園 長 と 語 ろ う

平成30年6月

― 育む愛(幼児編B)―

 三歳児のくみに入園した子ども達が誕生日を迎えると、満四歳になります。

 今年は四月生まれの誕生会や五月生まれの誕生会が予定されていますが既に五月十日現在で満四歳になっている子もあります。四月の連休前、夏日が続き砂場の水遊びが活発になり、スッポンポンになる子も出現する程に毎日遊びは発展しています。初めての集団生活で毎日同じ事をするにもかかわらず、たった三週間しか経ってないのに付きっ切りで教えてもらった概念を自ら知らず知らずに崩しているのです。降園時間になって上・下の靴探しからドロンコになった衣類を探すのにテンテコ舞、「もう帰りのバス出ちゃうよー」と担任の叫び声が聞こえて来そう。

 アウトローの三歳児の水遊びに惹き寄せられた四歳児・五歳児が山を積み上げたり足洗い場から砂場まで竹桶を駆使して水路を導いたり、高々となった山の頂上から水路の水を一度に全開して山が一瞬に崩壊するそのエネルギーにビックリしたり、と三歳児にとっての学び(真似び)の手本を毎日毎日繰り広げてくれます。「ダムが壊れたので泥水がドバーと流れるから皆さん避難してくださーい」と年長児が三歳児を安全なところへ案内してくれています。ハイテンションになる三歳児の気持ちを静めたり…と年長児の経験値は自分達で遊びを通して得た自学自習の成果を遊び(生活)の中ですぐに現す事が出来るのは学習が遊び(生活)そのものの日々であったからです。

 このように概念崩しは意識外の行為だと私は思います。教えてもらった事が概念との意識も持ちません。集団生活を初めて経験する年少児達にとっては、手とり足とり教えてもらった概念に囚われると遊びは発展しません…ので。砂場にドバーと泥水が入ると靴の中は泥水だらけで動く度にグチャグチャと動き難いし砂も入っているのでしょうスレて痛いのかとうとう脱ぎ捨ててしまいました。砂場でいままで遊んでいたグッズ(シャベルやケーキ型の形どりetc)の沈んでいるのを探し出すのですが衣類も泥水だらけ、不安定な足元に尻もちをついたり頭から泥水をかぶる子も…。
 
 このような遊びは教えてもらった概念を崩す活動で囚われていた概念から開放される事になります(発散活動)。このような発散活動で、気持ちが安定すると次なる学習を求め飽くなき成長へチャレンジで年中や年長の楽しそうな遊びをすぐ真似る真似事遊びが始まります。真似る方・真似られる方の思いの違いで互いに新たな困難に立ち向かう事になります。
 私(C)を泣かすAちゃん、泣いてる私(C)を優しく慰めてくれるBちゃん…とAB夫々の特徴を認識してA・Bを認知しました。他人の存在を知って私(C)を加えると三人の最小単位の社会を自分達で作り上げました。この社会は自分達の手作りです。全く遠慮のない自分の思いをぶっつけ合うので涙を流すようなトラブルも互いが互いに甘えも加わり大喧嘩もあります。担任やクラスメートも危険な物が近くにあれば取り除きますが見守るだけで制止したりは誰もしませんし、煽るような応援も致しません。夫々の思いを存分に出し合い、危険も無い所では自制(自己コントロール)の気持ちが発芽し、大切な大切なA・Bちゃんを放したくない事から我慢が出来るようになります。こういう事が毎日の生活になるのですがより高い成長を求める年中の四歳児では誕生日がくれば五歳児ですので、自分達の成長を萎縮させるような既成の概念を崩しては気持ちを開放させ、より高度な成長を望む余り三人の社会が四人・五人となったり遊びの違い同志が合体するといった解体と合体をくり返したり、又は離れたくない思いが相手を思いやる優しさという豊かな感情まで見よう見まねであっても自分で作り上げます。これは大人が教える事のできない自分達の手作り感情となるのです。
 
 このように子ども達は自分達の気持ちが安定しないと遊び(生活)が発展しません。その為にむらさきでは発散活動や自分の思いを相手に伝える方法の一つとして身体ごとぶつかり合う事もします。伝えたい事が言葉で表現出来ない自己中心の幼児だからこそ社会性の芽を発芽させられるのです。浄土宗の宗祖法然上人は遺言の教えで「安心(あんじん)起行(きぎょう)」と申されました。人は安定すると必ず正しい行動を起こす…と私は直訳しています。


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