園 長 と 語 ろ う

令和3年9月

― 二学期の保育方針―

 今年の春四月三日生れで満三歳で入園して来た子どもは二歳の頃の母子分離から三歳の自己チュー(自己中心期)の「何を言っているか!何がしたいのか!」など言葉も行動も自分の思い通りにしかしません。お母さんは検温とか手指の消毒、うがいの励行と一杯子どもの健康の為に教えなければなりません。大事なのはマスクと思いがちですが、二・三日もすると遊びたい子どもが部屋の前の砂場で手足洗い場の蛇口を全開で大騒ぎ・・・。苦しかったり、濡れたりすると、園庭のあちこちに散乱しています・・・。「〇〇ちゃんマスクないよー」と担任が声かけすると近くに落ちてるマスクを着ける姿を見て翌日より私は「マスクは要りません」と申し上げました。満三歳から年長まで(基礎疾患のある子を除く)「手洗ったかー」とか「部屋帰って来てー、グチュグチュしたかー」などと声かけする先生とは対照的に満三歳で第一子の冒頭の子が「ばい菌がついているかも知れないし手指の消毒しないと駄目だよ」「消毒・手指、うがい、検温・・・」の単語が文章として当然のように使われます。小学生のように言葉が自分で概念化できるだけの体験を経ていないと通じ合わないのですが、生まれて一年六か月後の十二月に中国発祥と言われたコロナ感染症が日本にも上陸しました。それから一年六か月後に登園に入園されたのですから現在の核家族(四十年程前入園児の調査で既に九二%)化ですので二世代が同居というのは少なかったのです。その頃の三歳児男児が薄い板切れに十字に一本の釘で打ちとめてあるのを本人は剣と思っていて悪者をやっつける・・・と意気込むのを「〇〇はええ子やなー婆(ばっ)ちゃんの薪持って来てくれてー」本人「??、ええわ、明日も楽しみにしててやー」受け入れてもらえるだけで嬉しいのです。

 婆ちゃんが間違えても認めてくれた事で子どもは癒されるのでしょう。このように二世代同居していると子育て経験者が孫に本音でやんわり接してくれる・・・という事で第一子の子育てを育児書通りに育てようとする嫁の気持ちを和らげてくれるのです。

 コロナ禍の中、母親一人で子育てするのですから「消毒、手指、うがい、検温・・・」と難しい単語が文章として当然のように使われます。「ばい菌がついているから手指の消毒しないと駄目だよ」と声掛けされるより先生の「手、洗いやー・グチュグチュ(口洗って)しいやー・・・」等と簡単な先生の声掛けには子ども同士での口(くち)伝(づた)えも出来て食事前のセレモニーは全員に伝わるのです。「いただきます」と手を合わせていった後「手洗うの忘れたし手洗ってくるー」と一口ほうばりながらでも手洗いが自分達のものとなるです。三歳児は自己中心期、仲間が一人で砂場に水を運んでは滝の様に上から落としていてその水が流れていくのを何回もくり返しています。「楽しそうだね、僕もよせてください・・・」と三度頼んでも知らぬ顔されたのでバケツを取ろうとしたときに突き飛ばされ大泣き、あまりの大声に遊んで子は退散、大声に先生が気づき抱き上げ、抱っこしてゆっくり揺れてくれます。泣き声が小声になったのを見計らい「着替えよ・・・」と部屋に戻ります。夏休みに入る頃まで静観している状況です。「寄せて・・・貸して・・・」などと大人は入れ知恵をしますが、それは本人の子どもが気付くもので言葉で教えると体験学習ではないので知恵を出すようにはなれないのです。知恵の芽「気付」の発芽が自己中心期なのです。むらさき幼稚園は「待つ保育」と言われる静観を教えたい気持ちに敗けずにやれるのも子ども自ら概念化の芽を発す「自発性」出発点となる事を。今年度の二学期の生活となる事でしょう。


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