内ゲバでGO!
死売狂生(しうるきょうせい)
最も内ゲバが流行したのは1975年前後の時期だ。この年だけで20人が死亡し、500人以上の負傷者がでている。現在までに100人近い死者が出ているのだ。
過激派の殺人技術は、もはや職人芸ともいうべき「高み」に達している。80年には中核派テロ部隊が路上を通行中の革マル派5人を白昼襲撃し、わずか10分の間に全員を撲殺し、襲撃部隊は全員逃げおおせている。
中核派と革マル派は共に組織内にNTT職員や自衛官を擁し、盗聴や尾行の専門技術を有した百人を越えるテロ組織を持っている。敵組織や警察にスパイを潜入させるなど情報戦も熾烈だ。テロ技術の訓練も凄まじいもので、新右翼の書いた本によると犬の死体がある真っ暗な小屋の中に閉じ込め血の匂いを嗅ぎつけてバールで一瞬で死体をズタズタにできるようになるまで繰り返されるのだそうだ。また、革マル派の機関紙によると中核派の求察隊は屠場労働者が豚や牛の首を持ち出し、それで頭を叩き割る訓練をしているという話もある。
70年安保闘争の際、革マル派は徹底した組織温存政策をとった。他党派がゲバルトで消耗したすきに、自治会などを乗っ取る戦術に出たのだ。このため革マル派には他セクトの憎悪が集中した。そのうえ、中核派と革マル派はもともとひとつの組織が分裂して誕生したという経緯があるため、さらに激しく憎しみあうこととなった。
最初に中核派下部組織が、革マル派メンバー2人をさらってリンチにかけ、殺してしまった。革マル派は報復を宣言。テロ部隊を組織し、中核派メンバー3人を連続的に殺害する…といったことから殺し合いの内ゲバがはじまった。最初はやはり組織を温存していた革マル派が優勢で、中核派が千人規模の集会を開いていると鉄パイプを持った百人程度の革マル派部隊が殴り込み、叩きのめして集会をぶっ壊すというパターンで連戦連勝だった。これに対し中核派は、小部隊で革マル派メンバーの下宿などを襲撃するという個人テロで反撃した。最初は鉄パイプで頭を殴る「スイカ割り行為」程度だったのが、マサカリや硫酸、工事用のバールを持ち出しての殺し合いになる。屠殺銃が使用された例すらあったといわれる。脳天を叩き割られて殺された者の中には、脳内に指を突っ込まれた跡があるものすらいた。
内ゲバ戦争がはじまって3年もたつと、もともと組織の大きな中核派は体勢を立て直し反撃に転ずる。苦境に立たされた革マル派は、一発逆転の大作戦を決行した。中核派最高指導者本多書記長の暗殺である。最高指導者ともなると完全に地下に潜り、補足は極めて困難である。そこで革マル派は警察を装い、妻に本多書記長が交通事故に遭ったと告げた。あわてて潜伏場所に駆け付けた妻を尾行し、わずか10分後にはナタと手オノで武装したテロ部隊をアジトに突入させ、暗殺を成功させたのだ。だが、これは完全に逆効果となった。復讐の鬼と化した中核派は、「(革マル派メンバーに)死の処刑攻撃を加えることをがっちりと確認し、内外に宣言するものである。われわれは、彼らが、どんなに逃げまわろうと、地のはてまでもおいかけ、それこそ草の根をかきわけ川の底をさらってもみつけだし必ず完全にせん滅するであろう」と宣言し、その言葉通り革マル派に対する無差別テロルを爆発させたのだ。中核派によると、革マル派はもはや左翼ではなく、内ゲバと呼ばれている行為は革命と反革命の戦争なのだそうだ。
中核派の殺人テロルにタジタジとなった革マル派は、怪文書を大量に発行して対抗した。大学自治会や労働組合など多方面にバラ撒かれ、一部では中核派非難決議を引き出すのに成功している。捏造文が混じったムチャなシロモノだ。「今や七面倒くさい調査など無用であり、手あたり次第せん滅しつくし、皆殺しにすることこそが重要だ」などという文を、仮にも革命をめざす政治党派がビラにしてまくはずがない。どうやら革マル派が自作して宣伝に使ったらしい。軍事力によって党派闘争の雌雄を決しようとする中核派に対し、革マル派は宣伝など多彩な戦術で打撃を加えようとした。敵に人糞や牛の目玉など気味の悪いものを送りつける『ナーバス作戦』も革マル派が始めたものだ。敵が猫の首を送りつけてきたので犬の首を送り返したところ、今度は牛の首を送ってきたなどという話も伝わっている。
現在は、死人が出るような内ゲバは沈静化した。革マル派は主にJR労働運動を行い、中核派もテロやゲリラは控えて、大衆運動路線に転換したようだ。内ゲバ戦争は、公安当局が煽り立てたフシもある。警察が消したい者の居所を敵対党派に教え、襲撃させるという事もあったのである。
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