園 長 と 語 ろ う

平成27年10月

―自然(じねん)―

 私達は「自然」をしぜんではなくじねんと呉音(中国の呉の時代の経本)で読みます。生命を宿す万物の生業(なりわい)だけでなく、水や河、石や土などの無生物。あるいは地球でなく宇宙の西方の遥か彼方に太陽光の届かない陰の宙有に光り輝く、仏国浄土(極楽の世界)が在ると仏教は説くほどに計り知れないのがじねんの世界なのです。

 太古の時代から自然(しぜん)災害の届かない場所に私たちの住居や集落はありました。

 今から三十年程前に長岡の地の人にこんな話を聞きました。「○○地に建売り住宅が立ち並んでいるけどあの地は水はけが悪く畑や田にも適さない所やったのに・・・」と・・・。昔から人が住み難い所は言い伝えられていましたが他所から移り住む人には伝える術もありませんし自分達で選んで喜びあふれる人にそんな嫌な事は言えるものでもありません。

こんな言い伝えにも及ばないのが先月初め台風17・18号と8月末から居座っている秋雨前線がドッキングして日本列島は至る所が台風とゲリラ豪雨で決壊した堤防から泥水が洪水となって田畑を水没させ家や車や立木などは根こそぎ押し流し、自然(しぜん)はあるがままにということですが、「その自然(しぜん)は自然(しぜん)界にとって有害なものを地下深く埋めて密封したものをエネルギー源として人類はそれを掘り出したことで天災が想定外の災害を起こした・・・」という学者がおられました。地球上のどこでも天災による大災害が起こっている今、人災と言う言葉になんとなく頷けるのです。

ありのままの子ども達をあるがままに受け入れ、けっして背伸びや無理をさせないのがむらさきの自然(じねん)の保育。又幼児期は人間が人間らしく生きる能力の芽を出す時期なのです。それはコンピューターの何万倍もの能力で仏教の経本を訳した中国は漢数字で無量といいました。三十六もの零(ぜろ)が付くそうです。それだけの芽を出せるのが幼児期の自然(じねん)です。子どもの幸せを願う親や教師が伸ばしてやりたい芽を出す事を応援すると(配慮や手立て、言葉で教えると)無限の可能性が有限になり発芽できない零のなんと多いことか。

幼児期とは昔の人は七・五・三とかぞえで子どもの節を教えてくれました。三才(現在の二歳)は母子分離、五才(三歳児)は自己中心期、七才(五歳児)は社会性の広がりを求める時期でこれ以降徐々にバーチャルな教えも受け入れられるようになりだし、世界の広がりを求められるようになります。母子分離は初めての反抗期。お母さんのする事は何でも出来るはず、私イコールお母さん・・・と思っているのでお母さんのする事・お客さんの接待までも真似て勝手にします。テーブルがビシャビシャ・お母さんは手を出すな!!とのストップに・・・。拒否される自分を知りそれが度重なる事でお母さんは私とは違う人と自分で離れる時を知ったのです。自己中心で自分の我のみ主張する五才児は他我の怒りを買ってトラブルになりました。

○ちゃんは私を泣かす人、叩く人・・・と○ちゃんという他我を知ります。その他人(我)に相対し自己確立の芽が出ます。他人が○ちゃんと△ちゃんと二人を知ると自分を入れて社会の芽が出ました。より生活を豊かにする為には成長へのハードルを高める為その仲間の思いが一つになれるハードルを自分達で超えるのです。常に成長する、あるいはしたい幼児はより難度さを求め、より多くの仲間を求めます。七才は集団と言う大きな社会が成立します。三人が四人、と一人又一人増えるごとに成長するその原動力は知的好奇心あるいは楽しそうというまねごと(ままごと)のくり返しです。

こんなに自分を成長させてくれる仲間を実に大切にします。見離されたら大変ですから・・・。

バーチャルな知恵は自然(じねん)そのものの幼児期につけないでください。体験する事(主体的な遊び)のみが三十六の零を可能に出来るのですから・・・。


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