園 長 と 語 ろ う

令和2年4月

― 豊かな感情 ―

 本日入園された子ども達は今日からむらさき幼稚園の「自由・自在」を自然(じねん)に…のむらさき保育が始まります。

 仏教の仏は私達人間はもちろんの事、生きとし生きるもの全てが仏になれる種を持っていると説きます。「仏」を仏教大辞典で調べると「悟りを開く」とか「覚者」等とあり数ある中に「自由・自在」とありました。この自由・自在は私達が「自分の思いのままに」操れる…といった意味で使われます。漢文ですので直訳すると「今の私が在るのは、今までの私の生き方に由る…」というもので、私の責任であり、〇〇が教えてくれなかった…などと責任を転嫁してしまいがち、むらさきはそんな弱い子でなく潔いたくましい人に成ってほしいと思います。「自然に」と在るのは生きとし生きる物全てが自然で「人」も自然なのです。稚児は神仏と言われ、神仏の住まわれる場に出入りできます。神殿や本堂の内陣に入り神主や住職の祭(斎)事(献灯・華・香)を司ります。

 現在は「幼児の学習は遊び…」と申しておりますが四・五十年ほど前までは「ままごとして遊び!」などと申しておりました。ままごと遊びは自分の育児をしてくれるお母さんの姿が自分にしか向いていないので最も安心できる場であり、時でした。

 子どもが学べるお母さんをとり戻してほしいのです。例えば幼稚園の送迎時でも満面の笑みで送り、出迎えは待ち遠しかった気持ちを両手を広げて子どもを受け止めハグしてやるとか、おやつ作りは子どもとともに作れるもの…、ダンゴ作りとか蒸しパンとか、母子共有の時間を大切にしてほしいのです。ひと時であっても充分時間をかけてあげてください。焦らず効果を求めずが大切です。求めると不自然になりますので。


― 往還二相(おうげんにそう) ―

 四月の月のねらいですが自分自身を大切にするとともに他人を敬う…と解説してあります。本日より入園された三歳児(満三歳を含む)ははじめての集団生活が始まります。三歳児は「自我の芽生え期」とか「自己中心期」といわれております。日本の幼稚園の歴史は百年以上も前からあり、先駆者は幼児を集めては観察されて学問的に色々と解明され指導や指示は通じなく、自ら体験学習するままごと遊びだと覚られたのでしょう。私達のように学校で幼児教育を学ぶと教諭の性でしょうか教えたり諭したりしがちになりますし指示もしてしまうのです。幼稚園生活の姿が見えない親御さんに見せてあげようと紙のこいのぼりを四月末には持ち帰りますし、画用紙に絵を描く時間があったり、それを持ち帰らせたり…。設立者の骭サ理事長はピアノや笛での音で立ったり座ったり時間差で園庭で遊ぶなど保育は一斉の管理保育にならざるを得ないと園児を減らすことで欧米の幼稚園を見学した成果を実現しようとして「運動会でない運動会」や「創作活動の参観日」や手作りの「生活発表会」など子どもをデモンストレーションに利用する見せかけだけでなく、すべて子ども自身の発想と主体性を発揮できる保育に変えました。理事長の主張は四十年に体系づけされた幼稚園新教育要領では子どもの主体性を育むとあります。それは憲法第二十三条で“教育の自由”が保障されているのでそれを受けて主体性を育む事は子ども一人ひとりの自由な発想に基づく遊び(生活)作りであるという一人ひとりの成長に応じた保育の在り方を模索する等々。

 理事長の熱弁にも現場の先生方はどうしても理解できず京私幼協会(現 連盟)会長で北野幼稚園の設置者・園長でもある倉地省吾先生がコーディネーターとなりアメリカ西海岸の幼稚園・保育園を見学したもので一週間の日程でハードなスケジュール。ホテルに帰って夕食後も遅くまでミーティング、それでも間に合わなければバスで移動中もミーティングとハードな海外研修だったけれどキンダーガーデンと幼稚園の事を呼ばれている意味がよく分かります。園舎は平屋で日本でいうと保育室を二部屋と職員室(管理室)とが一つの建物であり(決めてはないですが公立の保、幼はこのパターンが多い)、後はその建物の何十倍もあるような園庭が一面の芝生で日本の小学校のグランドほどもある空間には針葉樹林の中に丘や谷(水は流れていない人工)が造られサッカーのまねごとゴールまで丘と谷とは高低が2メートル近くあり急ではあるが芝生が敷かれているので走って登り降りしてシュートするものなど(これもスタンフォード大学の附属幼稚園でした)。また機会があればお話しします。

 この後、春休みが終わり新年度より理事長の提唱する一人ひとりの発達に応じた保育をする中で観察記録をとり保育の手立てを話し合うという職員会議が続くなど大学院生が論文作成の為に子どもと生活するそんな研究者の目になってしまって保育者までがそのような目になっていて「明るさがない」と他園で永く勤められた先生が当園の先生になってもらい先生たちが暗い…と指摘されてからは形式的になったものを崩して子どもを主に据え、三歳の特質である自己中心期・自我の芽生え期と言われる面白そうと思えばすぐその輪に入ってしまい、それが年長の遊びに入り込もうとすると「できるようになるまで側で見とけ!」と厳しくブーイングされてはじき出されます。雲梯などで練習を積み重ねると五本の指全部を覆いかぶせて渡るのですがキッシーの吊り環を持って手長猿のように動き回る環を握る時は親指を下に回して環を握っているのです。真似るという真の意味を三歳児が一年かけて示してくれました。言葉が荒いですがまだ握力のついてない三歳児が安易にキッシーでもブランコでも交代してやると必ず怪我することが分かっている経験者はダメ出しをしてくれます。自分も通って来た道を年少の子ども達に檄を飛ばして自分で経験を積んで自分で覚って行くという思いやりが生活の中で培う大きな力をごく当たり前の如く発揮できるのでしょう。


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