園 長 と 語 ろ う

平成29年7月

―育ち盛り―

 五月連休が明けて日常の園生活を取り戻すと六月頃より三歳児は自己チューを発揮します・・・。ところが今年はまだそんなに目立っての自己チューがありません。入梅後雨が降らず長袖のシャツを着込む程、朝夕が寒い・・・といった天候の加減なら良いのですが・・・。不憫に思われる親御さんや家人の方などが“人を叩くな、噛むな、断りもなく取らない、貸して、代わって・・・”など言葉で他人との付き合いのセオリーを教え込んでしまわれ無心で遊べる子どもが何か萎縮しているのではと心配しているのです。セオリーですので間違いなく正しい事なのですが最も自然のままである無邪気な三歳児は生活(あそび)を通して体験学習することでしか得られないものを言葉で教えられると一切その場の状況に関係なく「貸してください」とか「代わって」とあまりにも何回も言うので一言応えてくれました「いや!」・・・と。「先生代わってくられへん」と担任に泣きついてしまいました。泣きついた子どもを慰めてから年長児に「さっきなんで代わってあげなかったの!」と聞いてみると三・四人順番を待ってやっと乗れた時にしろさん来はったもん・・・」と。充分納得するまで遊んでから交代する・・・といったその時の暗黙のルールだったようです。

 天変地異(想定外)でも起こらない限り自然は自然なサイクルに戻ります。

 三歳児の自己中心期は人が人間に成長する為、生きとし生きるもの全てに与えられた自然からの恵みです。昔の人はこの恵みを「無心」に遊ぶとか「無邪気」な子と呼んで神仏に通ずる「お稚児さん」と尊び何をしても許されたのです。一挙手一投足何をしても必然なのですから・・・。

 私は三・四・五歳児と生活を共にするようになってこのことが人が人間にまで成長する「必然」と思えるのです。昔の人が子どもを観察する眼に敬服します。

 自己中心期を新聞では「自己チュー」と記載し小学生以上大人に至るまでの人の事を指していますが何か負のイメージがあります・ここで言う三歳児の自己チューは知的好奇心(興味の根本)を抱いたり感じたりするとすぐ抱いたグッズを取り上げてでもまねっこ遊びをし出しました。先に遊んでて取り上げられた子どもはビックリして取り返そうと叩いたり、噛んだり・・・あるいは泣いて先生に抱きついて助けを求めます。

 「そうやな、こわかったなー」と抱っこして自分のビックリを先生が分かってくれた・・・と思う頃には安定を取り戻し、また遊びの輪に戻りました・・・。

 このように「自己チュー」を発揮するのは返ってくる色々な反応を求めているからです。この反応からの気付きは自分の世界を一杯広げ、この喜びを分かち合えるほどにまでなり社会の広がりと共にルールまで作り上げ社会の広がりに応じてルールは常に発展して行きます。クラスの仲間と学年の仲間、あるいは登降園の仲間など自分達で知恵を出し合うと・・・いった自治活動までやってのけるのです。

 すぐ叩いたり噛んだりするAちゃん、Bちゃんは泣いて先生に言いつける人・・・などの特徴をしってA、Bちゃんを認識しました。認識した私Cを入れると三人になり社会が形成されたのです。

 A、Bちゃんという他人の存在を知りました。(私達大人が教えられるものではなく、痛い思いや涙を流して自分で知ったのです。)

 Aちゃんは私C以外にDちゃんとも遊んでいます。BちゃんはCとEちゃんと遊んでいます。新たにD、Eちゃんと社会の輪が広がります。

 この為には私はA、Bちゃんが私から離れないよう自己発揮を加減するようになります。我慢することも憶えました。このように自己調整しなければ仲間の輪が広がらないのです。

 年中ともなると話し合うという会議のまねごとをし出し、ルールを伝え合っては遊び、行き詰るとルールを改善したり改悪したりブーイングしたり笑ったり泣いたり複雑な心模様を表します。自己調整、即ち自律なのです。

 年長児ともなると常に向上しようという思いが高校生ですら今は見られない自治活動ができるのです。

 子どもが主体的に生きるには不憫に思われる親御さんの言葉で知恵を入れる事がどれ程子どもが依存する人となったり指示待ち人間になるかがお分かりでしょう。日にいくつも自立するチャンスを見逃さないでください。

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