園 長 と 語 ろ う

平成30年2月

―育くむ愛(乳児編)―

 お母さんの胎内で生命を宿した赤ちゃんが健やかに誕生してくれるようにと願って栄養のある食事に気をつけたり転ばないように…胎児を怖がらせないように…等と心配(こころくば)りをします。これが心配(しんぱい)になってしまいますと、赤ちゃんも不安になります。お腹を温かいお母さんの手で優しく撫でると赤ちゃんもお母さんのお腹の中で笑顔で応えてくれます。表現は変わりますが・・・。

 ある研修会で胎児の笑う様子をビデオで観せてもらいました。羊水の中の赤ちゃんは上も下も無いので観る人が自分の頭を逆さにして見ると、思しき所に二本の線様が緩やかな山なりになっている様子で、笑いの練習をしているのだ…と、わかるのです。

 練習の成果は乳児になって、おっぱいを飲んだ後やおむつを替えてもらった後、お湯上がりの後などでフトンの上に仰向けに寝かせて「イナイ、イナイ、バー」やリズミカルな遊びの繰り返しに両腕両足をバタバタ動かせキャッキャッ…笑って応えるのです。これは赤ちゃんが自分を育ててくれる人から見離されないようにとの本能的な行為でお母さんの目が自分に向けてくれているという安心からその喜びの表現なのですが、幼児期になってもそれは続き、大人になっても続くものなのです。

 この頃の赤ちゃんとお母さんの関係は無邪気あるいは無心な赤ちゃんに対し、お母さんも無邪気あるいは無心になれる大切なチャンスです。育児書や保育書を読み漁りこうでもないああでもないと悩んで理想の子育てをしようというのは子どもを計画的にあるいは企てて接するということになり、最も不自然な行為と言わざるを得ません。

 無心におっぱいを吸う赤ちゃんの顔を見て「おいしいね…」などの声が自然に出てきたり、湯あがりではフトンの上に寝かせ身体を拭いた後とかに「気持ちいいね、嬉しいね」など子どもの喜ぶ姿を声で表現してやる事で赤ちゃんは全身でその喜びを表現してくれます。この姿にはお母さんや世話をする人の打算は一切ありません。このように打算のない行為は慈悲とか慈愛とか呼ばれる仏様なのです。一つ異なるのは仏様は願うものには人間に限らずあらゆるもの、平等に光明を照らしてくださいます。お母さんと赤ちゃんあるいは幼児といった限られた関係ではありますが…。その行為は代償を求めません。これは打算がないからこそ「慈愛」と言えるのです。育児書や保育書にお母さんの養育方法を求めてしまうと、専門書はオールマイティな子どもに育つ事を求めていますのでコンピュータの判断(お母さんの幼児像)通りに応じてくれる子に育って欲しいと願うようになるのではないでしょうか。あるいは育児書作者の思い通りに育って欲しいと願ってしまうかもしれません。

 高じると養育者の思い通りに育つと思うようになり、親離れ、子離れが出来ないカップル(母・子)が増えて来て、民族が滅びることにもなりかねません。

 昔、哲学者か、数学者か、名前を忘れましたが「数学に王道なし」と言っておられます。これは至れり尽くせりでは人は育たない…という事であり、「愛」は与えたり与えられたりするものではなく、日常生活の中で育ちに応じた仕草や言葉かけなど交わす中で育まれて行くもので互いの応答という身体全体で表現するという体験を通じて会得するものです。無邪気とか無心という乳幼児期だからこそ、打算抜きにした体験学習ができ、同じくお母さんで代表する養育者も無邪気とか無心になれて喜ぶ赤ちゃんに応えられるという体験を自然に出来ます。仏道に励む、中国や韓国を含む名僧や高僧が数え切れない程おられるにも関わらず仏に成られたのはお釈迦様が唯一で「釈迦牟(しゃかむ)尼仏(にぶつ)」と成られました。お母さんで代表される養育者と乳児とが交しあった「慈愛」の表現が人が教えて教えられない精神文化の「愛」を体験し、それは生涯心に残るものです。

 故郷への想いもそんな幼少期の育みが影響しているのではないかと思えてくるのです。
 

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