園 長 と 語 ろ う

平成27年4月

―自由・自在を自然に―

 むらさき幼稚園ご入園・進級おめでとうございます。仏教園であるむらさきは仏に或る道即ち、仏道に精進努力しようというものです。仏教を開かれたお釈迦様はインドのシャーカ国の王子として生れ育ち、妻子のある身で僧になられその教え(経典)は中国の僧(西遊記の玄奘三蔵が馴染)がゴビ砂漠を渡りヒマラヤ山脈を越えて経典を持ち帰り、それを漢文に訳されたものが日本に渡来したものです。中国の僧は仏を自由自在と漢訳されたものが仏教辞典に載っています。私は保護者の方には直訳して「今の自分が在るのはいままでの自分の生き方に由る…」と自らの将来を見据えて、今を精進努力する人になってもらいたく…。又、責任転嫁するような弱い人でなく自己責任を重んじる逞しい人になってほしいのです。

 さて、一面の「自(じ)然(ねん)に」で二歳の頃から母子分離が子どもの気付に端を発して分離すると申しました。その過程を学びたくって「二歳児・母と子のプレイルーム」で母子の絆がしっかり結ばれていて、ゆったりと自分を見守ってくれるお母さんが居ると子どもはすごく安定して周りの子ども達が楽しそうな事をしていると好奇心が湧き上り、その輪の中にすぐ入り込むことができます。でも自分のまた未知なるできごとに驚き怖れ、お母さんの膝に逃げ帰りました。でも、しばらく母の温もりで癒されると、又、その輪に戻ります。これは好奇心旺盛な幼児の自然なのですが、常に私の所に注がれる目が注がれていないと強行手段に出ます。たとえば買物の道中ママ友に出会ったお母さんが私の事に見向きもせずお喋(しゃべ)りに興じます。駄々をこねても効き目がないとスカートの中でかくれんぼ、その度にスカートの裾がめくれます。お母さんに「もう恥ずかしい事やめて」と叱られました。母が子から目を離すのも、その目を自分に引き戻す行為も必然で初めて見る母の怒りはこれを機に度々起こります。身は二つに分かれても心は一つで通じ合っていたのが疎ましい存在である母に気付きはじめるのです。これが母子分離の過程なのですが母子の絆が二歳頃までに結ばれていれば互いに癒しあえる仲は生涯切れる事はありません。

 母子分離の頃のスカートめくりの行為は人生初めての反抗です。母から・家族から・友から・仲間から…自立する必然の行為が反抗期ではないか!だとすれば社会性を育くむ基本は互いに快・不快の感情を体験し合わないと協力し合える信頼関係は育めないと思われます。
 三年保育は満三歳になっている早生まれと年度内に四歳になる子と一年の年令差があります。初反抗期の名残りのある子から三歳児・自己中心の最(さ)中(なか)の子もあるという年令差は少年期まで続き、三歳児は三・三割、四歳児は二・五割と年令差はだんだん緩(ゆる)やかとはなりますが、三歳では三人程の友達が許容範囲で三人が三人の思いで生活を共にするので思いの違いは常に衝突して悲喜を体験します。自分の思い通りにならない人の存在、即ち他人の存在に気付くのです。そして四歳の年中組は、自己中心で自分の思いを時には我慢しないと遊びが続きません。気付けた他人に相対する自己を確立しようとします。これは自己中心と我慢という自立と社会性の芽ばえが相伴って自立しようとしますので幼児期で最も理解しがたい異星人のような世界です。この時期異星人をうんとうんと体験してください善悪関係なく。善か悪かは自分達で決めます。よかれと思って我が子に言葉で大人の概念を伝え勝ち、「教える…」と称して(これは自然破壊ですよ)…幼児期は遊びを通して学ぶと言われるのは体験でないと身に付かない(学べない)からです。自律によって自立し、社会性の芽を出し…と。人生を生き抜く全ての芽を発芽しようとするバイタリティー…これが自然です。その生活が自発で主体性そのものなので四・五人で群れるようになり、手作りのルールで集団で遊ぶ五歳児の姿が約束されるのです。

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