園 長 と 語 ろ う

平成27年12月

―教える―

 むらさき祭りが近づくにつれ、各クラスでは自分のクラスの年齢に応じた教材選びでまずどんなものに興味を示すか・・・と担任が考え、色々な教材を保育室やテラスや・・・。年長ともなれば園庭にオープンコーナーとしてダイナミックな木工遊びや粘土のコーナーが設定されます。

 職員室の一角に園長室と来客室とがあり、その間の仕切りがありませんのでいつもオープンで子ども達の隠れ場所になったりと昼頃は賑々しさの余り電話が聞きとれないので私に「静かに・・・」と一喝される事もあります。

 職員室の両脇が三歳児のクラスで満三歳になった子が年に二・三人は混在していて、年末ともなるとどの子が満三歳児?・・・と。見学や園庭開放でお見えになったお母さんには教えてあげないと見分けがつかない程、解け込んでいます。

 毎年そんな三歳児のクラスの子ども達は何人かが訪問してくれ、今年も常連の女児が雑材のトイレットペーパーの芯やポリの空箱や発泡スチロールのトレーなどテレビ漫画のアイドルの持ち物やプリキュアのドレスなど憧れのものを作っては持ってきてくれます。それらは色々な雑材をひっつけて作り上げるのですが気持ちばかりがはやるのでしょう、セロテープを長く切り過ぎたのかあっちこっちでダンゴになってたり、ヨジレてしまったり・・・。

でも三歳児はそれほど強く完成度を求めようとはせず、自分が見立てればそれは立派な作品なのです。「園長先生、これあげるわ」と惜しげもなく私の机の上におくや否や「又、作ったげるし・・・」とルンルンと部屋に戻っていきます。

 こんなルンルンな気持ちになれるなんてなんと素敵なことでしょう。

 これは仏教徒が難行苦行をしてもまだ払いきれない煩悩という欲に基づく心の垢が幼児は生まれながらにして無心とか無邪気と言われてるように無いのです。お医者さんが三歳児ごろから感情面を司る脳が新陳代謝をやっと始める・・・と言われてたので生まれながらに無くてご両親をはじめ先生などから教えて頂いたことが垢となって身に着いていくのです。


 吾が子の健やかな育ちを願うご両親や先生が教えてくださる事は正しい事ばかりを教えて下さいます。加えて正しい事ですので教えられた事は理にかなってかつ寄り道や回り道がなく、早く到達できるので合理的なのです。ところが私達幼稚園の教育はこの柔軟に物事を考えられる時期にどんな時代がやってこようとたくましく生きる為の全ての芽を出してほしいと願っているにもかかわらず「教える」という合理性を求める言動は失敗のない方法なので垢になってしまいます。

 遊びはおもしろそう楽しそうと見えると(興味が抱かれるや)三歳児は何のセレモニーもなくその遊びの渦中の人となって遊び道具までちゃっかり取り上げて遊んでます。自己中心の時期なのでそれが生活です。これらの子どもには必然のできごとでトラブルばかり起きる時期「今泣いたカラスが・・・」と言われる年齢。泣いてもおもしろいことをしてくれるとすぐついていって大笑いしています。こんな事が続いていると「すぐ私を泣かす○○ちゃん」とか「泣いても泣いてもついてくる△△ちゃん」・・・と固有名詞が出る為、(他人の存在を認知)これはもう立派な社会性の芽だしです。そしてその遊びが泣くこともなく笑う方が多くなると○○ちゃんと△△ちゃんと私が知恵を出し合えたから・・・。その知恵は大人から見れば首をかしげたくなるような稚拙なものであっても三人の仲で笑いが続くあいだは正しいのです。

 そして泣く声や、やめた!とぬける子が出てくると改善する為に難度の高い遊び、ルールの真似事が始まります。三人が四人・五人と増えてくるのは年中の四・五歳頃でしょうか。

 年長になっても聞いてこないあいだは教える事をしないでほしいのです。それは自立するのを応援して見守っている幼児期。自立する為の教えは“ヒント”のみにして下さい。自立する芽を摘み取らない為にも・・・。

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