園 長 と 語 ろ う

平成28年1月

―創造性―

 豊かな創造性とは私は幼い幼児期の原体験に基づいた自然回帰ではないか・・・と思えてなりません。

 子どもの頃にお母さんやお父さんと見たいわし雲に映る夕やけ空や、比叡山頂や能勢のキャンプ場など町のネオンや明かりが届かない所で寝転んでみた満天の星空、キラキラ輝く様に涙が出るほど感激した思いに始まり、夕やけに後押しされて遊びほうけていた子ども達も夫々家路につきます。

 味噌汁の匂いや薪のくすぶる匂いと共にご飯の炊ける匂いなどがお袋の味と共に原風景となったものです。身体と五官が覚えていたのでしょう。これらは原体験とも言われます。幼児の場合は原風景も原体験も区別がつけられません。それは幼児はいまだ存在そのものが自然なので手や足や口から発するものは身体の意図や企てもありません。遊んでいた三輪車が友達の遊びに目が移り手を離したほんの隙にもうありません。目敏く三輪車のゆくえを見つけたAちゃんは「僕のやでー」と言わんばかりに取り返しました。とられたと思ったBちゃんは手足が一杯出て挙句に飛び交いました。わけのわからないAちゃん、Bちゃんはわけのわからないことを大声で泣いて相手や周りの人に伝え合っています。その声に年長も年中も集まってきました。先生たちも集まってきます。担任の先生も声かけに躊躇している間に年長の子どもが楽しそうな遊びを始めました。そんな年長の子どものなんとか和ませようとの気遣いにAちゃんもBちゃんも年長児を真似て二人でキャッキャと大笑いです。

 幼稚園の思い出は「笑ってばっかりやった」とか「楽しかった」と言える人は最も「子どもらしい」幼児期を過ごせたのだと思います。

 「うちの子は○○ちゃんにいつもいじめられています。なんとかしてください・・・」とか「△△は言えばわかる子ですので先生から誘ってください・・・」と担任に訴えてこられる事があります。子どもの様子はメモでお報せしますが子ども達と生活を共にしていますと「いじめられる」とか「誘わないとチャレンジできない子・・・」とは思えません。

 年長の男子が通りすがりに頭をツンとつついていったり・・・する子がいて担任に聞きますと同じバスコースの●●ちゃんが気になって話しかけるきっかけ作りの試しをしているのでは・・・」とのこと。三歳児がビックリのあまり大声で泣いただけなのでいじめとは思えません。じっくり観察してイメージトレーニングをして納得すると自分で進んでアタックする子であったり・・・と。支援の眼差しで見守って待っています。必ず自分で立ち上がるので。そんな担任のメモを信じて我が子が自分で立ち上がるのを待ってください。お母さんの心配はお子さんに気持ちの負担をかけてしまいますので。母と子はまだまだ心は一つ(通じ合う)ですから。母の心配はそのまま自分はいじめられっ子とか何もできない子といった「負」をインプットしてしまいます。笑いに変えられるというプラス思考ができる年齢でありながら自信が持てないのです。

 親御さんや担任の願いが表に出て、指導や指示あるいは入れ知恵をするとそれは自然破壊になり概念や理屈という知識が意味がわからないまま入り込み理屈っぽいので遊びがおもしろくなく互いに仲間になれず遊べない子になります。存在そのままが自然である幼児期、四歳・五歳・六歳と知恵がつきます。遊びがより楽しく、よりおもしろくなる為に二人から三人・五人・十人と人数が増えます。自分達が成長する為、社会性の芽まで自分達で出します。こんな自然の力を破壊しないでやると人生をたくましく生きるあらゆる芽を自分で発(おこ)すのです。これを「自発」と申します。

 自分の遊びは常に「より楽しく、よりおもしろく・・・」と知恵を出し合って発展させます。運動会などでかけっこをしていると「一番」と言うのが良い事のように思えるとどの子もどの子も「一番・・・」と誇らしげに叫びながらゴールしてきてまた後に並んで気が済むまで「一番」と走り続けるのです。これも自分で自分の成長に応じた体力づくりをしているのでしょう。遊び全てが自発ですので幼児の生活そのものが自然であり原体験・原風景となっていて常に発展しますので創造そのものです。この子ども達は生涯創造人間になるでしょう。創造することに行き詰ると自分達で自分作りをした原体験に回帰するから・・・。

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