『
死の商人への挑戦』前書き北のりゆき
この文は、
1995年に冥土出版が発行した冊子『死の商人への挑戦』の前書きです。この冊子は遊撃インターネットでも通販をしています。 遊撃インターネットに戻るはじめに
本書は1967年に『ベトナム反戦直接行動委員会』(べ反委)より発行された『死の商人への挑戦』の復刻である。ただしページ数の関係で40ページから53ページまでの『バリケードの内と外から』を割愛した。
戦前日本の社会主義運動は無政府主義から始まったとされる。甘粕憲兵大尉に虐殺された大杉栄や大逆事件で処刑された幸徳秋水らが有名である。日本共産党の創立メンバーの多くも無政府主義者から転じたものであった。いわゆるアナボル論争を経て主流は共産党に移り、1935年の共産党壊滅により社会主義者による組織的な運動は終焉した。戦後においても無政府主義は、再建された共産党の影に隠れ微々たる存在にすぎず、理論活動や芸術運動が中心であった。新たな直接行動による無政府主義運動の高揚は1960年代後半を待たねばならなかった。
アナーキズムの潮流のひとつとして直接行動がある。戦前イタリアでの工場占拠などが代表的なものだ。ガンジーの非暴力直接行動にも影響を与えた。極端な場合、賃上げを要求して経営者にテロをかけるといった経済テロなどといった例もみられる。この直接行動はしかし重弾圧を招き、多くの場合逆効果となった。
本書を発行した『ベトナム反戦直接行動委員会』も抗議行動としてハンマーなどを持ってベトナム侵略に荷担する兵器工場に殴り込み、機械類を破壊するという行動をとった。選挙活動やビラ撒きデモ行進といった合法活動を中心とした社共や、機動隊との衝突を主流としていた当時の新左翼に、この生産点に対する攻撃はかなりの衝撃を与えたようだ。また、どうやらその工場の労働組合は共産党系だったらしく、べ反委は共産党機関紙の『赤旗』などでかなり激しく叩かれている。
ベトナム反戦直接行動委員会は、代表者や事務局などを置かず、青年・学生アナーキストの自由な連合による戦闘的行動組織とされていた。数次に渡る需要工場破壊行動の後は主に被告の救援活動を行い、路線対立により分裂し消滅した。しかし、分裂した中の一派は背叛社を結成し、爆弾製造中に誤爆事件を起こし11人が逮捕された。さらにその中の生き残りは再び爆弾を製造し、赤軍派に供与したりしている。この爆弾は実際に使用された。また、兵器工場に殴り込んだメンバーには、後に東アジア反日武装戦線に加わり爆弾闘争を担い、検挙後服毒自殺した斎藤和がいたといわれる。このようにべ反委は後に過激な武装闘争を行った組織や個人の母体ともなったのである。
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