園 長 と 語 ろ う

平成29年4月

―ままごと遊び―

 幼児期の学習は真似事(まねごと)(おままごと)に尽きます。大好きなお母さんや幼稚園の先生クラスの仲間や年上の園児・・・など自分が魅力(・・)を(・)感じる(・・・)(知的好奇心を抱く)人の真似をします、これをままごと遊びと申します。ままごとあそびは生涯続くものです。明治の新政府(日本国)となり鎖国から解放され、衣食住から国防の為の軍事産業など殖産興業が叫ばれオランダ人が伝えた火縄銃(種子島)を解体して国産村田銃をつくったりあらゆるものの国産が生れ、それを改良に改良を重ねて世界に冠する現在があります。

 この真似(まね)びの語源となっているもので仏教の伝来と共に印度・中国・朝鮮(ちょうせん)の三国を渡って来ました。中国の僧がゴビ砂漠(さばく)を渡り、ヒマラヤを越えインドからシャカ(釈迦)の仏教経典を持ち帰っては漢訳したものがそのまま日本に伝わっています。漢の時代は漢音で読み、呉の時代には呉音・・・で又パーリー語やサンスクリット(英語の原語)の音読みをするものもあります。

 さてままごと遊びですが三十年程前の昭和の時代までは、衣・食・住に関して手縫いの針と糸を使い手縫いで繕う遊び、ソーイング活動と言われるままごとがありました。色々な画洋氏(色ケント)の切れ端やフェルトや木綿布でバッグなど作ったり、指編みでカラフルな紐(ひも)を編んだり・・・。当時の粘土の茶碗を焼くのに電気釜を使用していました。電気釜での炊飯と間違えたのでしょう「お皿炊(た)いて」と言うものですから焼くと炊くの違いを体験してもらおうと飯盒(ごう)を使って園庭に穴を掘り窯を作り薪を燃やしてご飯や味噌汁、大豆など煮炊きをしています。煙が目にしみ、涙を流しながらも火の番をするのは年長児、強い火にならないよう薪をくべるのを制限するのが私の役目です。そんな年長児も年下の子には言葉はストレートですがよく面倒を見てくれます。ところが今年の一月新米パーティーで隣家より苦情を賜り、薪による煮炊きができなくなりました。雨続きの晴れ間で洗濯日より煙の臭いが洗濯物に移るのは誰でもいやな事ご近所とのお付き合いは大切にしたいのでと思います。何十年もご迷惑をおかけした事と申し訳なく思います。

  木工遊びでは年中のD君とその仲間二・三人で材木屋さんから購入した四ッ割とか六ッ割の角材(一間もの2メートル弱)アトランダムなデルタ型を地面に置き部屋の椅子を持ち込み鉛筆を耳にかけ、大工さんの真似をしています。担任の昼食を部屋でいつもの食事スタイルで食べるアナウンスにも応えず、頑として「俺らの部屋はここだからここで食べる」と主張します。扱いあぐねた担任が私に聞くよう直談判にきました。子どもの思いをもっともと感じた私は「良いよ!」と一ト声、これ依頼「むらさきは園庭の地べたやターザンの踏み台上…挙げ句にジャングルジムの上で…」と流言は拡大されて伝播します。弁当はどこで食べても良いとなって・・・。

その後D君はとうとう棟梁にまで登りつめ四角の二階建家を目指していました。クラスの男児ほとんどが参加する程で切る人(のこぎり屋)や釘を打ちつける人(かなづち屋)・・・と分業が始まり切る人が間に合わないとセメント枠材の杉の端切板10cmの巾を横一直線に10本近く打つので下の木材に届かないまま次を打つと振動で抜けたりします。しまいには横一直線に折れたりと散々ですが何となくアジトらしくなると女児のソーイングによるカーテンだとか装飾品の花だとかあれもこれも女児みんなが作っては飾りたがります。D君は「それいらん」と駄目出し一声ではずす羽目になりますが・・・。したたかな女児はバスコースの都合でDが早帰りで帰った後にさっさとデコレーションして喜んでます。

そんな進行状態の中、進級をしたD君達は年長の生活リズムを作り出した頃、弟のYが三歳児新入園でこの弟もリズムができた頃に棟梁として育てようと屋上屋で柱四本を継ぎ足し二階の大工さんゴッコが始まりました。でもYはそのダイナミックさについていけず一日何回かは見に来るのですが直接参加することなく、一年が過ぎDが卒園、年中に進級したYが立派に棟梁を努め屋根のない二階のオープンテラスができました。

この頃私は下は(一階)兎、上はチャボやニワトリ。横のデッパリはアヒルと三種の生き物が一つ屋根の下で住まう複合住宅を(今のチーパッパの小屋で場所も設置した当初のまま)を子どもが帰ってから製作にかかるものですから一年を経て完成しました。以来、一坪の立方体のような大きな鳩小屋を作り、真っ白のクジャク鳩や、伝書鳩が同居していましたが前の畑に降り立ち野菜を食べるとの苦情で一切出さないようにしていましたが向かいの病院に住みついている堂鳩や野鳥が降りては砂や雑草・野菜をついばんでいます。

生き物の小屋は兄の前理事長が手作りで作っていたものですが、私が作り出すと「子どもが見てるから必ず完成させよ・・・」との事でそれを守っていましたが、子どもは羨望の眼で見ているので期待を裏切る事はできない・・・という事をやっと気付かされました。その刺激を受けて大工さんごっこが始まったのだと思います。

ところが当時副園長だった私は、「家」という概念に執われ、道具の使い方などにかかわる指導や指示が通らないとわかりながらもやっていたのではないかとの思いから直接にはかかわらないように心がけました。

この真似では乳児期 母と子の育児と言われる生活で母の胸に抱かれ無心に授乳する赤子に優しく話しかける母の言葉・・・。それに安らかな赤子が身体ごとでキャキャと笑いながら喜びの姿で応える・・・といった母の愛を体験し、子どもの喜びという応答の生活に「愛」を互いに育みます。育児に手が掛かるからこそ「愛」が育まれるのです。

愛を体験した幼児は知的好奇心を貪欲に抱きます。その好奇心を全て受け入れるのが、私達大人で、拒否するのは幼児の仲間です(表現は荒削りでストレートですが)。これが教育の自由性でむらさきはこの自由性こそが、主体性を育む・・・と信じます。そして常に向上しよう成長しよう・・・と幼児の本能的欲望に応えてやるのです。


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