園 長 と 語 ろ う

平成28年4月

―逞しく(たくま)生きる(生涯を)―

 逞しく生きるとは自分の生涯をどのよう生きるかと自分で自分の進む道を切り拓いていける人の事だと私は考えています。しかし、これだけではコンピューターのはじき出したマニュアル通りに生きて行けば他人は「あの人は逞しい・・・なー」とつぶやいてくれるでしょう。でも、人としての魅力はなく、人らしい情(こころ)即ち、人情と言われる温もりが感じられません。
 
幸いにもむらさきの設立母体は浄土宗発祥の地、紫雲石・西雲院(浄土宗大本山金戒光明寺、塔頭)なので仏教系幼稚園になります。
 
仏には誰もが成れます。仏に成ろうと日々精進努力する人が仏道に励む人だと言え、八億四千もの方法がありますが、その一つに「念仏(ねんぶつ)衆生(しょうじょう)・摂取不捨(せっしゅふしゃ)」(願う人はだれも捨てる事なく受け取る)とあり、ありのままに受け入れる・・・という教育・保育をむらさきは指針にしていますので、優しい心を自ら育みロボットのような逞しさではなく身心共に逞しく育つのです。
 
創立者の故家田隆現初代学園長及び理事長は、「自(じ)由・自(じ)在」を自然(じねん)に・・・とむらさき保育の指針に掲げています。日本では「思い通りに操られる・・・」という意味で解釈していますが中国(漢民族)のBC〜ACにかけて、当時の僧侶がゴビ砂(塩)漠を渡りヒマラヤを越えインドに渡りついて経典(お釈迦様の教え)を持ち帰り「仏」を当時の漢文に訳したのが「自由・自在」です。この漢文を和文に訳すと自ニ由ル・自ガ在ルノハ。今の私が在るのは今までの私の生き方に由るもの・・・と責任転換せず自分の生き方に由るのだ・・・と自己責任を最も重んじた。全人格者、即ち「仏」なのです。「おかあさんが・・・おとうさんが、先生があの時こうしろと言ったから・・・」と責任転換ばかりしているとそこからは精神的な成長が認められず人格を有した人とは言えません。いさぎよく自己責任を負おうとする人が逞しい人なのです。ですから自ら然り、すなわちすること為すこと全てが必然だと私はこの子ども達と四十余年生活(遊び)を共にしてみて近頃そのように思えるのです。
 
このような保育方針に至った道筋を簡単に述べます。

 昭和三十九年乙訓の地を新幹線・名神高速道路が開通し、東京オリンピックが開催され、又それより四年前には大阪万博の開催など国の大イベントにより乙訓地区の流動人口(社会増)は市制が施かれた長岡京市(向日市も数年遅れ・・・)で言えば十五年程の間に二小学校(当時創立百年になろうとしている)が十校にまで増え、長岡中学校が四校になる・・・といった公立小・中学の増設が続き、幼児教育は私学に委ねざるを得ません。
 
昭和四十二・三年がピークで「めぐみ」に続き、「一里塚・むらさき・あかね・長岡カトリック」と学校法人の私学五ヶ園が開園し現在も各々の「建学の精神」に基づいて幼児教育に専念しています。
 
むらさき開園(昭和四十三年)三年後より増築が続き、昭和五〇年には三歳児(現年少組)一学級、四歳児(当時年少組・現年中組)四学級、五歳児(年長組)四学級、計九学級四〇人学級で定員三六〇人となる。(三五人学級に法改正されて現定員三一五人)当時前理事長家田隆現は、アメリカやカナダの保育事情を視察に行っては子ども一人一人の発達に応じた保育を見て、又、園庭の捉え方が日本は運動場。それに比べ、先進諸国は針葉樹の間に谷があったり、山があったり、園によっては木の上のツリーハウスがあったりといった「庭」そのものです。
 
増え続けた園児は五〇年度から三六〇の定員をオーバーし、一時四〇〇人を越え、マンモス園の教育は一斉保育を設定した管理保育となり園庭も隔日便用となったり、園内放送で子どもを誘導したり、なににつけ(躾と称して父・母・先生・当番に感謝するなど)歌で指導されたり、ピアノのポンで立ったり座ったり・・・と教諭指導型の保育で子どもの主体性が育まれるものだろうかとの疑問により、仏教の祖釈迦の待機説法(相手の能力・状況に応じて説法すること)を実践として取り入れ、指導や指示の通じない幼児には、子どもの発達に応じて遊びの発達が望めるもの(物的環境)を担任(人的環境)がコーナー設定するもの。

(一)子どもの成長を記録する
「保育カルテ」を立案し個人の観察記録から整理して転記するもの。

(ニ)コーナー保育の推進。
保育室にコーナーが設定できるよう子どものワードロープ(ロッカー)も裏面が表になるよう化粧仕立てにし、ロッカー部は必要なものだけのシンプルに作るよう全てオリジナルで製作。

(三)園行事の日常化への試行。
四季折々の園行事に向かっての保育があり、終われば次の行事への保育が始まる・・・といった教師指導(主導)型保育を見直すこととなる。行事が見せかけの保育とならないよう練習は一切せず、全ての行事が子ども達の日常の生活から生じて来たものを保護者に見てもらいたいので日程は前もって決まりません。定員をオーバーした頃前理事長は「運動会でない運動会」と銘打った事があり、家族全員が楽しめる・・・といった娯楽の運動会ではなく、子ども達の日常生活を見てもらう・・・。(今日に引き継がれてます)子どもを主体にそして夫々の子どもの発達に応じての保育が効を奏し、昭和五六年二〇〇人台に園児数が減りました。(以降凸凹はあれど現在は園児数ニケタに減ります)

(四)親の保育参加ボランティアの試行。
母「今日は幼稚園で何、習ったの・何して遊んだの・・・」子「別に何も・・・」子どもの主体性を重んじると子どもが興味を抱きそうな場(コーナー)を設定されたところで楽しそうと好奇心を抱いて遊ぶのですから、先生からは何も教わりません。園で何をしてるのだろうという親の不安に応えたのが来園頂き子どもの成長をご自分の目で確認頂くシステムです。但し、保育の現場にお入り頂くので子どもの情報は園内( 保育内)で担任との話し合いは許されますが園外(保育を外れる)と家族と言えども個人情報を話す事は許されませんので園よりお願いするボランティアは登録制にしています。
 
又、子どもの成長の姿を知って頂く為にこのむらさき新聞(8月を除く、年11ヶ月00発行の園だより)、クラス担任によるクラスだよりや個人メモで成長した姿や精神的にしんどい思いをした事などお報せします。そんな時はお母さんの方法でスキンシップをしてやってください。何があったか!あまり言葉の表現を求めなんでください。大人でも心情は説明できませんので。

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