園 長 と 語 ろ う

平成30年12月

― 五十周年に想う ―

 長岡に移り住み我が子が小学生になり町の子ども会に所属する縁で親しくなった友人に「洋の東西を問わず、“自由学校”とか“自由教育”は10年ももたないと言われるけど・・・」と心配されたものですが、五十周年を過ぎて思いますことは、創立者家田骭サは“自由保育”と言った言葉を一切使っていなかった事に気付きました。なのに周りの人が言うのは仏教保育の慈悲の教えに基づき「あるがままの姿をあるがままに受け容れる」と申しておりましたことが「自由・自在」の保育に由るのだと思います。

私の生家(骭サ兄が前住職)に立ち寄った折、庫裡にあった仏教大辞典を何気なく開いた頁に「仏」とは「覚者」とか「悟りを開く」とか経典に出てくるような言葉の数ある中に「自由自在」と説明がありました。これはお釈迦さまの時代(歴史上)と同じ大陸の中国(歴史上)で漢語に訳されたものです。漢文ですので和文に直訳すると「今の私は今迄の私の生き方に由る。」というもので仏道を極めようとする者は今の生き方を「仏の道を歩め」と自分に言い聞かせる自己責任と断じたものでした。

 好き勝手にする事はあまりにも無責任だと言える「自由」なのです。と共に仏教以外の宗教は一神教で「絶対」なのに比べ仏教では人のみならず生きとし生きる物は全て仏に成る種を持つと言われているので全てのものをあるがままに受け容れたいのです。それだから「あるがままの姿をあるがままに受け容れる」と骭サ前理事長は申していたのだと思います。身心の発達に遅れや障りがある人の入園もよくありますが入園に際して申し上げるのは私達人間は互いに助け合わないと一人では生きて行けないので社会(群れ)を築きます。そしてあるがままの自立を毎日のようにして行きます。私達が抱え込んでしまいますと自立の妨げになりますので加配(補助教諭)はお付けしません・・・と。加配は禁止の言葉掛けをし勝ちで子どもの好奇心や興味を止めてしまい勝ち・・・が理由なのです。又、特別な設備や器具などが必要な場合は教具や教材など学校教育で必要と思える場合は設置できますがもし、それ以外のご要求をされますと、お受けいたしかねます。税金で賄われている公立の施設へ行ってください。私学は保護者の保育料の負担で成り立ちます。補助金という支援は頂いてはいますが一部の人達の為に受益者負担金(保育料)を使うことはできないのです。

 それでは補助金をたくさん頂く為に運動しましょう・・・と全国で旗上げしてより多く補助金を頂くと北海道から沖縄に到るまで同じ教育を受ける事となり、あまりにも合理化され、教育の一貫性になり、私学の独自性が発揮できなくなるのです。教育的効果をデータで報告する為、子ども達と生活を共にする時間よりデスクワークの時間が長くなります。むらさきの教育方針を気に入って選んでいただいたのにこの教育ができなくなるかもしれません。

 先日の五十周年記念式二日目に卒園児や旧職員の先生に来て頂きましたが、むらさきの保育で育てた・・・あるいは育った子ども達が主体的に自分が将来学びたい道を決めている姿でした。「両親や先生が教えてくれなかった・・・」などと責任転嫁する子どもの声は聞かれませんでした。自発性や主体性を育みにくかった子どもは来園してくれなかったり、部活で忙しかったりなど中学三年までの卒園児には全員案内したので出席の返事がもらえない人も前日まで電話をくれたりと二日目の十一月三日には五百余名の人が二時間内に集まってくれたので声かけできなかった人達も多かったと思います。
ガールフレンドも含め友達関係の悩みを聞かせてくれる青年もあり、青春を謳歌する姿もあり・・・でしっかりと子ども達に情(こころ)が育まれている事に嬉しく思います。

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