園 長 と 語 ろ う

令和元年5月

― 学ぶと教わる―

 入園式後、保護者の皆さんにお話をさせて頂きました。その前に、「学ぶ」と「教わる」ことの違いを幼児にとってはいずれが自然か!と考えたからです。「学ぶ」語源は「真似ぶ」即ち真似ること、真似ごと=「ままごと」でままごと遊びが幼児の生活になります。即ち「やってみたい」と思える知的好奇心が抱けるや否やすぐ真似をします。

 ヨーロッパ製の小さくて赤と黒の三輪車に乗っている三歳児の姿に惹かれた同じ三歳児の大柄な子どもが、その三輪車を奪いとって乗ったのですが、動かすことが出来ません。ペダルを踏む度にハンドルが右や左へ廻ってペダルから漕ぐ足が滑るのです。動かないのを見て奪い返そうと反撃に出て二人とも大泣きする程、意地の奪い合いです。

 さて、こんな子ども達の遊びをお母さんがご覧になれば、悲しい思いや辛い思いを我が子にさせたくないし、又相手の子にもそんな思いをさせたくない・・・と思われるでしょう。そして「よせて」と言うんだよ、「かして」って言うんだよ、と優しく言葉でマナーを教えました。この親の願いは大人の常識です。

この「かして」・・・「いいよ」とセレモニー通り事が運ぶと互いに意地や涙は流さずに済んだでしょう。でも大泣きする二人に先生が駆け寄り、抱っこしてもらって「悲しかったなー」「ビックリしたなー」とゆらりゆらーりと揺られている内に涙も止まり、気持ちも晴れやかになって手を取り合った二人が遊びの輪を求めて、園庭へ飛び出しました

 先生達に抱っこされて流した涙のわけをわかってもらい、ゆりかごのように揺れているうちに楽しくなってきて二人で遊びを見つけに園庭に出て行きました。この行為は先生が(お母さんが)子どもの悲しみを受け入れ、それを温かなゆりかごで表現してやりました。子どもは気持ちが安らかになり(安定=安心(あんじん))勇気づけしてもらって、自己中心で遠慮(思いやり)のない世界に自分で加わりました。何の挨拶や儀礼もなく自己中心を発揮して真似び遊びで楽しみますが、思いの違いのぶつかり合いで又、涙を流す・・・(安定)→(真似び)→(依存)→(安定)の繰り返しで学べる事は、我慢する事やさじ加減という自己調整をする事を・・・です。自分でAちゃんの特徴とBちゃんの特徴と複数の他人を認識するという自分を加えて社会作りまで三歳児が自分でやってのけるのです。これを私達は「概念化」と申します。

「教育は概念化」と言われています。しかし大人の常識を言葉で言われると、それは既成の概念を伝えられたことになり、自分で概念化する過程の真似る(学ねぶ)体験学習を抜いているので使うチャンスがわかっていません。

 悲しみや苦しみ辛さを経験した分、自分で考え工夫して乗り越えると喜びや楽しさ、面白さという成長に至ります。敢えて辛い思いを作る為に、意地悪なこと、不快なことなどを刺激として与え合うこともあります。仲間だからこそ・・・。

 さてここでお母さんをはじめ保護者の方へお願いです。大人の常識を教えなんでください。且つ理屈を加えることは絶対やめてください。

大人の常識は、子どもにとっては既成概念ですし、理屈は道理なのでこれは言語でしか表現できません。幼児の言語能力では表現し難いので一言「そんなことしたらあかんのにー」付け加えて「お母さん言うたはった」・・・と。子ども達が遊んでいるとあっちの遊び、こっちの遊びを否定していると遊びが面白くなくなり、その子どもが来ると何も言わずいなくなります。遊びが発展しないので避けられました。

 大人の話が聞き流せる、小学校中学年以上なら自分で判断できますので。(特にお母さんの言われる事は意味を理解できなくても絶対に守ります。母親に見離されると生きられない・・・という畏れを持ってますので)標題の学ぶは真似ぶ・ままごとで自らままごと遊びをすることに対し、教わるは既成概念を言葉で教わることですのでお客さんになってしまい主体性が育めません。言い換えれば自動詞と他動詞の違いです。邪気の無い幼児は仏の「慈悲」と如何にすればその「慈悲」を発揮できるかと考える「智慧」を自分達で発揮する生活をしています。換言すると僧侶が生涯かけても得られないのに幼児は生まれながらにして、しかも既成概念が受け入れられるようになるまでは「仏道」を歩むのです。

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