づき”はチャンスでもある。

〜5月18日2003年


自然界の色は生命そのものから自然に発せられたものである。

その人の生命を通して発せられたものは・・・・
生命そのもの
自然そのもの
宇宙そのもの

人間の脳は数十パーセントしか使われていないという、
しかし見方(視点)を変えれば、
それは、すでに(回路を保つ程度は)使われているかもしれない。

エネルギーが近いといがみあう。

生命は本来、そのエネルギーの大きさによる優劣は存在する。
それは、人間が思考した優劣とは違う。

テクニックや方法は色々な人達から教わればいい、
それだけでは得られないものを共有したい。

テクニックや方法からでは得られないものを共有したい。

枝葉の所だけで生きていると葉も枝も細くなりエネルギーが滞りやすくなる、
枝も葉も正常な太さや大きさで生きていき、のびのびとするのがいい。

生命そのもので
のびのびを生きる。

根からの音。 枝葉のみの音。

とらわれがあると感じられない世界がある。

テクニック、方法、理論、理屈などからだけでは、
分かちあえないものを分かちあいたい。

私達はこのすばらしい世界の真っただ中にいるのに、それを感じる事が出来ない。
このすばらしい世界を共に感じたい。

言葉――――>日々の生活
 ↓  行い
音楽・・・・

赤ん坊や動植物には表面上の言葉はいらない
言葉をほしがるのは大人だけ
それもある意味必要な事なのかもしれない。

趣味の範囲だけでは、その範囲の事しかならない。
 (ここでいう趣味とは、都合のいい時だけやるという意味)

都合のいい甘い言葉だけでは、大きな愛ではない気がする。

平和を外に向けてだけ表現するのは、
内(自身)に平和がおとずれていないからではないか。

意識的に命がけで
自分の道だとおもう道を、歩んだ事があるか。

人のよろこびは、人にしかわからない。
人の悲しみや苦しみは、人にしかわからない。

その事は知識の範囲だけでわかっているのかどうか?
日々の生活でそれが自然と行われていたら、知識を含みそれ以上わかっている。

〜11月23日2003年


何ものぞまない
何ももとめない
そして
ただただ没入してください。



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旅する言葉 2004年



音で絵で声で・・・・
人によってエネルギーを織り込みやすいものがある。

音そのものを愛す。

日々の生命をまっとうする。

自分の生命に責任をおえてこそ本当の自由がある。

夢を目的に生きるのではなく
日々生き
夢につながる。

生命をかけ
  けれども
生命に とらわれない。

この宇宙は、ある種の記憶装置なのかもしれない。

やってみて出来たという実感がないから、
難しい、わからないという風になる。

真理(まこと)にとらわれていると
それは真理ではなくなる。

こんなにも平和な世の中に、
外にだけ平和をうったえるのは、その人の内に平和がおとずれていないから。

ストレスに対応出来る範囲で社会と付き合えばいい。

道を歩く
それを人に強要することなく。

〜2月15日2004年


今だ出会っていない自分に会う為に
人生の道はあるのかもしれない。

5月11日2004年


人の悲しみがわかるならば、
それと同じ深さで人のよろこびもわかる。

あらゆる情報を得る為に、様々な経験をする。

あらゆるものは、情報交換したがる。
表現とはある種の情報公開なのかもしれない。
そして、それが 情報交換になる。

5月18日2004年


自分の好きな道を歩もうと
自分のいやな道を歩もうと
それにともなって、いろいろなものが 自分のまわりについてくる。

5月23日2004年


コンサートの時
まだ見ぬ人を想い 時を過ごし
そして、出会いによろこび
音を奏でる。

5月23日2004年


白い光につつまれて生きたければそれもいい、
しかし、自分の知らない所でその分黒い光につつまれて生きている人が
いるかもしれないということを深く深く想い
そして白い光につつまれればいい。

身を粉にしても燃え尽きる事は出来ないだろう。

心がともなった感性。

人はイメージを持つことによりその瞬間に
それに係わる全てのものは、アイドリング(待機・準備)している。

責任を意識したくないから行動しないというのは、ずるい。

大切な自分と出会えるかもしれない。

全てのものは
バランスをとろうとする。

転移・転写

ふれながらバランスをとり
センターに近づこうとする。

死んでいった人のいい所だけしか見ないのは、
生命に対しての畏敬があらわれていない。

コンセプトが先行して、命の響きが現れていない。

〜5月23日2004年


人はバランスをとるためならどんな事でもする。

6月5日2004年


声も音もある種の響きではないでしょうか、
どうぞ耳だけで聞くのではなく、心で聞いてみるのはいかがでしょうか。

6月19日2004年


今というのは
過去も未来も今自体も表現されている。

今が変化すれば
過去も未来も変化する。

7月26日2004年


言葉にたよってしまう事がある。

7月30日2004年


ぼくの音は、
何かをリセットするのかもしれない。
そして、まっさらになったとき
それぞれに何かが飛び込んでくる。

7月31日2004年


自分の本性をオープンにする。

8月4日2004年


全てのものが共有しているものに
ふれていれたらいい。

8月5日2004年


一般的に よい とされている事でも
よろこびがともなっていなければ
やらない方がいい。

8月7日2004年


人には
幸せにも
不幸にも なれる
自由がある

8月7日2004年


学生の時
マラソン大会が近づくと足を骨折する人や体調がわるくなる人が増えた。
これは、病気になるしくみのヒントになるのではないか。

8月8日2004年


普段体の中を流れているリズムが演奏の時そのまま自然と現れている
それだけ・・・
だから特別な事ではない。

8月9日2004年


α波が出るような音を出すからみんなすばらしい事がおこる。
ではなぜその音やリズムが出るかは、それを発した人に大きくかかわっている。

8月11日2004年


人はみんな
ポジティブの面やネガティブの面を含んで生きている。
自分だけではなく相手(人はみんな)もそうなんだとおもえたら
どんなにすばらしいんだろう。

8月12日2004年


自然はやさしさも厳しさもある。
それは、受け取るものしだい。
自然はただあるのみ。

やさしさだけや厳しさだけを求めても本当のものには出合えない。

8月16日2004年


自然ですら人疲れをするのに 人が人疲れをしないなんてことはない。

自然は大きくバランスをとれる、ふところの深さを持っている。

8月17日2004年


大きくバランスをとれているほど、おだやかに安らかにいる

これは、自然も同じ事。

8月17日2004年


生きる 実力。

8月18日2004年


人間がする
悪行も
善行も
宇宙の視点からすれば、たいした事ではない。

8月18日2004年


人の行いに
おごることなく
とらわれる事なく
のびのびと生きて往けたらいい。

8月19日2004年


自分の未熟な所は、
これからの人生で養っていけばいい。

8月20日2004年


α波が出るような1/fゆらぎを自然と表現出来ている事がうれしい。
この宇宙に充満している響きと触れ合っているから、
自然と表現出来るのかもしれない。

8月21日2004年


あなたの事を想っていますとアピール的に表現しなくても、
普段から想っていれば、伝わるものだとおもう。

8月23日2004年


自分のいい所、やな所(未熟)・・・・
それらは全て自分の中にあると認識して、未熟な所をなくなすのではなく、
バランスをとりながら変化して、総合的(トータル)な自分としてつきあって
生きていく。

9月2日2004年


想い浮かぶ

 想いが表にうかぶ
 想いが意識とつながる。

9月10日2004年


こんな人生 最高じゃん。

                 9月16日2004年


病気は生きるための 肯定反応。
病気をもって なに(・・) かとバランスをとり 生命を維持しようとする。
そのなに(・・)かを認識する事は大切であり、生命にかかわる事である。

9月22日2004年


本当の静けさは
内なる場所からくる。

9月25日2004年


あなたの
無意識に
語りかけるかもしれません。

9月28日2004年


全てのものは
自分の分身である。

10月5日2004年


幼虫や毛虫は葉を食べつくすことは(基本的に)ない。
必ず少し食べないでおく、そして木はまた葉をつけることが出来る。
自分自身は成虫になり葉を食べる事は無い。
けれども
次の世代に受け継ぐために食べつくさない、そういう智慧をもっている。

10月9日2004年


てま(・・) ひま(・・) かける。

10月16日2004年


なぜ私はその音とであえるのか、
そして、その音を奏でられるのか。

10月18日2004年


伝 波

10月25日2004年


人の浅いよろこびや悲しみ
人の深いよろこびや悲しみ
一緒になって
よろこんだり、悲しんだり
自然としていれたらいい。

11月4日2004年


今ある世間一般の価値観の幸せが、
全ての人に行きわたったらそれは幸せでなくなる。
なぜならば
その時幸せの価値観が変化しているから。

11月21日2004年


いい人でない自分や相手を認めたらいい。

12月30日2004年


あなたの眠っている
力を 呼び覚ましてほしい。



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旅する言葉 2005年



非日常のエネルギー
日常のエネルギー

1月6日2005年


言葉より
音を人は先に使っていた。

1月10日2005年


人は沢山な服を着る。
それをどんどん重ね着する。
とっかえひっかえ着替えたりする。
いっぱいきたり、あまりにも重い服を着たり、
いつのまにかバランスをくずしている。
でも着ていると安心ぽいので服を脱げない。
さらに服をもっと着て安心しようとする。
なぜかバランスは崩れる一方。

薄着でいれたらいい、
はだか(生命そのもの)にいつでもなれる様な自分でいれたらいい。

1月10日2005年


体や精神が
調子よくないという事で
自分の生命に言い訳しても
本当はごまかす事は出来ない。

1月10日2005年


僕達の現実は、
宇宙そのものなんだ。

1月14日2005年


あるアフリカの子供の将来の夢
“生きていたい”

1月13日2005年


心と体と魂のバランスが自然ととれていたらいい。

人が人を本当の意味で幸せにすることは出来ないだろう。
しかし、自分の幸せが伝わる事はあるでしょう。

1月23日2005年


病気をした人(している人)は、その病気が重ければ重い人ほど
パワーを持っている人ではないでしょうか。
自分の体や心を傷つけ、痛めつけてしまえるのは、よほどのパワーを持っていなければ出来ない。
出来たとしてもパワーを持っていなければすぐに死んでしまうでしょう。
自分を痛めつけるのではなく、道を歩く
それにパワーを使えたらいいと想うのです。

1月23日2005年


夜。公園で太鼓をたたいた。
終えると何処からともなく色々な所から拍手が聞こえた。
見えないものとの“つながり” それを拍手というもので表現されたのだ。
それは、拍手だけではなくあらゆるものとの“つながり”を確信し、実感する
ものだった。
見えないものとのつながり。

1月29日2005年


わかちあう。
自分の持っているものを
様々なものとわかちあいたい。

2月3日2005年


やりたいものと
出来るものとはちがう。

    2月3日2005年


食べる事も難しい国の人から見れば
日本人は金のもうじゃにみえるかもしれない。

2月20日2005年


見えないものが
見えるものを
ささえている。

5月24日2005年


変化することにより、
バランスがとられる。(バランスをとることができる)

5月25日2005年


自分の存在だけでは、自分の生命は全うされないだろう。

6月5日2005年


自然とは その大いなるバランスゆえに 自然である。

7月14日2005年


このうつろい出あいに、永遠を感じる。

7月15日2005年


自分の死期を感じられるよう 生きる。

7月16日2005年


誰かの ものを もって(もってきて)
自分の道を 歩む事は出来ない。

7月29日2005年


全てのものは、宇宙を表している。
そこに宇宙をみるのは、自身である。

8月7日2005年


共有したいものを無意識に
共有しているもかもしれない。

8月8日2005年


一般的には、たいへんだけれども
本心から よろこびがある。

8月18日2005年


未熟な自分でも
それをごまかして 表現しない。

8月21日2005年


同調が一体感ではなく、
和の一体感。

9月13日2005年


病気とは
生きるチャンスをもらった事。

9月30日2005年


言わないという言葉を
言っている事もある。

10月12日2005年


人として
それでなければ 出あえないものがある。

10月18日2005年


出あってくれて ありがとう。

10月18日2005年


生命の枝葉を
のびのびとのばせばいい。
生命いっぱいのばせるのは、
根の存在があるからです。

11月1日2005年


浅い根は倒れやすい
深い根は倒れにくい。

浅くて広い根
深くて広い根
深くて狭い根
浅くて狭い根

11月4日2005年


自分にある
余っている力を分ければいい。

11月13日2005年


深いものは
ゆったりと
伝わっていく。

11月16日2005年


そんなには、大きくない自分を
大きくみせると つらくなるでしょう。

11月25日2005


この声が
生まれるべくして生まれ
この詩が
生まれるべくして生まれる

11月27日2005年


音楽を愛している人はるが、
音そのものを愛している人は
それと同じくらいいるだろうか。

11月29日2005年





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旅する言葉 2006年



しっかりと
リセット出来る眠りは大切である。

1月8日2006年


自分のエゴを認識する事が大切。

1月10日2006年


トータルに感じる
トータルを感じる

1月12日2006年


得た知識は
具体的な表現でバランスがとれる。

1月12日2006年


たとえ
ぎりぎりの所にいても
それでもその道を歩めるか
その事を日々体験している(修行)といってもいいかもしれない。

5月21日2006年


都会の朝は
怒っている。

7月6日2007年


自分の心は、
デザイン出来ない。

7月10日2006年


今の状況で、
学べる事は学んでおく。
それが学べたら状況も変化する。

7月10日2006年


人間のエネルギー(力)は強く粗い。
その粗いエネルギーを精妙にする。

7月10日2006年


女性の
肉体的弱さを
男性が補い(フォロー)

男性の
精神の弱さを
女性が補う。

7月26日2006年


本心にたちかえる。

10月7日2006年


自然のダイナニズムに触れた時、
心も同時にダイナミックに動き出した。

10月7日2006年


その存在を生かした表現(もの)は、
自然そのものといってもいい。

10月22日2006年


自然と人の間の表現は芸術。

音は自然寄りの表現かもしれない。 人<――>自然

人は思考や感覚を使えるのが特色である。
それらを融合してバランスがとられ、人間としての表現をする。
それが人としての(全うの)全うに向かう一つの道なのかもしれない。

人は思考があるから飛躍的なイメージが出来る。
10月22日2006年


僕たちは
宇宙の真っただ中に
宇宙そのものとして いる。

12月19日2006年


人としては、
それぞれがもっているエネルギーは大差ない。
ただ、エネルギーが循環しているかどうかの差だけかもしれない。

12月22日2006年


この宇宙の壮大さの中で 僕は壮大だ。

12月24日2006年



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旅する言葉 2007年



知識のストレスというものが、あるのかもしれない。

2月2日2007年


見えているものの  向こう
聞こえているものの 向こう
――――――――― 向こう。

2月3日2007年


音は空気の響きだけではなく
量子レベルの響きとして捉える。

2月23日2007年


きこえぬ音
聞こえぬ音
聴こえぬ音
聴こえない音
きこえぬ音色

2月27日2007年


みえない写真
見えない写真
観えない写真
視えない写真。

2月27日2007年


身体が出来ていない
精神が出来ていない。

3月16日2007年


針の穴を通す様なピンポイントの光に向けて
生命の糸を通す。

3月24日2007年


宇宙は内存する それ(・・) を表現したい。
ゆえに あらゆるもの(・・)は有る。

3月26日2007年


つばさを離れた その羽根は
空飛ぶ記憶が残されていた。

3月28日2007年


無意識のうちに、引きたいカードを引いている。

4月3日2007年


心でみる
心できく
生命でみる
生命できく

5月6日2007年


緊張
緩和
その繰り返しが大切

いつも緊張―>緩和
いつも緩和―>緊張

5月24日2007年


真冬の昨日
真夏の明日
どこで
会おうか
あなたと二人。

5月28日2007年


心にふたをするには、
自分がおもっている以上に力を使っている。

6月30日2007年


自然や生命は
美化して
美しいのではなく。
そのままだから
美しい・・・・。

8月17日2007年


通り過ぎてしまいがちな、その感覚を・・・
もう少しだけ
“やさしく”できたら・・・。

8月30日2007年


内側から(くる)の静けさを
感じる
共感
感じ得て
感得

9月2日2007年


永遠のサイクルの中で
限られた物と共にいきる。
限られた物としていきる。

限られたもの(・・)には
飛躍的なパワーを秘めている。

10月2007年


能力を活かすには、
今使わなくてもいい能力をセーブする。

普段つかっている能力(機能)を一つでもセーブすると、
他の能力が甦ってくる。

10月13日2007年


オレンジ色の
月の夜
僕は 旅から
帰ってきた。

10月22日2007年


抜け落ちた羽根には
空飛ぶ記憶が残っている。

10月25日2007年


感謝できない事は
それが
循環していないから・・・

10月25日2007年


おしゃれ、権力、お金、美容、健康・・・
それら、様々なものは
生命力のアピール
なのかもしれない。

11月12日2007年


人間は環境を変化させる
自らを変化させるのではなく。

人間は環境をコントロールするパワーをもっている。
内より外の変化に重きをおく事を選択した。
その他のものは
外より内の変化に重きをおく事を選択した。

何かをコントロールする必要はない、
ただそのままを感じるだけでいい

その時感じている想念、呼吸、環境、雑念・・・・
を感じる

その時感じているものをコントロールしない。 ただ感じる。

コントロールしようとしている
自分を感じる。

私がいる
あなたがいる

あなたがいる
私がいる

私がいない
あなたがいない

あなたがいない
私がいない

潜在能力が
浮かび上がってくる
人の今必要な潜在能力が
浮かび上がってくる。
僕の特色

赤い月のささやき。

稲妻が降り注いだ時
僕は長い長い旅に出た・・・。

またたく風。




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旅する言葉 2008年



言葉などを表現出来ない人(社会的にいう障害者)などを社会の言語に
無理やり合わせようとするのではなく、こちらから相手の表現を
「くみとろう」とすることが大切ではないかと想う。
その表現には、すばらしい宝が既にある。
その宝を“めぐみ”として受けようとしないのは・・・
何かある。

2月11日2008年


僕達人類は、
どこまでも“傲慢”な所がある。
「傲慢である事を知る」
この知るというこれ(・・)が大切な様に感じる。

2月11日2008年


自分の中にないものは出来ない(しない)。

2月12日2008年


勝つによろこび
負けるに悔しく
・・・まだ まだ
   及ばず。

2月20日2008年


見えない
大いなるものへの 音・・・
大いなるものは
全てに通じていると、信じるが故に
ただ ただ
大いなるものへ・・・・
向かう・・・音。

大いなるものへ
向かえば
全てに通じていると・・

大いなるものへ
通じれば
全てに通ずると・・・

音=道=僕

その時の共有は、
僕にとっても
よろこびです。
ただ ただ
大いなるものへ向かう・・・・音
それは、
大いなるものが
全てに通じていると感じるからです。
そして、その大いなる共有は、
大きな大きなよろこびです。

3月3日 2008年


音楽(音)は
耳で聞くだけでなく
全てで
感じてみる(事です)

3月13日2008年


満月の日は、
海に現る
一筋の(月の)道を歩む。

3月15日2008年


太古の音(音楽)は
生命に密着していた。
寄りそっていた。

3月18日2008年


能力者どうし
その能力をいかしあえたら・・・
すばらしい。
全ての事にもいえる事でもある。

3月23日2008年


鳥は
風に吹かれて 生命(われ)をしる。

3月28日2008年


その人の人生が係わっている
ものはすばらしい。

4月8日2008年


生命は我なり
我は全てなり。

4月12日2008年


男には
帰る場所の無い旅はありえない。

4月15日2008年


最高じゃん
こんな
すばらしい世界に生まれてよかった・・・・。

4月15日2008年


出合った
全てが
僕なんだ・・・。

4月15日2008年


僕の写真は
そのものの
エナジーを
写真に転写しているだけなのかもしれない。

4月19日2008年


山に分け入り
みどりに
およぐ・・・

5月1日2008年


不自然とは、
社会での自然な事は
大自然から見れば
不自然な事も
あるかもしれない。

5月13日2008年


感動する事にも
エネルギーが必要である。

5月28日2008年

自分自身が出来ない事を
相手にのぞまない。

7月8日2008年


自分が傷つかない様にする為に他人を傷つける、
もしくは、自分を自虐的に傷つける(これも自分を傷つけない為に)
それもまた自分を守る為なのだろう。

7月12日2008年


心(みえない)と体(みえる)の成長。
みえない世界とみえない世界(の成長)
それらは、お互いバランスをとりながら変化していく

7月14日2008年


自分自身にかけている、見えないプレッシャーに
自分の
心や
体や
(魂)

たえられているか?

7月30日2008年


人には人
人類には人類の
役目がある。

9月19日2008年


自分の生命を 真直ぐに生きる。

9月28日2008年


昔 想った不思議、想いを
僕の魂は
しっかりと
もっていた。

12月8日2008年


夜に流れる雲は
うそをついていない。

12月21日2008年


真直ぐな心は
自然に通ずる。

12月23日2008年






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旅する言葉 2009年



主役をいかすだけでは、主役の力以上にはならない。

3月18日2009年


落ちた花は 薫らない
だから その一瞬まで・・・。

5月5日2009年


さわやかな あきらめ。

5月7日2009年


一つ以上にわかれるのは・・・
目、耳・・・男女・・・
位置がわかるんだ。

5月13日2009年


生命を受け継ぎ
そして
永遠(悠久)を 奏でつづかん。

5月14日2009年


旅は
どこに行って何をしたかも大切だが
どう過ごしたかが
旅の醍醐味でもある。

5月23日2009年


大人が
他人の生きる様をあまりにも受け入れていないと、
それを感じている子どもは、
どう生きていいのか戸惑うだろう。

5月23日2009年


自分の叫びは 聴こえづらい。

5月28日2009年


その人の
内なるあなた(魂)の よろこぶ道を提案する。
外なるあなただけをよろこばしても
魂はよろこばない。

5月29日2009年


いらついている社会と
どうつきあう・・・・。

6月23日2009年


きらいだけど 愛している。

 7月5日2009年


脳も
見えないけど
共有しているのかもしれない。

7月6日2009年


両刃の剣を
本当に使った人から、その使い方向かい合い方を学べ
使った事のない時は、あたかも使用した事があるように、教えてはならない。

8月10日2009年


人生
おもい通りにいっていると知る。
(無意識も含め)

8月11日2009年


月が空に とけ込む時間・・・・。

9月5日2009年


すすんで病気になろうとする人はいない・・・
と言うが・・・
無意識では、どうだろうか。

9月13日2009年


癒してくれる 音は無い。
癒すのは、それに響いた 自分自身。

9月21日2009年


人の想い
それは、人ならではの
スピリチュアルなのかもしれない。

9月24日2009年


自然の偉大さに、包まれ安らぎ
自然の偉大さに、恐れおののく。

10月8日2009年


全射。
全身を
すき通る風
・・・僕は今 風なんだ。

自分の奥底を
本当によろこばしているか。

核を震わせているか。

          10月30日2009年


何かを求め
期待しない行い・・・

無心の行い・・・。

10月31日2009年


あいまいな輪郭には、
膨大なエナジーが
あるのかもしれない。

11月1日2009年


和して
響きあう。

12月2日2009年


子供のころは、
大人は純粋でないと感じ傷ついてきた。
そして、いつしか純粋でない道を歩んでいく・・・
僕は、純粋でない事を受け入れる道を選んだのかもしれない。
たとえ自分が純粋であったとしても、
そうでない事もよしとして、受け入れる道を・・・・。

12月5日2009年


想いを込めたら
その分無心から遠くなる。
想いは、普段からともなっていればいい。

12月7日2009年


無償の愛は、
人間がキャッチ出来る範囲の無償の愛なのではないか。

12月27日2009年


ひとりよがり
自分よかれ

相手や物事をおもってはいないか。

12月29日2009年





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