園 長 と 語 ろ う

平成28年11月

―社会の創造―

 十月十四日(金)今年度はじめての運動会が例年通り見本・手本を見せてくれる組織立った(?)年長児ではなく、また、自己チューの三歳児でもなく、自己チューと組織立ってもいない中庸の子どもらしいほのぼのとした満面の笑顔を見せてくれた年中児だったのです。「ダルマさんがころんだ」の鬼ごっこなのですが一週間ほど前より園庭や屋内の廊下、それは職員室を出たところ印刷室の壁が鬼の定位置で「ダルマさんがころんだ」・・・でワーキャーと逃げる子ども達の叫びが賑やかでれもん・ももの部屋を通り過ぎ遊戯室に崩れこむほど逃げ惑います。

 「ダルマさんがころんだ」という鬼ごっこは、半世紀をはるかに越えるほども前の私の子どもの頃、黒谷大本山の山内ですでに遊んでいたのを憶えています。遊びの輪に入れるのは小学生だけで6年生のリーダー格の人たちが下校して遊びの輪に入ると本格的なルールになります。寺の子弟が多いので羽目を外したようなルールもあります。10数えるのは「ボンサンガヘヲコイタ」。高学年はあと10余分に数えます。「ニオイダラクサカッタ」・・・と本来のルールは今も伝承されているルールだったと覚えています。

 もものくみ・れもんのくみの「ダルマさんがころんだ」のままごと(真似ごと)は形成途上で「鬼さんは時計(台)の下に集まってくださーい」の先生の呼びかけに一人が駆け出すと全員時計台の下に集まります。「えーみんな鬼なの?逃げる人誰も居ないのー?」の先生の声にニギニギしく相談していて、「もものくみが鬼」とか「男が鬼」・・・と鬼と逃げる人とに分かれる事にはなったのですが。私には“鬼は一人で相手を多数つかまえる”という既成概念があり、はてどうなるかと見守っていると鬼達は白壁に一再に目をかくし、「ダルマさんがころんだ」・・・とバラバラに10数えるのですが逃げ組みは一再に鬼に向かって動き出します。その動いている人には目もくれず「ダルマさんがころんだ」と逃げ組みを監視するふりをして又「ダルマさんがころんだ」・・・と何回も続きます。あまりにもつかまえることのない鬼に逃げ組みが助ける友も居ないまま鬼に大きな声で「タッチー」と叫んで逃げ出します。それが耳に入った鬼達は次々と追いかけ、その雰囲気に気づいた鬼達も、結局全員ですが、鬼らしさを楽しんでいます。鬼は自分がつかまえる・・・と決めた人だけを追いかけています。途中で逃げまどう人には目もくれません。セーフティーゾーンに逃げ込んだ人でも目を着けた人にはタッチーと言って満足していますし、セーフティーゾーンに逃げ込んだ人も「セーフ」と満足しています。どんどん鬼に追い越された人もセーフティーゾーンに駆け込んで大満足。一人もつかまえなくっても夢中になって追いかけっこした人も満足満足の笑顔で「もっとやるー」と担任に催促しているのです。

 教育は概念化することとも言われ、大人はこぞって幼児に言葉で指導しようとしてしまいます。ところが学者をはじめ幼児教育に携わる人達には幼児は「指導や指示」が通らない・・・のが通説となっています。

 私も園長になりたての頃は始業式や終業式等で必ず子ども達に話をするのですが、ストーリー性のある話しや教育的配慮ある話しをすると年長児から「エンチョーもうやめて・・・何言ってるかさっぱりわからへん・・・」と辛辣(しんらつ)なブーイングを受けるのです。

 子どもに素話しをするときでも主人公の子どもがズッコケるとみんな大喜び、親近感で主人公になりきれるのでしょう。「勧善懲悪」日本人は悪を懲らしめ、善を勧める物語は良しとされます。西洋の童話も日本風にアレンジしてあり原作は残酷なものもたくさんあるにも係わらず・・・。

 年長児ともなれば「エンチョウやめて・・・」と言葉でブーイングをするのですが、三歳児は泣いたり担任の胸に逃げ込んだり、反撃したりと身体全体でブーイングします。年中児は三歳児と同じ様なブーイングに加えて相手を避けるような事もします。

 私は、この子ども達が何のくったくもなく自由に身体全部でブーイングできる環境で自分の気持ちをコントロール出来るように気付かせてくれることが互いに気付かせたり、気付いたりの主体的な社会の創造だと信じるのです。

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