園 長 と 語 ろ う

平成29年6月

―我慢―

 五月から六月にかけ、むらさきの園庭には桑に始まり、サクランボ、ナツメ、スモモなど幼児にとって大変楽しみな木の実がたわわに実ります。

 先日も暖地でも育つサクランボの木を植木鉢で十数年も育てていただのですが花も咲かず実も出来ません。五・六年前、園庭のメタセコイヤの大木が枯れたので地面から一メートル程の所で運転手さんに切り倒してもらった跡が空洞になってその朽ちた木屑が肥料になったのでしょうか、そこへ植え替えたやった桜が鮮やかな若葉を繁らせ花まで咲かせたのです。大きな素焼きの鉢だったのですが、地に移したとたんにサクランボまでできてしまうのですから・・・。赤く色づき始めてしろのくみの子ども達が担任を連れ立って私に「何かできてる!あれ、なに!」と私の手を引いて連れてきてくれました。「ブランコの南側の植木鉢に植えてあったのをエンチョッチョ(園長)がここに植えてあげたんや。赤く熟れるとみんなが大好きな食べ物だよ・・・」とヒントを与えると「サクランボ!」と答えがかえってきます。お母さんに買ってもらうのとは、小さいし赤くないし・・・と私は思うのですが「赤く熟れたらみんなで食べよう」とはじめての集団生活が始まって一ト月程経験した三歳児、登園する楽しみになれば・・・と思ったのですが週明けの月曜日、サクランボの色付きを見に行って驚いたのは、サクランボが喰いちぎられています。片面が無かったり上の部分が無かったり、切り口を見ると何か水々しくというか生々しく感じるのでバスの運転手さんが登園するやニワトリの「チーパッパ」やアヒルを小屋から放してくれるのでサクランボの小さな実をついばむのはチーパッパなのではと思いました。二番目のバスが着く前は園庭には子どもの姿がないので放されたチーパッパやアヒルは自由気ままに花の芽などをついばみます。誰も気づかないままで三日程経った頃、地面すれすれの大きな葉っぱの裏に赤く大きく熟れたサクランボが風が吹くと時々ちらっと見えます。それを目敏く見つけた年長の女児が食べて良いかと担任と私の所に聞きに来ました。三歳児が見つけて赤く熟れるまで待ってみんなで食べようと約束してあることと、虫に食べられて一つしか残っていないので分けられないから初穫りという事もあり仏様に上げることと、そして年長児は去年も食べたブランコの北側に日本のサクランボの木に米粒ほどの青い実がついているので赤く熟したらみんなで取って分けて食べようという事を担任に説得してもらうことにしました。

 三歳児は運転手さんが十箱のプランターにイチゴの苗を冬の内に植えてくれてたのがどの株からも、一、二ヶ収穫できるのでそれを穫ったクラスで庖丁で豆粒大に切って分けてくれるという夢中になれる事があるので、サクランボの事は忘れているのでしょう。最も新最初の三歳児には一日前に約束した事でも憶えていないのですが。
 
 食べる事に関しては憶えている子もあるほど貪欲であってほしいので我慢する事は至難の術となります。二歳先輩の年長児になると集団生活では我慢する事が一杯あります。その我慢をいまではセルフコントロール即ち「自己調整」と申しております。あるいはもう少し上級の小学生高学年では「自律」と言うのでしょう。私は「一つがまんすると一人友達が増える・・・」とよく申します。

 年長児が卒園する頃にはクラス全員で分担することはあっても話し合って工夫しあって一つにまとまる力がつき、立派な自治活動までやれるのですから・・・。

 社会生活を営む私達は自己主張ばかりする人が集まると遊びは続かないし発展もしません。各々の自己主張を少し折れたり、少し我慢し合わないと社会は築けません。我慢とか自己調整は自分の気持ちを抑える(セーブする)ことなので、大人でも出来ない人(幼稚な人)が居るのに・・・。幼児にとっては大変と思われても自己中心期で周囲の事が目に入らないという特徴を自然が与えてくれた最大の恵みと感謝し、自己主張を各々が発揮し合い泣いたり、笑ったり、悔しかったり・・・と遊びの中で他人の存在を知る芽生えがあるのでしょう。又、そこに社会まで築ける芽も発せるのです。


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