園 長 と 語 ろ う

令和2年9月

― 二学期の保育方針―

 コロナウイルス感染症拡大防止の為、三密にならない入園式・始業式になり、入園児・進級児・保護者の方々に失礼の数々、お詫び申し上げます。引き続きその後も休園が続き五月二十七日(水)より変則的(半数ずつの午前保育)で待ちに待った休園が解かれました。四カ月もある一学期がその半分で幼稚園に入る時や園バスに乗る時には検温の確認と手の消毒と園に入る時はウガイ(もしくはグチュグチュうがいで飲み込んでも良い…)などと申しておりましたがウガイのできなかった子が一学期の終業式頃には ちゃんとしています。先生がやっきになって教えようとしてもできないのに見様見真似でできるようになっていました。幼児教育の学びの基本は真似ごと(ままごと)と分かってはいるのに子どもの健康の事を考えるとなんとか真似ごと遊びをしてもらおうと教師としての方策を立ててしまいます。

 日本中あるいは世界中コロナ対策で満ちている環境が子ども達の生活にも家庭でも何処に行ってもあるので子どもながら現状として受け入れられたのでしょう。幼児教育は環境を通して主体性を育むことが目的となっていて、ご両親や本人を含むご家族・ご近所の方々、幼稚園の先生や友達なども社会性の発芽期の人的環境として存在している…と私は思っています。その他に物的環境として幼稚園では教材や教具・園庭遊具やプール、園庭(運動場ではありません)に草木などや飼育されている小動物や昆虫、飛来する蝶や蜂、セミ、小鳥や蛇、カラスetc…そんな子どもを取り巻く小さな自然環境も含まれます。これらの物的環境と先の人的環境に係われることで全てが学びになります。私達人間も自然なのですが、自然に生きる子ども達が気付いてみると、理屈を述べられるようになっていて、その理屈は私達大人の社会でも通用しますので、「そうじゃないんだけど?」と思いながら心の中にしまい込むのです。理屈は概念なのですが乳幼児期はまねごと(ままごと)遊びを通して真似できる友、真似してる自分を真似る他の友…真似る、あるいは真似される自分を入れると最小の社会ができました。ままごと遊びは「自己中心」の三歳児では「おもしろそう…」と感じればすぐおもしろい遊びをしている子のものを取り上げて見た通りの事をしてしまいます。まねごと(ままごと)遊びの始まりです。とられた子はビックリして反撃する子もあれば、担任に大泣きしながら訴える子もいます。先生は悲しんで泣く人にそっと肌を触れ合いながら優しく揺れてやるのです。これは仏の持つ慈悲心を真似ているのです。悲しくてあるいは、痛くて、悔しくて…と泣く時もあるでしょう。この時を体験するからこそ、嬉しくて楽しくて…という喜びを感じられるようになるのです。これは豊かな感情を育むという初期で「自己中心」だからこそ、無鉄砲にも発揮できるのです。「寄せて」「貸して」「代わって」とセレモニーを言ってもむらさきっ子は理由がある場合は決して要望には応じてくれません。

 もう少し自己中心を発揮しなければ…との思いで応じてはくれません。概念は幼児期には教えられないのです。概念化するのは子ども達です。まねごと遊びで学(まね)ぶのです。自ら学ばないと豊かな感情は教えられるものではありませんので…。

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