園 長 と 語 ろ う

令和2年2月

― 月のねらい
   一月 一切(いっさい)無碍(むげ)
   二月 知恵如(ちえにょ)海(かい) ―


 一月「一切(いっさい)無碍(むげ)」私たちは「日々是好日」とあるように、今日、明日、明後日…と毎日毎日自分が求める新たな道は一切誰にもさまたげられない…という事ですがこれは無邪気な幼児期の子どもには碍(さまた)げる事を刺激として意地悪な事をわざとすることもあったり、ケンカも入園して園生活に慣れ出したゴールデンウイーク後から六月頃まで集中して起こります。(といっても三歳児入園児でも12か月の月齢差があるので成長の個人差はあります)こういった事は集団生活で社会性の芽を出す初めての自己主張です。これができなければ相手(仲間)の存在に気づけないからです。人が人となるには悲しい思いや辛い事を経験しないと私と同じ思いを友達がしないようにする気付きがないのです。「今泣いたカラスがすぐ泣き止んで…」と無邪気な幼児の喧嘩を大声で泣くカラスに例えたのでしょう。先生が泣いてる子を抱っこして「悲しかったなー」とゆりかごを揺らすお母さんのように揺れてくれました。その子はすぐに又私を泣かせた子の所へ跳んで戻りました。先生がハグして揺れてくれた事がどれだけ勇気付けとなった事でしょう。泣く事以上の楽しい事を学べる友のところへ跳んで戻っていったのですから…。でもこのように前向きにプラス思考のできる幼児は年を負うごとに少なくなっているように思われます。最も京都府下でも少子化は三、四十年も前から進行していますので必然的なのでしょうが…。

 二月「知恵如(ちえにょ)海(かい)」人間は生きる為には知恵を働かさねばなりません。艱難(かんなん)辛苦(しんく)を乗り越えるには知恵しかないのです。私達人間は学習の積み重ねが海水のように無限であると知恵のポケットは増える一方です。どのポケットから引き出すのが良いのか考えられるのが学習ですが特に幼児期の学習は遊びという体験学習なのです。ここでいう学習とは各々の頭に自という自ら学び自ら習うという自学自習が求められます。

 幼児期は遊びを通して体験をしないと学べないから。色々と大人から教えてもらったのは言葉まで暗記できてもそれは知恵として働かせる事はできません。私が子どもに絵本を読む事がありますが兄の前理事長が大学生の頃主宰をしていた児童劇団やわらぎで小学校の間学びました。その間、毎年華頂大学や浄土宗の宗務庁がある場所当たりに華頂会館があり、発表会があったのですがそこでアドリブを学んだのでしょうか。絵本の読み聞かせで絵だけを見てセリフを勝手につけているものですから「違うで『〇〇〇〇』やで」と駄目出しをする子や違う事に大喜びする子やら…と夫々の子どもの柔軟さに意味があるのでしょう。どれも正解とみてやると夫々の方法で確実にポケットを増やしているように思います。

 憲法で「学問の自由」と自由が保障されていますが自由性があると遊びを楽しくする為に一杯色んなアイデアを出し合いそれを一つ一つやってみて楽しさを一杯求めています。楽しさは苦しさや悲しさや辛さを乗り越えて得られることを感じ取りました。子ども達は大人が教えられない人間として豊かな感情の芽をいっぱい発しているのです。

月のねらいはどれも仏に成ろうとする仏道ですので仏への道筋だと言えます。

仏は誰でも成れるのです。仏の力、慈悲(相手を受け入れる)心とその慈悲心を発揮する為の知恵とが備われば仏なのです。無邪気な幼児は本来邪(よこしま)な気持ちが無いので仏であるのにもかかわらず、あらゆる人の色々な営みを大人より言葉で教えられ概念化される度に欲望が増し人となってしまうのです。これも自然なのでしょうか!兄弟姉妹が5、6人もいやそれ以上いるのが自然だったのではないかと思われます。少子化が不自然で人為的な何かが変わって来たのでしょう。


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