カクマル
97年「早稲田祭」に行って来たぞ!
葉寺 覚明
毎年恒例となっているイベント「早稲田祭」を楽しみにしている人は、早大生ならずとも多いはずだ。
今やちょっとした有名人になっている「第44回早稲田祭実行委員会」の加土井委員長が自賛している「文化と自治の祭典」という面以外でも、学園祭に付き物である、馬鹿騒ぎをする学生は勿論、大隈行動前の広場でこれ見よがしに、裸体を警察官の前で晒しながら「学園の自治」を主張する男やら、変でアナーキーな劇や、マニアックなシンポジウムなどといった、何とも言えないばかばかしさが味わえる、サブカルチャーマニアならずともたまらなくなるという、何とも前衛的というしかないイベントなのである。
それが「中止」されたとあって、今やマスコミのネタにもなっているのだ。
しかもこの事件を機に、わが「革マル派」がにわかにクローズアップされてきた。
革マル派といえば「内ゲバ戦争」の重要な当事者であるばかりではなく、最近「週刊新潮」でも大々的に報じられたように、
「神戸のAくんは冤罪だ!」
という珍妙なキャンペーンを張っていることでも知られている。
更に言えば、電車通勤に呻吟するサラリーマン諸氏をさんざん悩ませた、悪名高い「列車妨害」も、革マルがらみとか言うドス黒いうわさも聞こえてきたのだ。
「革マル派」、この何とも言えない謎多きトンデモ団体。そして、未だに彼等に支配されているとの噂も高い全国最大規模の大学、「私学の雄」早稲田大学の学園祭。
ワクワクしてくるではないか!
かくして、私は勇んで「早稲田祭」関連の情報の収集に狂奔したのである。
本文はそんな私のささやかな足跡に他ならない。そして、私が体験したのは、ほんのわずかでしかない。後は、口が堅い公安は例外として、
「この日は何かあるぞ!」
などと期待してやってきたブルジョアマスコミ諸君や、当局者、実行委員会などの参加者の面々の口に委ねるほかはない。
なお、今回行われたイベントは、正式には「WASEDA FESTA」という。何故ならば、「早稲田祭」は当局によって、完全に「中止」させられてしまったからであり、
今回行われる「WASEDA FESTA」は、正確には「早稲田祭」中止に抗議するイベントであるからである。
事実、大学当局作成の
「今年の早稲田祭は中止です」と
書かれたポスターが、早稲田界隈のあちこちに張られている。
タイトルが誤解を招きうるものであることを、先ずは謝罪しておく。
1.「早稲田祭」中止
当局はこの件について、「早稲田ウィークリー」などを駆使して、文書をばらまいている。もっとも、ビラのように配り歩いているわけではないので、宣伝力には乏しいようである。
そこには、中止の口実である「広告費横流し疑惑」が詳細に暴かれていた。
早稲田祭に付き物である「プログラム」強制販売は、もはや慣例になっていたが、当局はこれにかんする収支が不明瞭であること、そして強制販売が革マル派の資金になっているとみて、プログラムの自由販売制を提唱。これに対して実行委員会は「財源の確保のために不可欠である」として反発。かくして、プログラムの代替として、早稲田大学新聞会という革マル色が強い団体の名前で無料小冊子「がんばれ!早稲田祭」に対しての広告費を、早稲田祭のための広告費として、各メーカーに募った。
しかし、広告費を徴収した実行委員会は、当局に対して、集まった広告費の額を過少に申告し、実際に集まった額との差額が早稲田大学新聞会に流れてしまったのではないかという疑惑が生じ、関係は更に悪化した。そして、当局は、「早稲田ウィークリー」の特別号を作成し、革マル叩きに奔走し始めたのだ。
無論、今年になってからの当局と革マルとの関係が悪化していたことは、私はすでにつかんでいた。実は、早大では今年の5月に、自治会と総長との団交があったのであるが、その際、総長や理事らに対して、怒号とヤジが飛んだことに対して、件の石川学生部長が、
「革マル出ていけ!」
と一喝したらしいのだ。
それ以降、革マル派という存在が、早稲田の杜で、再びにわかにクローズアップされてきたのである。
実は、かつても「早稲田祭」の危機が存在した。
2.血塗られたキャンパス
革マル派は、67〜68年にかけて、暴力的にサークル自治会「文連」を乗っ取り、これを機に解放派などの早大内に残る反対派を放逐し、「革マル暴力支配」を完成させていった。因みに、今日でも政経学部には自治会がないが、それは、かつて早大から追放された解放派の拠点が、政経学部自治会であったからである。
「革マル暴力支配」の極致とも言うべき事件は、70年における民青活動家の山村政明君の自殺と、中核派シンパ川口大三郎君のリンチ殺人事件である。
当時の革マル派は、常時キャンパスをパトロールし、革マル派に反対する人々が早大内に登場できないようにしていた。もしも彼等に捕捉されたら、革マル派に足腰が立たなくなるまで暴力的に叩きのめされるのである。事実、かつて「文連」などに勢力を保持していた解放派のメンバーの中には、かくして具体的には片目をえぐり取られるなどの生涯消えない傷を負わされた者も存在する。因みに、当時解放派の放逐に力を注いでいた革マル全学連の大幹部藤原隆義氏は、後に解放派によって、車に乗っていたときにその中に閉じ込められ、他の3人の仲間とともに車もろとも焼き殺されるというあまりにも無惨な最期を遂げている。
山村君は、民青活動家であり、革マル派に顔を知られているために、登校すると革マル派に半殺しにされかねないという危険に、彼は常にさらされていた。
かくして、彼は1年以上にわたり、登校の自由を奪われていた。思い詰めた山村君は、抗議の意味を込めて、70年10月6日、焼身自殺という悲痛な道を選んだ。
因みに、当時の民青は暴力的な面もあったし、革マル派と民青との内ゲバでは死者も出ているのではあるが、そのことを抜きとしても、革マル派の党派闘争の激しさ、他党派に対する徹底した残酷さは、明記しておかなければならない。
そして、72年11月8日に殺害された川口君は、中核派のシンパであったと言われている。少なくとも、革マル派に対しては批判的な学生ではあった。そんな彼は、自治会が行う「クラス討論」にて、革マル派を批判したために白昼革マル自治会に拉致され、6時間あまりに及ぶ凄絶なリンチを受け、殺害された。同事件は、本郷の東大病院前にて、彼の死体が遺棄されたことが判明することによって公になった。もっとも彼は、時々デモに参加したという、どちらかというと一般学生に近かった人物のようであったらしい。民青、日向派(現「BUND」、ロフトプラスワン事件でお馴染み)などはこの点を重視して、「一般学生」と見なしたが、リンチの課程で川口君自身が中核派活動家の名を白状したので、必ずしも中核派とは無縁ではなかったようである。
もっとも、川口君が弄した反革マル的な言辞は大した内容ではなく、ともすれば、早大内にて革マル派に睨まれることが何を意味するかということを誰もが敏感に感じとったのである。
そう、
「もしかしたらボクも....」[「朝日」]
という恐怖は、ともすればすべての早大関係者が長年の間抱いていた恐怖でもあった。実際、最近は人の死を伴うようなリンチ、内ゲバは沈静化してはいるものの、少なくとも早大に於いて圧倒的な勢力を保持している革マル派に反抗することは、その報復としての吊し上げ、監禁、暴行などの事件は未だに後を絶たない以上、革マル暴力支配の恐怖は現存していると言ってよい。
早大内における「革マルタブー」とは、具体的に言えば、こういうものである。
とりわけ川口君事件は、後の学生運動、内ゲバの趨勢に多大な影響を与えた。
後に、その下手人と見なされたものの中には、中核派によって重傷を負わされた者はおろか、廃人と化せられた者も存在する。
引用してみよう。どれだけ恨まれているかが分かるはずである。
「川口同志虐殺者に血の報復〜遂に早稲田カクマルをせん滅〜....川口、辻、正田同志虐殺を「許してくれ」とは何たることだ!我が部隊は原田の命乞いに対して無慈悲なツバを吐きかけ、虐殺下手人にふさわしいやり方で徹底的な鉄槌を加えたのである。一撃、一撃に三同志の悔しさを込め、わが戦士は自らの体内に三同志の遺志をよみがえらせおびただしい流血を強制した。/三同志の命を奪い去った憎むべき虐殺者の手や腕を粉々に打ち砕き、つづいて頭や足、そして全身に反革命的罪科にみあったバール五十数発を念入りに刻み込んだのであった。部屋の中は原田のどす黒い血で一杯になり、原田は物言わぬ物体となって血の海に浮かんだのである。」[中核派機関紙「前進」第666号]
「川口君虐殺下手人逃亡分子を関西で摘発〜早大田原を徹底せん滅〜民家への逃げこみを粉砕〜....わが戦士が「田原」と呼びかけたとたん、この反革命分子の顔からサッと血の気が引き、ひざがガクガクとふるえだしたのである。すかさず、打ち下ろされたわが戦士の鉄槌の前に、田原はよろめきながら、目の前にあった民家めがけて、家の前にいた女の子を突きとばしてころがりこみ、コタツの掛けぶとんの中へ頭の先だけもぐりこませ、何ら抵抗することなくガタガタとふるえていたのである。....この卑劣分子をズルズルとコタツの中から引きずり出し、川口同志虐殺に対する怒りと憎しみの一切を込めて、肩、手足に対する的確な打撃を加え、三ヶ月の重傷という壊滅的な打撃を与え、二度と反革命的罪業を重ねることができないまでに打ち沈めたのである。」[「前進」第719号]
川口君事件を機に、さすがに革マル派に対する批判がうずまき、革マル派は何度も吊し上げなどの制裁や、反対派セクトの武装襲撃を受けている。
その衝撃の大きさから、革マル派は社会的に孤立し、革マル系の自治会はリコールを受け、消滅の危機にたたされた。
しかし、革マル派の勢力範囲である「早稲田祭実行委員会」はリコールを免れた。革マル派は追放されなかったのだ。相も変わらず、早大は革マル派本丸であり続けた。
そして、川口君事件1周年を間もなく迎えようとしていたときに、例年この時期に行われていた「早稲田祭」の問題が持ち上がった。そう、再び革マル派が「早稲田祭」を執り行う時期が来たのだ。
革マル派と激しく対立しているセクト、特に解放派と中核派とはこのことを重視し、「早稲田祭粉砕」を掲げていた。彼等は、とりわけ当時の「早稲田祭」が、川口君の命日である「11月8日」に行われる予定であったことから、
「革マル早稲田祭(革マル祭)粉砕!」とか、
「お望みどおり、「虐殺者の祭典」をコナゴナに打ち砕いてやろうではないか!」
などと絶叫していた。結局、当初の期日はあまりにも露骨なため、早稲田祭は日程をずらして行われたが、このこともまた、革マル派と当局との動揺を示すものであり、解放派や中核派を喜ばせるものであった。
又、民青の勢力が強い法学部では、革マル派主導の「早稲田祭」に反対、独自に「法学部祭」を行うに至った。それは現在でも続いている。
かくして、内ゲバ戦争はますますエスカレートし、その死者は100人近くにのぼる。
少々調べただけでも、今では考えられない、ものすごい歴史である。是非とも、当時の人々の話が聞きたいものである。
ふと、現在活躍中の「新しい歴史教科書を作る会」の面々にこの事件をどう総括するつもりなのかを聞いてみたくなってしまった。
平和の尊さを噛みしめつつ、私は勇んで足を運んだ。
3.「WASEDA FESTA」へ
諸般の事情により、私は当日の朝になっても、疲労が抜けなかった。しかし、前から楽しみにしていたので、別に足を運ばなければならない義理などはないのではあるが、行かずにはおれないのである。何しろ、この日はただで忌野清志郎ライブが見られるというではないか。革マル派との関係が取りざたされるイベントと、反権力が売り物の異色歌手との組み合わせなんて、ワクワクしてくる。
私は、カメラとフィルムとを持参。当日には、貴重な瞬間の数々が待っているに違いないのである。恐らく、そう直感した者もいたのだろう、すでにマスコミが大挙して、居座っている。
私は、東西線の早稲田駅で下車した。私は早稲田界隈に足を運ぶとき、本来ならば普段は高田馬場で下車するのであるが、一刻も早く会場に着きたいと思っていたので、そうしたのである。
因みに、高田馬場駅前では、ときどき青虫やマル青同などのアジ演説や原理の勧誘等が行われているので、それをチェックしたかったのであるが、残念ながら今回はその機会を逃してしまった。
折角早稲田駅で下車したので、今話題になっている解放社を一目見たかったのだが、怪しまれるのは嫌だし、とにかく一刻も早くキャンパスに足を運びたかったので、今回は断念した。
早稲田界隈に於いては、「早稲田祭」は一種の地域祭なので、その中止は街でも関心事であるらしく、その中止をうたった当局のポスターが、至る所に張ってある。
それらを横目に、私が足を運び、キャンパスが近づくにつれ、徐々に大隈講堂が大きくなってゆく。
それと同時に、学生ががなっている声、喧噪もそれにもまして大きくなっていく。
門のところには、
「今年の早稲田祭は中止です」
などと書かれた看板が立っている。
又、どうやら「忌野ライブ」が中止になったらしく、プロダクション側のファックスが立看の中に張られていた。
私としては、トラブルに巻き込まれる忌野の姿が見たかったので、残念に思った。
4.喧噪のキャンパス
オブジェは至る所に置かれ、そこには、
「撤去したら処罰されます」
などと書かれていた。まるでドラクエのダンジョンにある邪魔っけな意味なしオブジェのようである。又、当局の人々が手にしているプラカードには、「授業妨害行為を止め、速やかに退去して下さい」と書かれていた。プラカードは、ライブ・ステージなどを取り囲み、遠くから見えないようにしているようであった。やはり、何だかんだ言ってもあまりにも強硬な実力措置は執れない故の苦肉の策であることは、よく分かった。
彼等は背広を着ていたが、中には私服の学生風もいた。恐らく革マル派が嫌いな人々だろう、彼等の正体が気になって仕方がない。
ブルジョアマスコミでも報じられたように、彼等の一部はビラを配っていた。面白いので全文を引用する。
「第44回早稲田祭実行委員会(自称)を名乗る者のほとんどは革マル派の活動家です。
/現在約100人くらいの革マル派が大学構内及び大学周辺にいますが、内約70人は学生ではない学外者と思われます。/学生のみなさんには、この事実を受けとめ、冷静に行動して下さい。/1997年11月1日 早稲田大学」!!
かなり強硬な内容である。何しろ、革マル派を名指しで批判しているのだ。
それにしても、100人の革マルだとか、内70人は部外者だとか、どうやってこの数値を導出したというのだろう?
かつては「特定団体による虚偽の宣伝」云々という婉曲したものであったことを考えると、この変化は革命的である。
実際、「虚偽の宣伝」という文句は、当局や民青が革マル派のデマゴギー性を示すものとして何度も用いているので、実行委員が言い間違いをすると、
「ごめんなさい!たった今私は、「虚偽の宣伝」をしてしまいました〜!」
などとおどけているほどである。
古本コーナーもあった。1冊20円よりという安さ。すかさず数冊購入。
古本の他には、同人誌を出している文芸サークルのブースだとか、衣服のフリーマーケットコーナーがあった。
私は、彼等から面白そうな同人誌数冊を購入した。衣服はと言うと、残念ながら鞄に入らないので断念した。
キャンパスの脇には、早稲田特有の社会派サークル、又の名を革マルダミーサークルの展示「WISSEN SCHAFT」があった。
その中には、「解放」とともに「Aくんは無罪だ!」キャンペーンを張っている「早稲田大学新聞」の展示もあった。張ってある「早稲田大学新聞」の脇には、
「真実の伝道師(!?)」だとか、
「嘘つきだー!嘘つきがいるぞー!」
などという面白いコピーが書いてある。まさしく、「名は体を表す」という感じである。
甘酒が無料で振る舞われていた。私はすかさず入手したが、甘ったるいので、すぐに近くの自販機で「日本のお茶」を購入した。
因みに、当日はほとんど授業は行われていない。何しろ土曜の午後なのだし、当日は早慶戦の日なので、当局の言う「授業妨害」というのは、不当と言えば不当なのである。
ともかく、当局の人々の並々ならぬ決意は、ひしひしと感じられた。
何しろ、先ほど公認を取り消された、やはり革マル系の「商学部自治会」が公認を取り消されたとかで、同僚の「不倫ビデオ」などは出回るわ、ちょっとしたことで吊し上げにされるわ、可哀想なほど大変なのである。
今までの革マルと当局との蜜月を考えると、隔世の感がある。
5.早稲田闘争
実際、どんなイベントでも混乱は付き物なので、イベントの管理者だけは妙に緊張しているのは仕方ないとしても、それにしても物々しい。
対立している法学部自治会か民青らしき人々に対し、
「てめぇ、スパイするの止めろ!」
とか、でかいカメラを持っている学生風の男に対し、
「何で写真取るんだ?ここの学生なのか?公安警察とかではないのか!」
などといったような恫喝があちこちで聞こえる。
もっとも写真撮影を注意された男は、必死になって
「ち、違いますっ!」
と手を激しく横に振っていた。信じてやれよ。
お祭りなのに、写真撮影は歓迎されない。特に実行委員会の面々の前でカメラを手にすると、本当に嫌な顔をする。さっきまでにこやかだったのが嘘のようである。
これだけのイベントなのだから、野次馬や学生が写真を撮りたがるのは当たり前だとは思うのだが、妙に過剰反応するのである。
当局も負けてはいない。トラメガを指さし、
「これがないと、君達はしゃべれないのか!」
とか、なかなか名前を名乗らない実行委員に対して、
「貴方は本名も名乗れないのか!」
などと怒鳴りつけている。
その中でも、特に混乱していたのは、ミニバスケット大会「3on3」を開始しようとしていたときである。
バスケ大会のときには、実行委員会の面々が、無理矢理当局を追い出してしまったのである。
このとき、ひとりの女子学生が怪我をした。
早速「八巻学生部副部長が女子学生に暴行!」というビラが撒かれた。
もっとも、当局は、「スポニチ」によると、
「わざと大げさに倒れたんですよ。革マルのよくやることです」
と言っていたそうだ。
ミニバスケット大会「3on3」が始まろうとしている。
予定では1時半に開始のはずなのだが、なかなか始まらない。
何でも、チョークでコートのラインをひいていたら、当局が消してしまったんだそうだ。
私は、「チョークよりも蝋石の方が....」と思ったのだが、黙っていた。
なおも居座ろうとする当局に対して、実行委員会の面々は
「ええーい!追い出しちゃえ!」
「うおーっ!」
と強引に押し出してしまった。
勝ち誇った実行委員。
「皆さ〜ん、私は、指に、全治2週間の傷を負わされたんですよ〜!見て下さ〜い。ひどいんですよ〜!当局というのは、学生の自主的なイベントに対して、暴力まで振るうんです。」
などとがなっている彼は、妙に元気である。
彼は、更に続ける。
「まったく、人のことを暴力集団だとか、ぬかしておいて、どっちが暴力ふるっているんですかあ!」
その一方で当局の人も、この混乱の中で、テレビでも報じられたように背広が破けたという派手な被害を負った人もいる。彼は理工学部の教授。後ろから見ると、まるで甲虫のようである。彼は後に、怪我をしたことを記者会見で発表したそうだ。
ノリとしては、映画にもなった「ぼくらの7日間戦争」に近い。
もしかしたら、何も事情を知らない人が見たら、そのように写っても何の不思議もないだろう。何しろ、実行委員会の人々は、革マル呼ばわりされていたとしても、彼等はヘルメットをかぶったりしているわけではない。むしろ、彼等が身を固めているのはヘルメットではなく、腕章や紫のスタジャンであるが、それはむしろ当然のことではある。
それにしても物々しい。普段は妙に開放的な大学なのが嘘のようである。
門の前に
「ヘルメット、凶器の持ち込みを禁ずる 早稲田大学」
などという注意書きが表示してあるところなんか、まさしくという感じである。
それにしても公安の姿が目立つ。その姿は、競馬場あたりにいる怪しいおっさんという感じである。顔を隠すためだろう、サングラスはおろかマスクをしている者もいる。中には、敵対セクトの連中もいるだろうが、詳しいことは私には分からない。実は、私は先日行われた革マル派のデモを見かけたのであるが、やはり公安の姿は目立っていた。大隈講堂前には、学生がパレードをやるので、交通課のお巡りさんがいるのは当たり前だとしても、過激派には付き物の機動隊までいる。
救急車、消防車も待機している。恐らく1万人(新聞各紙によって参加者の数に相当の差がある。200人〜6000人だそうだ。一体誰が数えたのだろう?)も集まってはいないではあろうが、何も事情を知らない人が見ていたとしても、そのものものしさはすごいものを感じるはずである。
開放的な学風の学園祭の実態に唖然とした。
終章.大団円
一部で、「革マルー!」とヤジが飛んでいるが、たったひとりなのでかき消されてしまった。それにしても、もしも彼がこのヤジがもとで捕まってしまったらどうしようなどと、変な妄想を抱いてしまった。
周囲の人間は、加土井くんの「がんばろう」にあわせて、こぶしを振り上げていた。
リズミカルに、最後のクライマックスが会場を包む。
最後の段階になって、またもや当局の人が壇上の加土井くんを睨み付けてはいたが、つつがなく終わった。当局のプラカードもほとんど姿を消している。
最後に、後片付けが行われていた。
「手伝える人は手伝って下さーい」
という叫び声とともに、サークルの人々が手伝い始めた。
彼等は、ビールケースなどの機材を抱え、消えていった。
後記
「無事だったか?」という声が聞こえた。
どうやら早稲田祭の模様をテレビで見ていたらしく、かなり騒然とした雰囲気だったことが分かっていたようであった。
次の日、図書館に足を運ぶと、「スポニチ」に詳しい記事が掲載されていた。
それ以外では、ブル新の中では「東京」、「日経」がかなり詳しかったようである。前述のように、このイベントは早稲田祭ではなく「WASEDA FESTA」なのだが、学外者はこのイベントのことを「早稲田祭」だと思っているようで、やはりマスコミは、「早稲田祭」と表現していた。
今年の夏、酒鬼薔薇事件でマニアの話題をかっさらった「フォーカス」には、なんとカラーページに掲載されている。
後の「解放」、「早稲田大学新聞」に、早稲田祭の模様が掲載されていた。
予想していた通りの文面が踊る。
でも、中核派が来なくて、本当によかったですね。
おしまい