園 長 と 語 ろ う

平成28年6月

―6月の育ち―

 ゴールデンウィーク明けから5月一杯(2週間程)を経ると幼稚園生活にも随分と馴れ…と言うより傍若無人と思える程、活発に夫々の思いで生活しています。このままだと単なる「烏合の衆」になりかねません。

 ところがこうはならなく自分達で自分達の生活が豊かになるためには三歳・四歳・五歳児夫々の発達に応じてルールを改悪にも改善ともなりながら作り上げて行きます。その始まりがこの6月から顕著に現れて来ます。
そして子ども達の生活力となるその原動力は母と子の絆。担任と子どもとあるいはむらさきと保護者との信頼関係が築かれていること。すると私達は子どもが自分で成長する力を発揮すると信じてやれます。自分達で刺激しあって起行(動)し合うことを待ってやれるのです。家族や園の愛情が豊かでなければならないのです。仏教では、これを慈悲と申します。仏(如来)の二つの力、慈悲と知恵の一つです。

 三歳児の六月は幼稚園生活に馴れると「周りが目に入らない」自己中心の特性を大いに発揮します。昔の人は無邪気(邪(よこしま)な気持ちが無い)と言われ何をしても許されました(慈悲心)。何といってもお稚児さんで神仏に通ずるのですから…。

 知的好奇心(幼児期の好奇心)を抱くと何の畏れ(恐れ)断りもなく、その遊びを自分のものにし、遊んでる道具を取りあげて遊んでしまいます。あまりにも突然のことで取りあげられた子どもは何が起こったのか理解できず泣いて先生の胸に飛び込む子や、取り返そうと大バトルを始める子。代用品で交換しようと交渉する子…。人様々ですがそこには言葉での気持ちの表現はなく、力ずくという身体全体で互いに相手を受け止めようとします。「工夫」という知恵も働かせるのです。「寄せて…、やめて…、かわって…」などと言葉の知恵を入れなんでくださいね。幼児期は遊びという体験でしか学習できない時、この幼児期に言葉でコミュニケーションを取る方法を概念として覚えると、セレモニー化して子どもの生活には合わなくなり自分達の方法でしか対応できませんのでカルチャーショックを受け、遊べなく(学べなく)なりますから…。

 身体で互いが相手を受け止めますので、引っ掻いたり引っ掻かれたり、叩いたり、叩かれたり、泣いたり、泣かせたり、そんな毎日を過ごすと「Bちゃんは泣かさはる…とか、Cちゃんは叩かはる…」と一方的に悲しい思いをさせた人の名前がお母さんに訴えます。ところがお互いですので、Bちゃんは「私(A)ちゃんは引っ掻かはる…とかCちゃんは叩かはる…」。CちゃんもAちゃんとBちゃんが反撃したことで自分の悲しい思いだけを訴え、又、各々の相手に自分が攻撃された事を夫々のお母さんに訴えているのです。昔の人は「お互いさま」と言って子ども達のトラブルには手出し、口出しをしません。

 女子は成長が早いので言葉での表現が男子より達者で男子が言い込められついつい手が出ます。そして私達に「暴力はいかんのになー」とこれ見よがしに訴えてきます。私達は「そやなー」と言いながらも「あれだけ暴言をあびせられたら手も出るわなー」と男・女子共に受け入れます。Bちゃん・CちゃんとAちゃんママに固有名詞を伝えました。BをBちゃん、CをCちゃんと言う他人の存在を涙を流して認識したのです。これだけでも人間らしく生きる基礎となる「他人を認知」しました。もっとすごいのはBとCと私(A)を加えると三人となり、社会の最小単位で社会性の芽が発芽したのです。

 自己中心が三人寄ると三つの自己チューがぶつかり合います。その三人が社会である為には自分の思いを引っ込めたり(我慢)引っ込めさせられたり(規制)と…。夫々自分で自分の気持ちをコントロールする事が余儀ないのです。このコントロール(自己調整)は心的な労力を頭の毛が抜けたり、夜泣きや夜驚、チックに発熱などの現象となります。お母さんのもとでゆったり休養させてあげてください。安定(安心)すると大変だけど楽しい生活に戻れますから…。


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