園 長 と 語 ろ う

令和2年11月

― 月のねらい  十一月 発心(ほっしん)修行(しゅぎょう)) ―

 個々に目標を見つけてそれに集中する。

 幼児が無心になって遊べるのは自分の成長になることを楽しそう、おもしろそうと感じるやいなやすぐ真似をすることです。無心になれるほど熱中し、その中で競争相手であるライバルと競い学び(真似び)合い、助け合う。その評価は自分自身でなされる為、反省となり、次なる「発心(ほっしん)」の指針となる。むらさきでは子どものこの真似ごと遊びを「学び」それも自学自習の根幹であると確信しています。

通常ですと、四月からの新学期は園生活に慣れるにしたがい、自己主張を一杯出し合いコントロールする術もないのでオーバーワークとなってセーブせざるを得ないような怪我に到る必然の休養を要する子もあります。周りの子ども達もセーブするきっかけとなったりするのですが身体はいつまでもジッとしていられず動かすことを要求してきます。身も心も少し休まねば…という頃にゴールデンウィークがあり、家族と共に一週間ほどの癒しの時間をとって身も心も充電がなされ身心共に自己コントロールされての六月が始まり、野生動物から人に変身して人らしく活発に活動できる一学期の終わり頃と同じようなのが四・五月と二カ月休園したコロナ禍の現在の子ども達の運動会前の今頃ではないでしょうか。今年は二学期になってやっと新学期が始まったと私達も考えてやれねばならないと自主性とか自発性の発揮を看過しないように余程注意しなければなりません。この十一月号が出る頃は運動会も年長・中・少と終えている頃でしょう。この原稿を書いている頃は毎日年長の運動会の相談をしたり、実践してみたりと二十人のクラスメートと担任の荒木先生とで悩む事が一杯。昨年四歳児で経験した運動会が唯一で、今期は小学校や中学、町内の運動会も聞きませんので中止になったのでしょうか。

 二週間も前から登園した子ども達だけで運動会ごっこの話をしたり、遅コースの子どもがやってくると又、新たな運動会のあれやこれやと何がしたいのかの話し合いが始まります。早コースのクラスは園庭でイメージの共通を求めて実践らしきプログラムが始まり、遅コースの子どもの運動会の会議が始まります。

 この二週間の中には芋掘りがあったり、令和三年度の入園業務も始まりやっと開かれた今年度初めての園庭開放や園見学の人たちでごった返した中での試行です。加えて台風と秋雨前線で長雨が降ったりして園庭の使えない日もあったり…と園庭を使えない日には運動会で使うグッズ作りや「会議」と大人の真似をしてかっこ良く名付けられた話し合いがなされます。教育は「概念付け」と言われるように小学校以上の学校では「言葉で概念化する」に比べ、幼児はあそびを通して概念化すると言われる体験学習なので、机上で先生の言葉で諭される事を記録して学ぶという事はできず、その真似事で説明をしたい子どもは部屋の中だろうが園庭であろうが廊下であろうと話し合っているところですぐ身体を使って説明してみるのです。チガウとか、上とか下とか言葉は二語文でも手振り身振りが付くので以心伝心のところが楽しいのでしよう、おもしろくしようというみんなの気持ちが一つになれ、大人には馬鹿にされそうな…。それでも幼児にとっては同級生という仲間とのつながりの大きな大きな力を発揮するのです。

 大人のように自分の思いや考えといった感情を言葉で表現することはできないけれどどうすれば楽しくなれるだろう、おもしろくなれるだろう、と自分の事のように友を楽しませるあるいは喜ばせる為にいっぱい考える事ができます。こんな苦しい閉塞された心情に立ち向かう苦労を何故するのでしょう。理屈ではなく身体が憶えているのでしょう。友が喜んでくれれば自分も楽しくてうれしくなれることを…。苦しさや悲しさを乗り越えると必ず楽しさや嬉しい事があるのを子ども達の身体が憶えているのです。

 私達大人は幼児期遊びの中で自分で生きる最も大切な体験学習を机上で得た概念ですっかり忘れてしまっているのです。仏教の祖お釈迦様は仏教経典で全てを教えその弟子たちが何十年何百年も言い伝えられたものを“如是我聞”私はこのように師僧から聞きました…という八億四千もの教えを今に伝えているのが「発心(ほっしん)修行(しゅぎょう)」其の一つなのです。


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