園 長 と 語 ろ う

平成29年2月

―無有無無(むうむむ)―

 「無(む)で有(あ)り、無(む)で無(な)し」禅問答のようですがこんな精神状態に成ろうと禅宗の僧は座禅を組んだり、作務に無心で励んだりと日々の生活そのものが修行で煩悩(ぼうのう)と言われる我欲(欲望)を無くそうと励んでいます。

 幼児は生活そのものが禅僧が修行して得ようとする無有無無なのですが昔の人はそんな幼児を「無心に遊ぶ」幼な子・・・とか、「無邪気(むじゃき)」なお子や・・・と邪(よこしま)な気持がない・・・と存在すら無のように理解していたのだと思われます。

 幼児は小学校入学する前の子どもの事ですが、小学校に入学すると幼児から児童に変わります。童(わらべ)と呼ばれ童歌(わらべうた)の指導なども入って来て担任の指導や指示が通る様になる程に概念化は進んで来ます。「邪気」が急速に入ってくるわけですが自分にとって得か損かという損得勘定も出来る子どもも居ることでしょう。

 難行苦行の宗派の僧は無我(無)になろうと苦難行に励めます。ところが“四苦八苦”と言われる苦しみから救われるのが苦難行の出来る僧侶やその行を支援する、公家や武家など金持ではなくそれらの富裕層を支える農民や商人といった大衆で大半の人達です。戦となれば最も下端のこの人達は矢面に立たされたり、戦で失った城や田畑を復旧する荷役など下端の大衆が日々あえぎながら背負い耐えるのです。

 いつの時代も大衆は苦しまなければなりません。富裕層が欲望と言われる煩悩に苛(さいな)まれるからではないでしょうか。

 又、何故乳幼児にはその苦しみがないのでしょうか!無垢(むく)とか無心だとか無邪気と言われている内は、善し悪しを気にしません。出来たとか出来ない・・・失敗したとか、上手に出来ないといった善し悪しに執われると遊び(生活)そのものが萎縮するので・・・。

 「先生できひん、やってーっ」と訴えてくる子はもう形に執われています。ひとつの木片を船や飛行機や自動車などに見立てて自分の想像の世界で遊べる子どもらしさはなんと自由なのでしょう・・・。

 こういった全く自由奔放に遊べたのも「ちがうでこうやんにゃでー」といった友の指摘が入ります。この友の指摘は大人と違って絶対ではなく真似ごとでもありますので、それをためす「行動」があり、その体験学習の繰り返しが指摘できる人にも成長するのです。三歳児の二学期頃から概念化が遊びの発展に伴って三・四人から五・六人の子どもで遊ぶ集団もできます。とは言え早生まれの子ども達は三・四人の集団が出来るような「行動」という体験学習(遊び)ができるから年中・年長になってくると自分達で生活(遊び)のルールを作り出す工夫をするようにもなれるのです。

 年長の子どもが良かれと思って年中の子ども達にルールを教えゲームを進めようとすればする程、子ども達は居なくなってしまいました。ルールを教えた年長さんもクラスの子ども達に同じ様な経験を受けたのでしょう。大人の考えたルールは仲間に全く理解されず遊びが楽しくないので一人去り、二人去り・・・と。子ども達はシビアに楽しくないことを身体で表現したのです。担任は優しくハグするだけ・・・。担任に泣きついた子どもには共に泣いてやるだけ。そこで癒されて仲間のところに戻れる子は自分で体験して得た概念しか仲間は受け入れてくれないことの気付きを得て(時間はかかりますが・・・)既成の概念崩しを始めます。

 新入園の子どもがブランコをしている年長児に「よせて」と言います。年長児は何回頼んでも「いいよ」と言ってくれないのです。とうとう担任に泣きつきました。担任は子どもと共に替わってくれるのをだまって一緒に待ちました。その担任が「なんでブランコ替わってあげへんかったの・・・」と「だって私替わってもらうの何人も待ってやっとブランコ始めたばっかりやもん・・・。」と。自分で納得できて替わってくれたのでしょう。

 このように子ども達は体験を通して自学自習をしますので自分達のおもいはストレートに身体で表現します。「よせて・・・」「いいよ」のセレモニー(建前)はむらさきの子どもにはないのです。「無有無無」なのです(本音)。


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