園 長 と 語 ろ う

平成27年9月

―非合理性でこそ人格は形成される―

 半世紀ほど前、京都大学の瀧川総長が入学式で新入学の学生を前に「君達は、この学生時代最大の無駄をしろ・・・」と訓じられたそうです。半世紀も前すでに学校教育の現場では合理性を求められていたのでそのミスマッチ(教育と合理化)に警鐘を鳴らされたのでしょう。

 児童・生徒・学生の本分は講義を聞いたり、書物を紐解いたり・・・と知識を得てそれを生活に活かす事なのですが現在の教育現場は教育カリキュラムに則り与えられた時間に与えられた授業を与えられた席で教えられる・・・といった常に受身の勉学になります。これも合理化。一斉教育というものですがここには学校生活といわれる本来最も大切な部分が割愛されてしまい、得た知識に拘束されてしまい萎縮しています。本質を知りたい仲間同士が集まりその得た知識を本物かどうかを検索し合い、実験し合う過程で心情の通いがある・・・といったものが学校生活であり実体験なども含めた主体的な学びは学校生活で活かされて来ました。これが本来の学業だと思います。

 本来教育の基本である「主体的な学び(まねび)」は幼稚園では「ままごと遊び」で一貫しています。「ままごと」の語源は「真似ごと」、そして「まねごと」は学びの語源となりましたので三歳児では自己チュー(自己中心)を一つ我慢して、一人友達でき、又一つ我慢して一人友が増え、自分を入れて三人の立派な子ども社会ができました。そんな三人グループが職員室の私の後ろと美里先生の後ろを走り抜けて行きます。同じ時間頃、二・三周廻って行きます。先頭の子どもが私たちの肩をポンと叩くと後ろの子どももポンと真似て行きます。何日も続くのは先頭の子が与える課題がエスカレートします。時には「静かに・・・!」と怒声が飛びます(新たな刺激となる)電話が聞き取れないので・・・。ある時6〜7人と人が増えています。担任に聞いてみると他のグループが悪乗りしただけ・・・との事。よく見ていると自分達の生活(遊び)に行き詰った時に原点に戻るような気持ちでやってくるのでは・・・と思えるようになりました。悪乗りした四歳児が五・六人のグループでやってくる事もありますが二・三日も続けば満足するのでしょう。

 五歳児女児六・七人のグループが走り抜けていくグループがあり、それぞれキュア○○とアイドルグループの個々になり切っています。そこで私はキュアハゲチャビン、美里先生はキュアポッチャリと叫びます。すると彼女達は踊りを踊るのです。二週間も経ったでしょうか、久しぶりに彼女達の訪問にキュアハゲチャビン・キュアポッチャリと叫ぶのですが冷ややかに彼女達は通り抜けて行きました。好奇心旺盛な子ども達は幼稚園生活に慣れてきた二学期は自分たちの感情を鎮めたり高ぶらせたりと自己コントロールしながら遊びの発展を常に求めます。そして自己コントロールを求める為、刺激を与えています。意地悪をしたり、行きがけの駄賃のように肩をポンと叩いていく子もあったり・・・。

 叩かれた三歳児が年長の大きなお兄ちゃんに叩かれたのでビックリして大泣きしました。五歳児はあわててゴメンゴメンとその場を一生懸命繕いました。何の反応もない子には早く大きくなって俺に向かって来いよ・・・と言わんばかりに過ぎ去ります。その年長児に理由を問うても応えてはくれません。よく考えれば私でもその年長児だったらどのように説明できるだろうかと戸惑います。言葉の表現はバーチャルな世界ですので・・・。幼児にはそれを望まなんでほしいし、言葉で言って聞かす事はしないでほしいのです。お母さん(母性)の言う事は絶対です。意味が分からなくても言いつけは守ります。守らなければお母さん(母性)に見捨てられる(と言う畏れを持っている)のです。子供達は三人の友がやっとできた子ども社会で体験した遊びをより楽しく、より難しいハードルを設定してクリアするその過程が生活であり、結果が成長です。この二学期どれほど知恵を出し合って結果を積み上げて行くでしょうか・・・。その成果は口出しせず見守ったという大人のご褒美なのです。

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