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2011 年12 月16-17日(金-土)またお見舞い 義母さんの入院で、細君の親戚の皆さんは蜂の巣をつついたような騒ぎで右往左往しています。肺炎ぐらいじゃ死にやしないと思うんだけど、お見舞いに行ってきました。 雅子妃が鬱病なのは、公然の秘密ですわな。よく雅子妃はナマケモノである、というような非難をみるけど、とんでもないよ。鬱病なのに大勢の人の前に引き出されて手なんか振らされる。つらいなんてもんじゃないだろうね。たいした精神力だと思いますよ。 雑記TOP 遊撃インターネットTOP 12 月18-19日(日-月)またまたお見舞い 一日寝てようやく回復したら、またお見舞い行脚です。妻はオレを二日おきに見舞いに狩りだすつもりじゃないだろうか…。 雑記TOP 遊撃インターネットTOP 12 月20日(火)『日本赤軍コマンド丸岡修裁判記録』をつくる こんな状態ですが、せっかく参加するコミケで頒布するモノをつくらなければなりません。手元に日本赤軍のコマンドだった丸岡修の裁判記録があったので、これをコピーして持っていくことにしました。そんなに売れるとも思えないので、一冊五百円で印刷するのは三十部といったところかなあ。 もくじ 参考資料 はじめに……2 異議申立理由書……7 上申書(上告趣意補充書)一〜十……15 上告趣意補充書1 上告趣意補充書2 上申書 (上告趣意補充書の訂正申立書 l)上申書 (上告趣意補充書五) 上申書 (上告趣意補充書の訂正申立書二) 最終意見陳述書……65 はじめに 日本赤軍とは 日本赤軍の初期メンバーは、赤軍派出身者よりもノンセクトグループである京大パルチザン(京都パルチザン)が目立ち、国内支援組織も京大を中心に関西に広がっていたとされる。 日本赤軍の最高幹部重信房子は、二〇〇一年四月に獄中から『日本赤軍の解散』を宣言した。 このほかに参考資料としてブルジョワ新聞の記事のほか、『日本赤軍が関係したとされる主な事件』などを収録しました。 雑記TOP 遊撃インターネットTOP 12 月21日(水)『おじさんの夢』(ドストエフスキー)を読むドストエフスキーがシベリア流刑から赦免されてサンクト・ペテルブルグに帰還後に最初に書いた小説です。お笑いモノで毒にも薬にもならない駄作とされています。 12月4-5日の雑記で書いた『虐げられた人々』を収録したドストエフスキー全集に入っていたため、読んでみました。モウロクした大金持ちの爺さんと自分の娘を結婚させようと奮闘する上流階級の奥さんのお話です。十九世紀ロシアと現在の日本では考えや風俗がまったく異なるので、どこがお笑いでどこが面白いんだかよく分からないというのが正直なところです。これでは暇つぶしにもなりません。 五木寛之だったか野坂昭如だったかが、ソ連時代のモスクワ駅でドストエフスキーを読んで大笑いしているロシア人がいるのに驚き、「なんで笑っているんだ」ときいたそうです。「おかしいからだ」と返されたそうですが、ドストエフスキーのお笑い的側面は、訳者のフィルターを通して読まなければならない日本人には理解しがたいのかもしれません。 インテリはお笑いを低くみていたので、ドストエフスキー訳を決定づけたとされる米川正夫などは、お笑い部分をわざと理解できないように翻訳しているという説もあります。大文豪にお笑いはふさわしくないという考えなんでしょうか。もし本当ならひどい話しです。広い意味で誤訳といってもいいんじゃなかろうか。 読もうと思ってなかなか決心がつかない『悪霊』なんて、前半はステパン先生というリベラルオヤジの結婚騒動のお話しが中心で、面白くもおかしくもない。この部分は、たぶんお笑い場面なんだろう。十九世紀ロシアの人には、こんなリベラルバカがいるいる、という感じで笑えたんだろうけど、現在の日本人にはナニがいいたいんだか意味のわからない部分すらあります。そういうわけで、『悪霊』は読みはじめるのに決心がいります。一旦読みはじめてしまうと、一ヶ月くらい他の本を読めなくなるからね。 今は『世界の歴史10 フラン革命とナポレオン』を読んでます。こいつを読み終わったら、決心をつけてとりかかろうと思っています。 雑記TOP 遊撃インターネットTOP 12 月22日(木)健康保険の督促状が届いたいろいろお世話になっているので、税金は払わなくても国民健康保険料は毎月ちゃんと支払っています。 11月分もファミマでちゃんと払ったのに、なぜか督促状が送られてきました。封筒も赤というかピンク色で、いかにも『督促状』という感じです。下の画像の左が領収書で右が督促状です。
健康保険料が二千円とはどれだけビンボーなんだよ、という批判はさておき、ちゃんと払ったのにー、ちゃんと払ったのにー! なにゆえ督促状がくるのだ? 雑記TOP 遊撃インターネットTOP 12 月23日(金)寫眞週報(写真週報)のまえがきを書くコミケに持っていく予定の『写真週報 POF版』のまえがきを書きました。こんな程度の文章を書くのでも数時間はかかってしまいます。コミケはもともと本を売るところなので、DVDとかはあんまり売れません。その場で中身を確かめられないしね。売れ残ってもつまらないので、DVD二枚組で二五セットくらい持っていくつもりです。バラバラにした残骸の表紙を束ねて見本に持っていっていこう。 まえがきです。一応要点は押さえたつもりですが、どうでしょうか。 はじめに このDVDに収録したファイルは、戦前に発行された戦意高揚グラフ雑誌『寫眞週報(写真週報)』をスキャンしたものです。 昭和17年(1942年)4月2日発行の寫眞週報214号から昭和19年(1944年)2月16日発行の309号までの79冊分、1760ページをDVD二枚に収録しました。 残念ながら歯抜けが17冊あります。昭和17年7月22日発行230号から9月2日発行236号までの7冊、10月14日発行242号から10月21日発行243号の2冊、11月11日発行246号から昭和18年1月6日発行252号の7冊、昭和18年2月3日発行257号です。また、一部に表紙が欠落した号があります。 このDVDに収録した寫眞週報は、国民の戦意高揚を意図して発行されたものです。太平洋戦争の最大の転換点は、開戦から半年後の1942年6月のミッドウェー海戦における日本海軍の敗北であるというのが現在の常識です。しかし、この寫眞週報を読むかぎりでは、1943年4月の山本五十六連合艦隊司令長官の戦死と1943年5月のアッツ島守備隊の玉砕が、国民の意識を大きく変えたように思えます。 太平洋戦争は、空母を中心とした機動部隊による航空戦が戦争の中心でした。しかし、当時の日本人の多くは日本海海戦のような艦隊決戦を想像していたようです。そのため連合艦隊司令長官の戦死は、艦隊決戦の敗北を意味し日本海軍の誇る連合艦隊は全滅したのではないかという疑念を国民にいだかせたようです。 物資の欠乏は製本にもあらわれてきています。1943年の中ごろまではホチキスを二ヶ所にしていたのが、後には真ん中をホチキス一本で止めるという苦肉の節約をおこなっています。また、1943年の278号から24ページを20ページに減紙されています。 今回PDF化した原本は、10年以上前に神田の古本屋でみつけ、かねてから復刻したいと考えていたものです。しかし、ページ数が膨大なため書籍として発行することは不可能で手をつけかねていました。ところが最近、自動読み取りスキャナーを購入し、PDF化に挑戦することにしました。 70年も保存されていた貴重な雑誌なのですが、一人でも多くの人の創作活動などの役に立ててもらいたいと思い、スキャンするために裁断してしまいました。その作業は、なかなかにつらいものであったということは告白しておきたいと思います。 粗紙でできた雑誌なので、劣化していて丁寧に扱わないと簡単に破けてしまうページがあります。そのためスキャン作業自体が非常に困難でした。そのため一部の画像に傾きや歪みがでてしまいました。しかし、これ以上の品質でのスキャンは、民生用機器を利用し限られた時間でおこなうことは難しいように思います。その点もどうかご了承ください。 寫眞週報(写真週報)について (wikipediaを参照し、一部修正しました)写真週報(しゃしんしゅうほう)とは、内閣情報部(のち情報局)により編集・刊行された、国内向けの週刊の国策グラフ雑誌。1938年2月16日号(創刊第1号)から1945年7月11日号(第374・375合併号)まで刊行された。価格は10銭・A4版・20ページ、内閣印刷局印刷・製本。最大で20万部発刊された。 1937年の「国民精神総動員実施要綱」が、刊行の契機となっているといわれる。『写真報国』をうたい、戦時の国民生活を写真によって誌面で特集した。統制による人々の窮乏生活を多彩な特集でやわらげ、銃後の団結を高める記事が組まれた。 写真は、木村伊兵衛(創刊号表紙)、小石清、土門拳、永田一脩、林忠彦、入江泰吉、梅本忠男らが担当。公募等により、一般読者の写真作品も掲載された。 一方、美術(レイアウト、エディトリアルデザイン等)は、情報部(情報局)内で担当していたといわれ、担当者の実名等は、必ずしも明らかではない。 その美術的・デザイン的な質は、同時期の「NIPPON」や「FRONT」に、はるかに及ばないが、むしろ、この2誌の方が異常だったというべきで、そのことだけをもって、写真週報を低く評価することは適切ではない。 デザインの観点からは、写真を誌面の中でどのように生かすか(組み写真やフォトモンタージュの利用)といった、現在では当たり前となった思考や技術の源泉を、この雑誌にも見ることができる。また、写真の観点からは、報道写真とプロパガンダとの関係、また、この雑誌の中で、報道写真がどのように変質していったのか、ひるがえって、日本戦前期における日本の報道写真とは結局はなんだったのか、ということを考察することも可能であろう。 一般に、写真週報は政府によって刊行された国内向け国策宣伝のための雑誌ということになっているが、写真週報の性格や位置づけについては、明らかになっていない点も多く、今後の綜合的な研究が待ち望まれる。 通常は毎週1号が刊行されているが、年末年始など1週間があく場合もある。361号と362号、364号と365号、369号と370号、および、374号と375号が合併号であるため、全体で371冊が刊行された。 雑記TOP 遊撃インターネットTOP 12 月24日(土)赤ちゃんの検診に大学病院へ行く / ムスメに尻をかみつかれる手術後二度目の検診に赤ちゃんを大学病院につれていきました。…眠い。病院の椅子で寝ていたら、二時間くらいで検査が終わりました。異常なしだそうです。毎日みていればわかりますけどね。 帰宅後何気なくテレビをつけると、年末特番で大震災を特集していました。洪水の映像がでていたので「うははははははは! みんな死ねえ!」といったら(被害を受けた方、すいません。本気じゃないんです。ちょっと悪人ぶっただけなんです)、尻に痛みが! 振りかえるとムスメがカンカンに腹を立てて、尻にかみついている。 そうそう、 12月22日の雑記に書いた督促状の件が判明しました。介護保険がどうとかで、あと千九百円追加で払えということのようです。そんな請求書を受けとったおぼえはありません。督促状というものは、普通は請求書を送りそれを無視されたら送る性格のもののはず。最初から督促状を送りつけてくる役所って…。公務員というのは、どうしょうもないな。よほど文句をいおうと思ったけど、面倒くさいのでやめました。バカを相手にするのはくたびれるし。 雑記TOP 遊撃インターネットTOP 12 月25-26日(日-月)『赤色太平記』(田中清玄)をつくる 戦前の武装共産党委員長にして戦後は反岸信介・反児玉誉士夫の右翼として活動した田中清玄の回想記『赤色太平記』を、コミケ用出品物として作成しました。武装共産党時代の思い出を口述したもので、三五年も前に月刊誌『現代』に連載されていたものです。ずーーーーーっと書籍化されるのを待っていたのだけど、いっこうに本にならず、田中清玄氏も二十年前に亡くなってしまいました。 はじめに しかし、このまま埋もれさせてしまうにはあまりにも惜しい歴史的資料であると考え、討議用文書として小数部をコピーして頒布することにしました。 『赤色太平記』の著者である田中清玄(たなかきよはる(せいげん))は、戦後日本の右翼の黒幕、あるいは国際的実業家として知られた人物です。世界中を縦横に飛びまわり欧米の石油資本との窓口となり、オイルショック時にはインドネシアからの石油輸入に成功し、当時の日本の自動車の四台に一台はその石油で動いていたと言われたということです。 田中清玄の履歴については、『れんだいこ』氏のホームページがよくまとまっているので引用させてもらいます。 http://www.marino.ne.jp/~rendaico/kuromakuron/profile.htm 明治 39年生まれ。会津藩家老家の家系で、出身は北海道函館。幼少の頃父親(逓信省の役人) を失い、母親の手で育てられる。函館中学から弘前高校へ進み、在学中、軍事教練反対闘争、東北の農民運動などを指導。休暇を利用して小樽港に潜り込み、沖中仕6000名の大ストを組織している。東大入学と共に入党。新人会を拠点に激しいオルグ活動を展開し、学内の右翼グループ七生社と対立、新人会の自衛隊長として睨み合う。東京地方委員長、地区オルグ責任者、党中央委員長歴任。この時代が「武装共産党」と云われている。 和歌山へ本部を移した昭和5.2月特高の急襲を受けるも、拳銃の乱射戦の末逃走し、同年7月東京祖師谷大蔵のアジトに潜伏中特高・中川茂夫刑事に検挙される。この時24歳。 母が自刃。 1933(昭和8)年、同志の小宮山ひでと獄中結婚。 1941(昭和16)年4月、逮捕後11年に及ぶ獄中生活中に転向し刑務所から仮出所。身元引受人となった山本玄峰老師に私淑し、三島の禅寺・龍沢寺での修行生活に入る。 終戦後は、神中組(後の三幸建設工業)、神中造船、沼津酸素工業、三島木材、丸和産業、光祥建設、田中技術開発総合研究所など幾つかの会社を経営。 戦後活動は主として海外に向かい、「日本でのマスコミの風評とは異なり、彼はこれらの地域では、『トーキョータイガー』と呼ばれた革命家であり、中東から東南アジア諸国の独立のために命をかけた熱血漢だった」、「彼は、戦後日本に温存された守旧勢力と一切の妥協をせず、それに挑戟状をたたきつけ、若き企業家、政治家、学者など、新興勢力を糾合して新しい、強力な日本産業国家の再建に尽力していた」。 1967〜69年、アブダビのシェイクザイド国王と何度も会見、その後アラブ諸国を十三回にわたり訪問するなど深い親交を築きあげ、中東石油を日本に持ち込む橋渡しを為し、オイル・ショック時の危機を救った。 その人脈は昭和天皇をはじめ、吉田茂、佐藤栄作、田中角栄、中曾根康弘など戦後日本の骨格造りに重要な役割を演じた歴代首相、池田成彬、松永安左エ門、土光敏夫らの財界首脳、スハルト、ピブン、ソングラム、アンドレ・マルロー、ハプスブルグ家の当主・オットー・フォン・ハプスグルフなど日本のみならず世界の錚錚たる人物と濃密な付き合いから戦後の怪物と報じられている。 経済学者のフリードリヒ・A・ハイエクがノーベル賞を授賞した受賞式にはパートナーをつとめている。 中国のケ小平とも親しかった。 田中清玄は、六〇年安保闘争を主導した全学連に反米・反ソの立場から共鳴し、資金援助したことでも有名です。田中清玄は、六〇年安保闘争を主導した全学連に反米・反ソの立場から共鳴し、資金援助したことでも有名です。全学連書記長であった島成郎の回想より。 wikipediaより孫引きします。スキャンダルめいて報じられた田中清玄氏との関係も、伝えられるような決して低次元のものじゃありません。まあ、発端は金でしたけれども。経緯を少し話しますと、当時の全学連はものすごく金がかかった。事務所も、自前の印刷工場ももっていたし、宣伝力−も調達しなければならない。(中略)その頃田中清玄氏が、『文藝春秋』に学生運動に共感を示すような文章を載せたんですね。それを見て、「お、これは金になるかもしらん」といって、出掛けていったわけです。(中略)会ってみると田中氏本人は、どこにでも飛び込んで誰とでも仲良くなれるという、唐牛( 唐牛健太郎全学連委員長)みたいな性格の人で、昔の血が騒ぐというのか、あとあとまで「オレが指導者だったら、絶対にあのとき革命が起こせた」としきりにいうくらい情熱的でした。でも案外金がないらしくて、当時奥さんの胃潰瘍の手術費用にとっておいた何十万かを回してくれたんです。大口ではあったけど、大した金額じゃありません。それで私達の運動がどうなるというものでもなかった。これがキッカケになって、のちのち家族ぐるみというか、人間的な付き合いがつづいたわけです。極めて人間的な魅力に富んだ人物であったようです。この田中清玄が委員長だった時代の共産党を『武装共産党』といい、銃器を使用した最も過激な活動をおこなった時期とされています。 wikipediaより。四・一六事件後、第二次共産党の幹部が根こそぎ逮捕されてしまったため、 1929年7月、田中清玄が23歳の若さで、日本共産党の中央委員長になる。そして、佐野博、前納善四郎らと党の再建運動にあたることになる。翌1930年5月に田中が逮捕されるまで、彼らが指導した時代の共産党は武装共産党と呼ばれる。モスクワのコミンテルンの指示に基づき、党員に武装して公然活動し、場合によっては、警官を殺傷することも辞すなと命じていたからである。その結果、数々の官憲との衝突事件を起し、1930年5月には、武装メーデー事件を起こす。 読者の理解をたすけるため、戦前の共産党の歴史を簡単に述べます。 コミンテルン(国際共産党)日本支部として承認された日本共産党は、1922年に結成されます。これを『第一次共産党』とよびます。日本共産党の最大の特徴は、ヨーロッパ諸国の共産党が社民政党の左派が分裂して成立したのに対し、社会主義運動が徹底して弾圧されてきた日本ではもともと社民主義政党が存在せず、最初から非合法・非公然の秘密結社として設立された点にありました。 しかし、結党から一年足らずの1923年6月に共産党は、約80人が一斉検挙を受けます(第一次共産党一斉検挙事件)。おびえた党幹部は1924年に会議を開き日本共産党設立は時期尚早であったとして党の解体を決定し、「解散声明」を決議。第一次共産党は解散してしまいます。 日本共産党解散に驚いたコミンテルンは、在ソ日本共産党幹部に党再建の指示を出し帰国させます。帰国した幹部を中心として、1926年に日本共産党が再建されました(第二次共産党)。 皮肉なことに第一次共産党解党に反対した荒畑寒村らは、コミンテルンの言いなりになる日本共産党に幻滅して党を離れ、いわゆる労農派を形成します。労農派は、後の日本社会党左派の源流となりました。 再建された第二次共産党は、党機関誌の『赤旗』を創刊。第一回普通選挙で事実上の傘下合法団体であつた労働農民党から山本宣治ら二人を当選させます。このころが戦前の日本共産党が最も強力な時期であったとされています。 しかし、1928年の三・一五事件で地上党員を中心に全国で約1600名が検挙され、さらに1929年の四・一六事件では逮捕を免れた地下党員を中心に約700名が検挙され、党中央部は壊滅してしまいます。 立花隆の『日本共産党の研究』によれば、二度にわたるこの大検挙で当局と共産党との勝負はおおむね決着したとしています。この後も日本共産党は壊滅と再建をくり返しますが、国家の脅威になるような力を持つことは、二度となかったということです。 四・一六事件後に共産党指導部は、東大新人会出身の田中清玄を委員長として再建されます。この再建された共産党を『武装共産党』(1929年7月−30年7月)とよびます。『赤色太平記』は、『武装共産党』を指導した田中清玄による回想記です。壌滅した共産党をいかにして再建するか。特高(特別高等警察)との攻防。日本共産党技術部(テク)による地下活動。コミンテルン(国際共産党)を舞台とした国際的な謀略。銃器を使用した武装闘争などなど。さながらスパイ小説のような極めて興味深い事柄がしるされています。 意外な人物が共産党に協力しているのにも驚かされます。左翼と関係のなさそうな人物をあげると、林房雄(作家)、大宅壮一(ノンフィクション作家)、今東光(作家・僧侶)、宇都宮徳馬(自民党衆院議員)など。また、赤尾敏(大日本愛国党総裁)や美濃部亮吉(東京都知事)などの人物評も興味深いものがあります。 武装共産党は、武装メーデー事件や数々の警官殺傷事件を起こし、1930年7月の田中委員長検挙により壊滅してしまいました。現在では、極左的武装闘争や合法無産政党解消運動など多くの誤りを犯したとされ、共産党の正史では否定的に扱われています。 その後の日本共産党のたどった歴史については、wikipediaから一部手を加えて引かせてもらいます。 『武装共産党』壊滅後に再建された『非常時共産党』( 1931年1月−32年10月)は、党の大衆化を図り、党勢を回復し戦前期最多の党員数に達することになりました。しかし、この時期においても「天皇制廃止」のスロ−ガンを党傘下の合法団体に押しつけ弾圧を招くなどの致命的な誤りが繰り返されます。さらに特高スパイ(スパイM)の指導部潜入を許し、このスパイMが手引きした『赤色ギャング事件』をきっかけに党組織は、1932年10月の地方代表者会議の一斉検挙(熱海事件)により再び壊滅します。熱海事件後、いわゆる『リンチ共産党』(1933年1月−35年5月)指導部により再建が試みられます。しかし、獄中の佐野・鍋山による転向声明によって始まった獄中指導部の崩壊、および党員の地滑り的な大量転向がはじまります。またスパイの党組織潜入が恒常化し、彼らの密告によって幹部・活動家が次々と検挙され、岩田義道・小林多喜二は特高の拷問により虐殺されます。スパイ摘発のために行われた査問は、やせ細った党組織の内部を疑心暗鬼状態に陥らせ、ますます疲弊させました。行き過ぎた査問の過程で起こった『リンチ殺人事件』(1933年末)による指導部の検挙が事実上共産党の息の根を止めることになり、戦前の日本共産党は壊滅します。 なお、共産党から分離した労農派は、大学教授・学者グループを中心に反ファシズム統一戦線によって日本の軍国化を阻止しようとしますが、治安維持法により 1937年12月から1938年にかけて930人が検挙され、壊滅します(人民戦線事件)。この事件によって戦前日本の組織的な左翼運動は、事実上消滅しました。ガチャコンガチャコンとプリンタで印刷し、同時に DVDを焼いたりしながら、なんとかかんとかこんな解説を書きあげました。wikipediaは便利だ…。これから束ねたり重ねたりする作業があります。まあ、少部数なので、なんとかコミケには間に合いそうです。
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