園 長 と 語 ろ う

平成31年2月

― たくましく(逞しく育てる) ―

 一月の園長と語ろう子育てABCの駄弁るテーマがこのテーマです。これはむらさき幼稚園の建学の精神を世俗的表現したものです。

 私達日本人は理知的になり、感情の奥深さを楽しむという豊かさを求める事を軽んじていたのではないでしょうか!人間としての動物的本能も理性が邪魔しているのかもしれません。

 少子化は既にお父さんお母さんが生れる時には始まっていましたし、マッチ箱と外国人に揶揄(やゆ)された一戸建てでもおじいさんおばあさんは核家族化を選び三世代で子育て経験者である老人との同居を拒否し子育ての自由を選らばれたのです。都市(地方も含む)の住宅は二階で2LDKが標準だったと思われ子どもは兄弟か姉妹と男女差は片寄りが見られ、一人っ子も多く見られたのです。

 大きな生活事情の変化により祖父・母の乳幼児期頃から母親が乳幼児を育てる姿を真似る(まねごと→ままごと)事ができませんでした。ままごとはお母さんが主役になるのは昭和五十年頃まででままごとグッズも台所用品と育児の哺乳ビンなどの用品でした。台所用品と言っても電化製品でなく全て手動なのです。洗濯タライも木製で本物のミニチュア。洗濯板もワニの背状のミニチュア。かまどに釜やしゃもじとあるのですが、その頃は電化されてますのでグッズがあっても真似する事はありません。経験者である私達がやって見せると、すぐ真似をして自分のタオルやクツシタなどを洗う真似事をします。固型石鹸つけ過ぎアワだらけでその石鹸を洗い落とす事もなく、木の枝や蛇口にひっかけてます。レンガでかまどを組み、薪と釜で煮炊きするのですが、経験のない先生には火付けができなかったり、途中で消してしまったりします。

 先生には「物が燃える三つの条件は小学校で教わってるよ」と伝えますが子どもは一度でも私の手順を見てるとすぐ手伝ってくれます。年長児が私に代わり、薪の入れ加減を「まだあかん…」とか「一本だけ入れて」など若い先生も年少児と共に加減を教えてもらってるのです。

 子どものままごと遊びでは「○○○遊び」とまねごと「学ぶ」の語源になる程で自学自習なのです。ですから幼児期は自学自習が生活の全てですので学習は「幼児期は指導や指示が入らないとか通らない」と言われていますが、私達幼稚園教育にも求められがちですが、このまねごと遊びはより楽しさを求めて知恵を出し工夫もするし、また知恵を出す為にリーダーとなる子が意地の悪い事をしたり積み上げられたあそびグッズを崩して又初めから…と積み重ねる事を余儀無く求めたり…子ども達の成長する意欲は、繰り返す事や、崩す事、やり直す事など敢えて求めている…と言えます。

 幼稚園生活を共にしていない親御さんが来園された折にたまたま目にされて「先生の目の届かないないところでリーダーらしき子が仲間を泣かせているのはいじめではないか」と疑われる事があります。

 親御さんに「看過したのではなく子どもの生活を線で見ていると、今はグループの子どもに刺激を与えている時の出来事…と理解してるので朝登園してくるのを楽しみに待っているので、だから連絡はしないのです」と申したいのですが、子ども達の成長を見て自分達で学んだ成果を認めてあげてほしいので担任は敢えて申し上げる事はありません。

 二代あるいは三代と少子化が続くと社会生活をしなければ生きて行く事の出来ない人間にとって両親とその両親合わせて六人の大人が一人の子どもの成長に係わるものですから、辛い思いや悲しい思いは経験しておりません。豊かな感情は相対的な感情の経験によって培われるものです。辛い思いや悲しい思いを経験しそれで自分で耐えたり我慢したりして乗り越えると楽しい思いやうれしい思いを自分で感じて行くものです。ですから感じる情(こころ)と書くのです。少子化で育った親御さんは指導や指示が通らない幼児に言葉で教えようとしがち。四・五人の子どもの遊びに「寄せて…」と仲間入りすると「そんなことしたらあかんのにー」何でもかんでも自分で遊び込まない内から批判ばかりするものですから、四・五人の先のグループが離れていってしまって子どもの仲間入りができないのです。担任としてはお母さんが言われた事は一切間違っていないのですから…違うのは指導や指示は通ると思ってしまったからです。

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