園 長 と 語 ろ う

平成30年11月

― 育む愛(完) ―

 いままでの育む愛幼児編では一方的に乳幼児の家庭と園での生活を話してまいりました。おもしろそう、楽しそうと思えたらすぐ「真似をする・・・」。そのまねっこを否定しないでほしい、とお願いもしました。そして又、このまねっこは、まね(真似)ごと遊びと言われ「ままごと」のことと申しました。真似ごとは学びの語源に昔の人はしたのです。この真似は自発的ですので学習の頭には「自」が冠として付きます。「自学・自習」と。即ち幼児期の学びは自学・自習そのものです。そして又、これは興味を抱くことに向けられます。
 小学校以上の学校では「自学・自習」を求めようとすると、日々の授業も教科カリキュラムという計画性に基づいて、教科書どおりに授業は進められますので自という個性は認められない学習の二文字になってしまいました。むらさきの卒園児は自学・自習に慣れ、本来私達が人として持っている使命は早く成長して、早く(人)種を繁栄させるという向上心に燃えていますので小学校の授業は知らない事を毎日先生が教授してくださるので必死になって一言も聞き逃さないようにして新鮮なものに毎日出逢えているのでしょう。そして又、教科書は新鮮と思える事ばかり綴られているので、読める事に高じると読み耽ることになります。そんな時の宿題は単なる作業となりかねません。その作業が苦になるのか苦にならないのかでは随分変わりますので苦にならないように作業化も認めてあげてください。

 人の気持ちはカリキュラムという教科計画通りには進みませんし数ある教科を何曜日の何時限目と限られたその日の気持ちによって変わります。例えば身長が伸びる時、体重が増える時なども個人差があり、それも一年というような長いスパンもあります。

 幼稚園生活では教えられるものは何もありません。担任の先生などが何かを教えたとしても大学受験の頃には幼児期に教わった事は何も憶えていないといわれています。但し体験学習を、しかも自発的にした事は身体が憶えているものです。これは基礎知識となって小学校に上がってもいたる場面で発揮され、自分で出した芽を伸ばすので無邪気な幼児期から小学校に上がり教えられたり、指示や指導されたり・・・といった教育が始まります。この教育とは今まで知らなかった事を教えてもらってイメージするようになった、あるいは現物(教具)を見ながら教育してもらって理解ができた・・・など概念化することが教育だと言われています。学年があがって成長すればするほど概念も増えます。概念が増えると損得で物を判断するという邪(よこしま)な気持ちも増えるのです。幼児期は楽しいとかおもしろい・・・といった前向きな気持ちだけで友を判断しますので泣かされても泣かされても楽しいこと、おもしろいことをしてくれる魅力が勝り、付いて行くほど求めます。

 それが概念化されると、今までのようになんのわだかまりもなくついていく事はできません。
 「いつも私のこと泣かさはるし、ずっこい・・・」と。これは泣いても泣いても付いていく友の「おもしろい」と受入れ(認め)られたからですが、「ずっこい・・・」気持ちは否定し拒否したのです。何故でしょうか。笑いころげられるような魅力を感じなくなったのでしょう。真似をして真似をして、遊んでる内に真似をした友と同じレベルになってそれ以上に向上しようと新たな真似できる友を見つける事もできるでしょうし、先の友と切磋琢磨する事もあるでしょう。お互いに刺激となって常に幼児期は向上し合えるのです。

 このような向上心は年長者に言語で教わり、言語で概念化してしまうと遊び(身体で)という体験を省いてしまい言語で伝えようとしてしまいますので理屈(正しい事象を述べるのですが)っぽくなります。高じると体験学習しなくなり小学校以上の学校で机上での学習に興味や好奇心を抱けなくならないとも限りません。

 良寛さん(江戸時代後期の曹洞宗の僧侶)のように無心(無邪気)になって子どもと遊べるならば話しは別なのですが・・・。

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