園 長 と 語 ろ う

平成27年6月

―はじける六月―

 梅雨といわれる長雨が六月から七月にかけて日本中の大地を潤してくれ、あらゆる生物の食物連鎖を活気づけさせます。
 なたね梅雨と呼ばれる春の長雨や秋雨前線が日本列島をしばらく居座っては北上して恵みを運んでくれます。
 
 幼稚園の周囲に田圃がまだ残っていて水面より早苗が二十センチほど出て整然と植えられているのですが雨に打たれて水面も早苗もザワついているものですから気付きませんでしたが梅雨の晴れ間の早苗は三十センチもあろうかと思えるほど背も伸び茎も太くなり逞しさすら感じさせるのです。
 
 さてこの初夏の頃の梅雨と言えば五月の野菜のトマトやきゅうり、なすなどが紫外線の最も強い太陽光に照射され息もたえだえ・・・。夕方にたっぷり水をやるのですがたとえ小雨であっても自然な雨に勝るものはなくそれが梅雨という長雨ですから昼間といえども活き活きと実が熟す時を待っています。
 このように自然現象を自分達の成長に都合よく取り入れているのはたとえ人の手によって作られた田畑の作物でもそれが自然なのでしょう。
 
 さてむらさきっ子は如何に自然のままの幼児期に自然現象と共に自分作りをするのでしょう。はじめての集団生活を始めた新入園児、又、担任も部屋も仲間も変わった進級児・・・。入園・進級当初いずれも経験のない事にこれからの長い人生のなかでこれ程神経を使い果たすといった事は二度とないでしょう。知恵熱と言われる発熱や夜驚やおねしょ・・・などお母さんに心配と看病といった事をかけることで煩わせました。母の目を心を私へ向けさせたのです。「ちょっと神経を休養させなさい・・・」という自然の声がお母さんの気持ちまで動かせ安定してくるともういてもたってもいられなく、あの大変な神経を使わねばならない幼稚園へ「行く・・・」というのです。
 
 「おもしろそう」と感じたらすぐその輪の中に入り、あっちもこっちもと至る所で見る事はみんなおもしろそうなのであっちもこっちも輪の中の一員になってたのです。
 身も心も発熱する程くたくたになる幼稚園へ何故戻れるのでしょう。お母さんの目が向けられる・・・という癒しがあって安定するといっぱい真似をして遊びたい子どもは真似る(まねび→学び)ことで自分が大きくなれることを知っているから(成長する意欲旺盛なのが幼児だから)です。人だけでなく、動物は全て種を繁栄する使命を持っていることが自然なのです。
 
 幼稚園生活にも慣れた六月、私達が人として成長できる社会性の芽を出す事に知的好奇心が今まで以上に発揮して仲間のする事、何にでも加わろうとします。幼児が人に成長する為「自己中心」という一過性の性分を自然は与えてくれました。友の遊びに興味を抱いたらすぐその中に入りました。
 自分の思うように遊ぼうとします。ところが相手は初めから自分の思いで遊んでいます。二人だけでも思いの違いを通そうとします。そこに一人加われば三つ巴の思いがぶつかります。毎日毎日トラブルばかり、「うちの子ばかりいじめられてー」とお母さんの声が聞こえます。三つ巴のお母さんどなたも「うちの子が・・・」と思われます。三つ巴の子は誰もが自分の思いを受け入れてくれないと思っているのですから・・・。

 さて発熱や夜驚などの登園を拒否する反応(トラブル)は身も心も疲れさせました。こんなしんどい事をクリアすると人として成長する社会性の芽を出させるのです。
 このしんどい経験は長続きするものでなくすぐ笑って遊べる三つ巴で快と不快の三つ巴は一日毎回となく繰り返されます。三人三様で相手の何か(強引さやおもしろい事をしてくれるところ、百様の姿)を受け入れること(仏教では仏の大きな力「慈悲」と申します)。又受け入れる為にどうすれば良いかと考えます(仏教では慈悲に至るための方策を考える事を「知慧」と申します)この慈悲と知慧は仏の双璧といわれる力です。
 
 四歳になると三つ巴が五人六人と人数が増え、五歳ともなると十人を超えるような集団で遊べます。「ええわ、○○ちゃんの言うようにするわ・・・」と我慢する言葉をよく聞きます。このように感情を自己調整できるようになるともう立派な社会です。大人をうならせるようなルールも作ってしまうのです。


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