園 長 と 語 ろ う

平成28年12月

―安心(あんじん)―

 最も保育日の多い二学期も最終の師走になりました。師は教師の事で仏教ではどの宗派も夫々の宗派で修行(実践)と教学(経典による学問)を修めた人に、○○宗教師資格を与えます。修行と教学に明け暮れする坊さんでも歳末には忙しく走り廻る・・・と有り得ない事を揶揄したのでしょう。

 年長児の担任は、明日の未来と昨日の過去とを当然のように言葉で説明しています。「明日の園外に出かけるのは昨日渡した手紙を見てお母さんと一緒にリュックに入れる持ち物を用意してよ・・・」等と。
「○○ちゃん、弁当は?」「お母さん、忘れはった・・・」「誰の弁当だー!」と腹で怒り、口では「お母さんに電話してあげるし心配せんでいいよ」

 三歳児や四歳児では時間の経過は理解しているようで、していないのか「昨日の明日・・・」とか三歳児ともなれば身振り手振りも加わり(指差してくれるのですが右手を左まで運んで指は踏ん反り返っています)伝えようとしてくれます。

 「明日なー滋賀へ行ってんそんでヒコニャン(ご当地ユルキャラ)買ってもらってん・・・」と昨日の出来事をヒコニャンを見せながら「これ千円のやつ・・・」などと憶えた言葉を使いたくって言葉遊びも一層盛んになります。

 今日の昼食後、五歳児女児四・五人が職員室で床にダンボールを敷き小箱を立てたりして何かに見立てたごっこ遊びをしています。この稿を書いていたので又、楽しそうに笑い声も聞かれるので聞き耳を立てることもありませんでしたが、そんな私の耳に残った言葉が「もう片付けしたはるか!ワタシ見てくるわ」という言葉でした。腕時計を見ると1時5分前でした。降園の早バスに乗る子は1時半に出発しますので30分前にはバスプールに集まることになってますが年長児ともなると帰りの身支度も手早いし、早くバスプールに着きまだみんなが揃ってないと自分の席と思しき場に身支度の全てを置いて存在をアピールして又、近くで遊びが始まります。

 帰り支度の力量をわきまえている年長児は腹時計よろしく時を体感しているのでしょう。
 自分達の遊びに夢中になっている四歳児は、当番の先生に実現される事のない脅し文句に急かされます。「みんなバスに乗ったはるし出発するよ、お母さんに迎えに来てもらえるよう電話しとくは・・・」と。といっても懲りない程熱中できる時期がいつまでもいつまでも続く事を脅しながらも願っているのですがこのように主体性を育むには子どもの自発性を大切に大切に伸ばしてやらねばなりません。ところが子どもの遊ぶ姿を見て、合理性の目で見る私達大人は声を掛けたくなります。「○○すれば早くて上手にできる・・・」と。これを教えてくれた大人は何年も何十年も試行錯誤して築き上げた技術です。それが一言のヒントを与えることで何年も何十年もかけずに到達しました(実際には何十年もかけて築いた大人の技術をすぐ学べるわけではありませんが)。

 本来幼児には工夫するという試行錯誤の時間が保証されています。子ども達が有する工夫する生活(学び)の自由です。でも実際には短い人生で培った全ての経験と知識をフルに働かせ知恵を振り絞り工夫をしています。その時の気持ちは窮屈で閉塞します。私はこの状況を不自由な時と思っています。閉塞のトンネルは力量不足で抜けられない時もあります。あきらめたのかな!と思える姿で園内を徘徊しては「楽しそう、おもしろそう」と興味を抱いたとたんにその渦中の人になっています。何か活き活きと楽しそうに一緒になって遊んでいるのを見て、飽きて諦めたか!と思えるのですが、あまりに活き活きしているので得た自由(トンネルを抜け出なく横からヒョイと出て得た自由)で本人らしさが発揮できているのでこれで良いのでしょう。

 そして又、この子ども達は寄り道したり廻り道をしたりし一層力をつけ、その力で又、トンネルにチャレンジするのです。これらが大きな大きな自信となり自分の歩む道を切り開く力となるのです。不自由から解放され自分で得た自分の為の自由。反対に自由を得る為にわざわざ不自由を作り出す。これは心が安定しなければなりません。仏教ではこのことを「安心(あんじん)」と申します。何よりも仏道を極める根本力となるのです。

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