園 長 と 語 ろ う

令和2年1月

―三学期の保育方針―

 歳末の六日、前日の餅つきでニーナのお米(薬剤散布を一切しないのでカメ虫の大量発生に対応できず収穫は例年の六割減となり、その全てのもち米はむらさきにいただきました)でついた鏡餅をお供えし、成道会(お釈迦さまが悟りを開かれた成道の日(一二月八日))にご参集戴いた代表児の保護者やコーラスのお母さん方に講話をさせて戴きました。

 釈迦族の皇子として生まれ、城の四方の門で城外の様子をご覧になる日課のある日、人の誕生やたむろする老いた人達、病に苦しむ人、死者を城外で埋葬される列、苦汁に満ちた顔々、唯一門前に現れる修行僧のおだやかな姿に魅せられ、ご自分も出家をしようと太子二九歳、妻マーヤ夫人に一子ラーフラ(後の釈尊十大弟子の一人となる)が誕生した日に出家され修行僧となり一人インド中を歩かれ出会う僧に教えを乞い五人の修行僧と共にヒマラヤの山麓ナイランジャナー河のほとりの林の中で激しい苦行をしました。

 六年の難行苦行でも安楽を得る事なく一人山を下りられ里のナイランジャナー河で沐浴され、村娘スジャータの布施の乳粥を戴かれ菩提樹の根元に座禅されて七日目の明けの明星が輝き出し、お釈迦様は悟りを開かれました。

 成道の日なのです。お釈迦様は人は四苦八苦が「人生」だと説かれています。この苦しみに執われていると苦しみはどんどん膨らみます。幼児期は「無邪気なお子」と言われるように邪な気持ちに執われていないのです。

 お釈迦様は「執(とら)われ」に加えて「煩悩(ぼんのう)」を無くせば「仏」だと言われました。煩悩とは欲望のことでこの欲望は求めれば求める程、魔心になってしまうので、どんどんエスカレートして強欲がつのると自らの心が自らを破滅へと導きます。強欲を満たす為に計画事(はかりごと)をします。

 計画や企画(くわだて)はうまくいくかどうかと不安が募ります。お釈迦様は「情緒の安定」を説かれています。その根元である執われの心と煩悩(強欲)に執われること。食欲や睡眠欲など生きる上で必要な欲はなければなりません。禅宗では少欲知足など四字熟語で説かれます。

 無邪気な子と申しました。幼児では三歳児頃から邪気な気持ちが身に付くようになります。「親御さんは言えばわかる…」と信じておられ、満三歳になって集団生活が必要となり、その為に「貸して…」「いいよ…」「寄せて…」「いいよ…」などのセレモニーを教えられます。これは正しい事なのです。ところがこのセレモニーは幼児自身がそれぞれ真似事遊びの中で自分が体験していくものです。三歳児は自己中心期で回りの様子は目に入らず「おもしろそう…」と思えばすぐその輪に入れるのです。何のセレモニーもなく無邪気な子ども同士です。突然の闖入者(ちんにゅうしゃ)に対応する術は度重なるほどその数だけの対応策を互いに学び互いに実行に移して豊かな学びを自学自習するのです。

 仏教は執われと煩悩(強欲)を無くす為に中道(中庸(ちゅうよう))を説かれます。善・悪、白・黒、プラス・マイナス…と二極は物質文化の世界で「心の豊かさ」は精神文化でしか育めません。どんなに悪い事をしても懺悔(さんげ)(悔い改めること)すれば仏は摂取(拾い取る)してくれるのです。

 子ども達はシビアな反応をしますけれど必ず受容れるという豊かな心を育みます。何故でしょう。心豊かな子どもに育ってほしいという親の願いを真似るからです。真似事(ままごと)遊びが大好きなのですから…。


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