園 長 と 語 ろ う

平成30年3月

―育くむ愛(乳幼児編)―

 子ども達の記名されてない洗濯物を本人に返す方法で先生達のよく使う手は下着だろうがクツ下であろうが鼻に引っ付けて臭いを嗅ぐ事です。二、三人の先生が嗅ぐ内に◯◯ちゃんの!と名前が出ます。白のときの担任がそうそう◯◯ちゃんと断言されると確定なのです。同じクラスの子ども達同士でも判り合う事もあります。体臭の違いがあるので、兄弟姉妹であってもどうも同じではないようでその辺は確かではありません。体臭の事で乳児編で伝え忘れていました。

 授乳時抱っこしてもらいおっぱいを飲む赤ちゃんはお母さんを全ての感覚を働かせて感じているのです。お母さんの臭い、温もり、耳に優しい言葉がけ、揺れるリズム、・・・安心(安定)のベールに包まれ母・子共々優しい・・・。愛おしい・・・。という感情が育まれる心。穏やかな時の始まりです。父親でもおじいちゃん、おばあちゃんでも、度重ねる育児の体験で互いが安心し合える関係すなわち、赤ちゃんが育児者を頼れる存在(拠りどころ)となれると互いに「安心」が得られます。

 (仏道の六パラミツの一つ、布施行の中の捨身施となります。)赤ちゃんの為に我が身を捨ててでも育児に没頭する程愛おしいとかんじられるようになると互いの関係は母子にも勝るとも劣りません。このようにしっかりと母(母性を持つ母にかわる人)と子の絆が結ばれていないと二歳児の頃の母子分離はあり得ません。二足歩行が出来るようになりますと行動範囲も広がりを見せますし、それと平行して両手の運動範囲も“え、こんな事も出来るの・・・”と叫びたくなるような事も積極的にしようとします。“だってわたしはお母さんだもの”とお母さんがわたしの思う事願う事をなんでも満たしてくれる(受容してくれる)素敵で、しらずしらずに真似をしてしまうので意識外ではありますがお母さん=私となるのです。スーパーの買い物は日課となっていて、バギーの篭に入れるのは私の役目、「バターも買わなければ・・・」とお母さんが言うと思い通りの銘柄バターが篭に収まります。たまに興味を抱いたものを篭の中に入れても「はいごくろーさん」とお母さんは許してくれます。

 家につくと扉のキーを自分が開けるといって抱っこしてもらって鍵穴に差し込もうとするのですが人生二年の経験とお母さんのキャリアとは雲泥の差・・・。お母さんの悲鳴が聞こえます。「◯◯ちゃんが大きくなったから重くってお母さんの手が泣いてるよー、降りて」「もうお母さんがするからキー返して・・・」とわたしの思いと違うお母さん・・・??こんな気持になる事を来る日も来る日も経験してわたしのする事、何でも受け容れてくれたお母さんがわたしを拒否したという衝撃的な事実をうっとしい人と思えるようになり、母子分離を自分で感じとったのです。乳幼児期は私達が教えられるものは何もありません。全て自分が試みて経験して身体と心で感じて(学んで)いくものです。いえば人生で初めての反抗期ではないでしょうか。大人に成るまでには何回もの反抗期はあります。幼児期は集団生活の中で日に何回もあるように思います。子ども達はシビアに受容できない態度を表します。三歳児は自己中心で周囲の子ども達の遊びの様子が目に入りません。「自己中心」は実は人生で最も主体性の芽生えをうながすのです。「学級崩壊」が小学校で「自己チュー」が問題だと社会問題にまで発展した時に三歳児の「自己中心」期と小学生の「自己チュー」とは全く別の表現で、まだ全く概念化されていず無邪気で自己確立さえされていなく、やっと母は他人なのだろうか!と思えるような時期、他人の存在に自分で気付く最も良い学びの場を三歳児の自己中心期に幼稚園の集団生活が始まるのです。こんなにベストチャンスを先人は子ども達に与えてくださいました。このチャンスをフルに発揮するダイナミズムな自己中心の三歳児は次回の楽しみにしましょう。


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