園 長 と 語 ろ う

平成30年5月

― 育む愛(幼児編A)―

 この表題の育む愛は「両親の愛情に育まれて…」などに使われる事が多く、幼少期は家庭生活が主になり幼稚園では1日の中で6分の1の4時間ほどが限度と言われていますし、小学校では4分の1〜3分の1、即ち 6時間から8時間となるでしょう。

 この事から本来家庭生活で親子の愛情とか感情という豊かな情(こころ)は生活の中で身体的な動きを伴って応答し合う。即ち育むというもので書物や映像といった無機質を媒介にしては豊かな感情や愛情は育ちません。

 発熱した我が子に冷たい水で濡らしたタオルで頭を冷やし「気持ち良いやろ、お母さんみててあげるしな…」寝苦しくてまた目覚めるとお母さんが頭を冷やしてくれています。優しく見守ってくれている顔を見ると安心して、また静かに寝入る…。といった悲しい時、辛い時、苦しい時などはいつも側に居てくれる…。嬉しい時や楽しい時にも側で共に喜んでくれる…。

時により場によっては家族や周囲の人たちが手を差し伸べる(共に悲しんだり喜んだりしてくれる)。こういった温かい気持ちの人達はその優しさがさり気ない言動となって表現されるといった環境で子どもは安心して寝れたり嬉しい気持ちが顔に表れたり…と互いが知らず知らずに愛しい気持ち(豊かな感情)が育まれています。これは教えられるものでもありません。人と人との生活を通して育まれる(体験学習)ものです。

 平成の時代になってままごと遊びが変わってきました。昭和の50年代ぐらいまでは、ままごとグッズは木製のカマド(おくど)に木製の鍋、釜。洗濯は木製タライに洗濯板(板に山並みの凸凹をつけてあるシンプルなもの)に汚れた自分の靴下やハンカチを押しつけゴシゴシこすって洗うのですが、シャボン遊びになってしまったり…。家庭にお手本がないと真似ごと(ままごと)遊びは真似が出来ないので成立しません。

 主婦の家事労働軽減という事で、電気・ガス・水道などが完備され今やシステムキッチンで歩く事も少なくなっていますし庖丁が無くってもチン(電子レンジ)するだけで、おやつや主食までもが子どもがお手伝いできる場のないままテーブルに飾られてます。

子ども達のまねごとという体験学習は主体性を育む基礎となるもので、幼児期にこそ真似ごと(ままごと)が為され、その活動は楽しそう、おもしろそうと知的好奇心を抱くやいなや、自己中心の特技を発揮し、“寄せてとか貸して”といったセレモニーもなく(何の断りもなく)自己チューと自己チューがそれぞれの思いの違いを、ぶっつけ合うので一見トラブルに見えますが、邪気の無い(無邪気)この時期だからこそ互いに遠慮する事なく力一杯トラブれるのです。身体も軟らかく、筋力もまだ付いていない時期だからこそ自然は社会生活を営む生き物に与えてくれた学習のチャンスだと私には思えます。

「叩いて泣かすAちゃん」「私が泣いていると頭を撫でてくれるBちゃん」と特徴でAとBを認識した私はAちゃんも「泣かす私…」、Bちゃんも「笑わしてくれる私…」と認識してくれているでしょう。このスゴイことは私(C)とAとBの三人で立派な社会を遊びを通して築きました。同時に楽しくってうれしいAちゃんやBちゃんがCから離れていかないように工夫します。これが我慢という自分の気持ちをコントロールするという邪心がつき始めました(これが概念化)です。もちろんAちゃんBちゃんもC(私)を入れて、自分以外の相手と3人で夫々の社会を形成しました。
自分で学び自分で真似る。即ち、自学自習という学習の基本「自ら」をやっているのです。
教育の目的は理解できない事、未知の世界を概念化する事によって理解できるようにすることで、小学校以上の学校では概念化する手助けを先生が言葉で伝えたり、書物(教科書を含む)や映像などのメディアを駆使して伝えることができます。
自己中心の3才児だからこそ、ままごとを通して概念化することができました。
自己中心期、涙をいっぱい流した分だけ概念化できたものを四歳児はその概念を崩します。さてそのメカニズムは6月号を楽しみに…。


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