お や お や

10月

バス停

 
 「K、じゅんびばんたん!はやく行こうよ。」と、出発時間30分前に身支度を整えたK(愛称…K坊)は言う。毎朝母を急がし、やっと玄関を出られたK坊は、足取り軽くバス停へ向かう。こんな日常を数ヶ月前は想像できていなかった。
 入園式当日、「K、ようちえんいーかない!」と言うK坊を何とかその気にさせて幼稚園へ向かった。園に着いてからも父から離れず、終始硬い表情のままのK坊をどうにか集合写真に収めさせ、ほっとしたのも束の間。K坊は大声で叫びながら父に突進し怒りをあらわにした。初めて見る息子の姿に慌てふためき、翌日からの園生活を想像するだけで深いため息が出た。
 初当園は予想通り大変だった。家の中で大泣して拒否するK坊を、抱っこで無理矢理連れ出しバス停へ向かった。朝の団地に泣き声が響き渡った。今生の別れのように泣き叫ぶK坊を少しでも安心させるために「待ってるからね。」と繕った笑顔で言った。先生に抱きかかえられたK坊はバスの中に吸い込まれていった。母の胸は締め付けられ、バス停からの帰り道、涙がとめどなく溢れた。初めて味わう感情だった。「あぁ、私はK坊の母親なんだ。」と改めて強く感じた瞬間だった。
 帰ってきたK坊は疲れた様子でぼーっとしていた。さぞかし緊張してビクビクしていたのではと心配していたが、先生からの手紙には「たくさんおしゃべり」し「にこにこ笑顔」といった言葉が並んでいた。初日にしてK坊らしさを出せていることに驚いた。「ん!これは意外と早く慣れるかも」と、一気に期待が高まった。
 2日目の朝。「行かないことにしよ。」と泣き叫び、リュックを遠くに追いやり全力で抵抗するK坊を抱きかかえ連れ出した。また団地に泣き声が響いた。バス停で落ち着きを取り戻したK坊は、「先生のひざの上に座りたくない。ひとりで座りたい。」と訴えた。母は「泣かなかったらひとりで座れるよ。」と伝えた。バスがやってきた。K坊は自ら乗り込み、自分で選んだ席に誇らしげに着席した。母にバイバイと手を振るとみるみる泣き顔になりかけるも、我慢して何とか耐えた。バスは軽やかに走り去ったいった。見送る母の心も軽くなっていた。
 3日目には、少しだけ泣いてみた後、すぐに「行く」と気持ちが変わり、バスに乗ってからも泣くことなく手を振って発車。
 4日目になると朝から「ようちえんに行きたい。」と言い、張り切ってバスに乗り込んでいった。バスは足早に走り去った。早かった。バス停での涙の別れを1ヵ月は覚悟していた母の想像は裏切られた。少しの寂しさを感じつつ、心は晴々としていた。
 K坊があっという間に涙の別れを卒業できた要因の1つに、同じバス停から乗り込む年中組のHくんの存在があった。初当園で泣き叫ぶK坊を心配そうに見つめていたHくんは、次の日からバスの車内でK坊の隣に座り、ずっと手を握ってくれていた。Hくんの優しさに胸が熱くなった。今日も同じバス停にHくんが来るという安心感がK坊のドキドキを和らげ、幼稚園との距離を縮めてくれた。
 1ヵ月ほど経った頃には少しずつ緊張もほぐれ、園での生活にも慣れていった。「今日は○○ちゃんがこんなこと言ってきて、K、こまる!」「○○さんがあついときでもあったかいもののんだほうがいいって言ってた。」と教えてくれるかK坊の表情はいきいきとしている。大嫌いな検診の日は危険を察知し「今日は行かない。」と朝からひと悶着。添乗員さんの魔法の言葉でコロッと行く気になり、母はポカンとした顔でバスを見送ったこともある。
 入園してから6ヵ月近く経った今、K坊はとても楽しそうに幼稚園に通っている。友達とぶつかることもあるけれど、先生に見守ってもらえている安心感から自分らしさをどんどん出せるようになってきている。大きな声を出し、友達と楽しそうに自由に遊んでいるK坊の姿を眺めて、母はほっと胸をなでおろしている。
 そして、母は今日もバス停でK坊の帰りを待っている。どんな顔で帰ってくるのかな、どんな話を聞かせてくれるのかなと楽しみにしながら…



このウィンドウを閉じる