園 長 と 語 ろ う

令和2年6月

― 仏教とコロナウイルス―

 年末頃からコロナウイルス感染症が世界中に広まる兆しが見られ日本でも1月頃より体温が37.5℃あれば自宅で待機して地区の保健局の指示に従う要請が出され、卒園式や入園式なども三密(密集・密接・密閉)を守り、マスク着用(幼児は遊びに夢中になると外して置き忘れなど、かえって非衛生なので親の了解を得て不着も可とする)、検温カードに記録し毎朝職員のチェックと園の入口で掌の消毒とうがいの励行。保育室や遊具、教具、ロッカーなどすべて毎日消毒をし、卒園式・入園式などの式典も両親のみで来賓もなし、メインのセレモニーのみと時短して実施しました。春休みに引き続いて4月7日に緊急事態宣言が発令(命令権はない)され始業式以来5月26日まで休園となる。不要不急の外出自粛要請であったが民主国の日本人は農耕民族でしかも主食が水稲であったのが幸いしたのか人間本来の社会性を発揮しないと生きられないことを生活習慣として自律心・自制心・協調や共同など助け合う心が身に付いています。加えて島国なので国土の大半が山々とそこを源とする水が豊富なのですが水田は段々畑(猫の額ほどで千枚田と呼ばれる)を作ったり、用水路を引いたり、最も大変だったのは水田は水平を保たねばならないという事で平地では一反(三百坪)とか一枚と呼ばれる。一反で一石の米が収穫でき一人が一年間食す量で一日五百グラム程でしょうか。加賀百万石と言われる前田公は百万人の兵や農工商の人口を要するので、その大切な水を大切に利用する知恵を働かさなければならず、農民をお百姓さんと尊敬していました。それは百の姓(さが)を持つ人の由縁なのです。土木工事大工水道工事など生きる術を村一族で助け合いながら百もの顔を持っている各々が知恵を出し合いながら何千年も生きて来れたのです。

 「村八分」という言葉が三十年程前、京田辺草内の新任住職時、檀家の葬式があり施主が属する念仏講(葬式に関しては墓掘りから葬式の必要品作りなど、葬式〜納骨に到るまでの全ての進行を司る)が葬式の後、「申し上げ」という住職を始め講中の労を施主が酒と肴でねぎらってくれるのです。たけなわの頃、講中の年上が急に膳を転がし「おっさん帰ろ、みんなも帰るでー」と講中はみんなそそくさと寺へ帰って年上に聞くと「ケジメをつけたんや…」との事。家の者が年上の許しを得ずに箸をつけたから…。冠婚葬祭など十の掟があり、葬式と火事の二分は手伝わなければならず、後の八分はほっとけ…というもの百姓は百の顔があるけれどもどれも全て現場の顔であるので男社会になってしまう。「中学生から墓掘りやってて埋葬の時、雨が降ってて仏さんと一緒に穴に落ちましてん…」と…。たとえ子どもであろうと父親が亡くなると長男が念仏講社中になるもの。十分(じゅうぶ)の決まり事以外にも屋根の葺き替えや、用水路や農道の清掃、補修に田植え等の事は、代理がききません。運命共同体なのです。

 5月27日より半数ずつの登園が午前保育で始まりました。当園の保育室の平均が56u。だいだい全員19名、最多クラスで2.9uで1名収容でき上下左右1.7m離れています。6月8日より午前のみの通常保育になります。尚、現在半数当園で園バスの座席シート3・2人掛けに1人座し、前後左右一座席空きます。乗車時に検温照合と掌の消毒をし、園で降車後はうがい(グチュグチュか自分の茶を飲む(可))。バスは送迎共園児が乗車前に子どもの手の触れる所はすべて消毒しております。最大の乗車人数は1コース16人、2コース7人、3コース11人、4コース7人。でサルバスが幼児39人乗、タヌキバスが26人乗、1・3コースはサルバス、2・4コースはタヌキに決めております。

 15日(月)より年長・中は弁当が始まります。密接にならない様にだいだいの組は隣の空き部屋に分散。もしくは遊戯室で全員…など二者択一になります。また、年中の2クラスは最多だいたいのクラスでも前後左右1.7m離れています。これでお母さん方はご安心なさったでしょうか。机上の計算上ではゆとりがあります。でも納得できない方はその旨申し出てくだされば保育日数を減じて出席どちらもありませんし、その為の補講もありません。

 勤勉で実直な日本人という世界の評価は奈良時代に仏教が中国・朝鮮を経て日本伝来しています。漢民族は仏教経典で釈迦が説法した教えは八億四千あると言われ、一つの事でも聞く人に応じて説かれました(待機説法)一つの集落、一人の信者など合わせて八億四千だったのでしょう。

 「仏」を漢訳した一つに「ニ自レ由・一自レ在」とあります。「自分が在るのは自分に由る」即ち「今の私は今迄の私の生き方に由るのだ…」と自己責任を負える人が「仏」なのだと言えるでしょう。むらさきは「自由自在(じゆうじざい)を自然(じねん)に」と建学の精神にしているのは邪気の無い幼児期は全く打算がないので好奇心や興味を抱くと、すぐその中に入り込み我が物顔で遊び出します。何のことわりもないので泣きながら先生に助けを求めました。あるいは取り返しに私を泣かす程打ったのです。泣くAちゃん、私を泣かせるBちゃん、そして私。これは3人集まり社会が出来たのです。これを知る生活の中では1カ月もあるいは何カ月も続くかもしれません。でも私達が教えられない他人の存在を自分で認知したのです。これが人生で最も長く見えても最も早いのです。自分の気持ちをコントロールしたりAやBを思いやったり…と日本民族が太古の時代から受け継いだ精神は年長者を真似して真似してえた宝なのです。


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