創宗戦争の基礎知識  北のりゆき

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この文章は創価学会と宗門の抗争を軸に、日蓮正宗系宗派の歴史を述べたものです。かなり長い文ですし、分かりやすく書いたつもりですが専門用語も多く、触れたことがない人には難しいかもしれません。日蓮正宗系宗派の家に生まれ、親に信仰を強制されたことがあるような人が読むのに適しているかもしれません。

良かったら信者の方はご意見など聞かせて下さい。腹を立てた人がいるかもしれませんが、信者の人が折伏をする自由があるように、たとえどんなに間違っているように思えても私にも独自に調べて考えたことを文にして発表する自由があるはずです。

日蓮正宗だけ字の色を変えましたが、日蓮宗と紛らわしいからです。特にそれ以上の意味はありません。

1 日蓮

2 日蓮正宗

3 創価学会

4 冨士大石寺顕正会

5 正信会(正信覚醒運動)

6 創宗戦争

7 今後の展望


 

1 日蓮

 日蓮正宗は、日蓮宗系の宗教といわれています。まず、日蓮の教えがどのようなものか簡単に説明しましょう。

 一般に仏教には華厳経、阿含経、浄土経、般若経、法華経などの経典があるとされます。実際には釈尊が説いたのは阿含経の一部だけらしく、残りの教典は日本に伝来するまでの間に付け加えられたもののようです。なかにはギリシャ哲学の影響を受けた教典もあるといいます。

 日蓮はこの5つの経典のなかで法華経だけが唯一無上のものであるとしました。なぜかという理由については日蓮の著述による以外になく、論理的な説明というより直感による確信としかいいようがありません。ただし、法華経を他経典の上に置くのは日蓮の思いつきではなく、中国の天台大師→聖徳太子→最澄(伝教大師)という系譜に連なる日本仏教の主流思想ではありました。日蓮宗は天台宗から発展したとも言えるでしょう。有名な「南無妙法蓮華経」という題目も日蓮の創作ではなく、平安時代から唱えられていました。「私は法華経を信じる」という宣言のようなものです。日蓮宗の特異性は法華経の絶対化と他宗排撃にあります。

 日蓮宗の本尊は「南無妙法蓮華経」の五字七字を中央においた曼陀羅です。「南無妙法蓮華経」の文字の周りに「天照大神」「鬼子母神」「八幡大菩薩」など仏教や神道の諸天善神を配置しています。日蓮宗、なかんずく日蓮正宗ではこの曼陀羅以外を信仰の対象にすることは謗法(ほうぼう)とされ、絶対に禁止されています(謗法厳戒)。日蓮系の本尊である曼陀羅をみるとイスラム教的一神教と多神教を混合した、奇妙な宗教であるように思えます。数多く存在する仏教教団の中でも特に日蓮系が「激しい」といわれるのは、この一神教的な面に由来するようです。また「天照大神」など神道の神々が配置されているなど奇妙に日本化した仏教ともいえるでしょう。

 法華経の成立は紀元前後といわれています。仏教がインドから中国に伝来する課程で反主流の立場にあるグループが成立させたらしく、経文の中で「法華経の行者は必ず法難を受ける」と予言しています。これが日蓮正宗をとらえる上で重要なポイントになります。日蓮の生まれた鎌倉時代末期は、疫病、飢饉、内乱、さらには蒙古の侵略というまさに乱世にありました。仏教が弘まっている国は平穏であるといわれているのに、仏教国である日本がなぜそのような末世の状態にあるのかという疑問が日蓮に生じました。それは仏の真の教えである法華経を邪宗が誹謗しないがしろにしているからであり、すべて法華経に帰一すべきだと日蓮は考えました。

 法華経を唯一無上のものと確信し立教開宗した日蓮は、激烈な他宗攻撃を始めるのです。日蓮の有名な言葉があります。「念仏無間 禅天魔 真言亡国 律国賊」。「念仏を唱えている者は無間地獄(絶え間ない苦しみの地獄)に墜ちる 禅宗の者は天魔である 真言宗の者は国を滅ぼす 律宗は国賊である」。俗な言葉を使えば他宗派解体路線を選んだといってもいいでしょう。これは信者が他宗に論争を挑み積極的に改宗させる「折伏」(しゃくぶく・破折調伏の略)に象徴的です。新左翼を例に挙げれば、革マル派に近い路線といえるでしょう。

 当然他宗信徒の反発は大変なものでした。何度も襲撃され、信徒が殺されたり日蓮自らも眉間を切られるなど負傷しています。最後には刑場に引き出され斬首される寸前までいき、2度も流罪にされています。日蓮の受けた迫害は大難四度、小難数知れずと伝えられています。しかし、これらの迫害は「法華経の行者は必ず法難を受ける」という予言のとおりであり、日蓮が法華経の行者である証明だという確信をいだかせるだけでした。そしてついに日蓮は自らを法華経の予言を現実化させる『上行菩薩』の生まれ変わりであると断言するに至ります。龍口刑場に引き出される途中に八幡神宮の前を通りかかると、大声で「八幡大菩薩はまことの神なりや」などと幕府の氏神を叱咤して護送の武士団を驚愕させています。龍口刑場では首を切られそうになりますが、振り上げた刀に一種の落雷が生じ(雷電現象ではないかといわれています)、日本刀が真っ二つになるという「奇跡」がおこり、処刑が不可能になり島流しに減刑されました。

 日蓮は「法華経の行者」としてあえて自ら弾圧を招き寄せている面があります。しかし、日蓮が鎌倉幕府に迫害されたというのは誤りのようです。たしかに日蓮は「他宗を禁じ、法華経を国教にせよ」という主旨の諫暁書を数度に渡り幕府に送りつけています。宗教者による政治への介入は幕府の嫌うところだったでしょう。しかし時の執権、北条時頼は日蓮と直接会い、日蓮のことを「三国比類なき妙法、後代ありがたき尊僧なり」と感嘆しています。日蓮の受けた迫害は幕府上層部の念仏信者らによるものだったようです。

 日蓮系宗教の特徴を3つ挙げたいと思います。

 @法華経の絶対化 A他宗派解体 B政治志向

 ただし日蓮系にも穏健な宗派はあり、宗派によりそれぞれ温度差があります。後に詳しく書きますが、その中でも日蓮正宗は最過激派といえるでしょう。

 日蓮系宗教の政治志向について補足します。日蓮宗の目標は法華経の国教化です。これを国立戒壇といいます(国立戒壇の用語は明治以後のもので議論があるところです。後に詳述します)。国立戒壇が成就し日本が法華経化した後には、仏教伝来の逆ルートをたどってインドまで法華経が広がるとしました。これを広宣流布といいます。何をもって国立戒壇を成し遂げたことになるかというと、日本の場合は天皇が法華経に帰依した状態をいうようです。これには多くの異論があり、創宗戦争の重要な論点にもなっていますので後に詳述します。宗祖日蓮からして諫暁書を幕府に送るなど多分に政治志向がありました。日蓮死後、日蓮宗はいくつかに分裂しますが、諫暁書を国主に送り島流しにあうのを目的としたような宗派さえ現れます(日蓮宗不受不施派)。また、幕末の動乱時代には日蓮正宗総本山大石寺52代管長日霑(にちでん)上人が寺社奉行に路上で直訴しています。この直接行動も日蓮系の特徴のひとつです。直訴ならまだしも、ひとつ間違えるとテロ指向へと至る恐れがあるように思えます。

 いずれにせよ法華経の国教化を目指す日蓮系宗教は、積極的に政治に関わっていくという特徴があります。

 

 2 日蓮正宗

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 日蓮死後、数年で日蓮宗は分裂しました。教団は6人の高弟(六老僧)による集団指導体制をとり、日蓮宗の拠点である身延山は日興が常駐しました。しかし身延山の地頭の神社参拝などを法華経に対する不純行為として日興が諫めたことから不和となり、これがきっかけで身延を離山し新たに富士に大石寺を建てたのです。これが現在の日蓮正宗の源流となりました。また、五老僧と日興は教義においても対立します。法華経は前編(迹門)と後編(本門)にわかれており、本門が迹門より優れているという日興の勝劣派と、本門と迹門は同等であるという五老僧の一致派に分かれたのです。日蓮宗の主流は一致派の立場をとったのですが、富士門流は勝劣派となりました。この勝劣派は、より原理主義的で理想主義的であるとされます。日蓮宗の主流は釈尊を本仏とするのに対し、富士門流は日蓮を本仏とします。

 最も有名な日蓮系宗派に法華キリシタンの異名を持つ日蓮宗不受不施派があります。法華経に帰依しない者からは布施を受けず、また布施を施さないというという原則をかたくなに守り、江戸幕府によりキリシタンと並んで二大禁制宗門とされ徹底した弾圧を受けました。もっともキリシタンは、はりつけなど極刑に処せられましたが、不受不施派は主に島流しで刑罰に差があったようです。多数の犠牲者を出しながらも不受不施派は江戸時代を生き延び、明治三年に合法化されました。

 日蓮正宗(当時は本門宗大石寺)は江戸幕府に禁制とされることはありませんでした。しかし、地方によっては不受不施派と同一視され、迫害された藩がありました。金沢法難などが有名です。金沢の下級武士の信徒などには、参勤交代の途中に大石寺近くの宿場に留まった際、宿を抜け出して暗闇を走り、大石寺門前にたどり着くと石畳に正座して題目を唱え、夜が明けるころ宿に駆け戻るという「抜け参り」の風習があったと伝えられています。信仰心の弱い者に対しては有効な弾圧も信仰心の強い者に対してはかえって逆効果になります。まして「法華経の行者は必ず法難を受ける」という日蓮系ならばなおのことです。

 現在の日蓮正宗総本山大石寺が日蓮系の本門宗から独立し日蓮宗富士派を名乗ったのは意外と最近で、明治33年。日蓮正宗に改名したのは大正2年のことです。ただし、それまで大石寺が本門宗の傘下にあったとしても、それは当時の寺檀制度のものでの緩やかな集まりのようなもので、総本山大石寺として独自の教義を持ち続けてきたのは間違いないでしょう。

 大石寺独自の教義のひとつは「血脈相承」です。血脈とは日蓮の持っていた信仰の魂というか仏性というか信仰の正当性を示すものです。実体を示せる種類のものではないので理解が難しいのですが「唯授一人の血脈」と呼ばれ、日蓮から直々に日興に授られさらに日目、日道と代々大石寺の管長一人に受け継がれてきたとされます。日蓮正宗の教義では、いかに法華経を信仰しようとこの血脈がないとその信仰は日蓮とつながっておらず、功徳はないとしています。血脈論はさらに複雑なのですが、理解が難しいのでこれ以上触れません。「血脈相承」は創宗戦争において先の「広宣流布」とならび重要な論点となっています。

 もうひとつは『戒壇の大御本尊』の存在です。日蓮正宗の教義によると、総本山大石寺に安置されている板本尊が「日蓮出世の本懐」と言われ、要するに日蓮はこの本尊を作るために生まれてきたほどのものとされています。『戒壇の大御本尊』は、法華経が日本の国教になった際に本仏とされ、国を挙げて崇拝すべき対象になるものです。信者に下げ渡される曼陀羅も全てその力の源は『戒壇の大御本尊』にあるとされています。したがってたとえ日蓮真筆の曼陀羅に題目をあげても、それが日蓮正宗以外の不相伝日蓮宗の寺にあるならば、「戒壇の大御本尊」と繋がっていないため邪教の害毒はあっても功徳はないとされます。また、たとえ日蓮正宗から下附された曼陀羅であっても、破門されてしまえば血脈が切れてしまい邪教化するとしています。たとえば宗門から破門された創価学会員の家に日蓮正宗の曼陀羅があるとしても、宗門の人はそれに手を合わせてはいけないのです。

 この「血脈相承」と『戒壇の大御本尊』は、日蓮正宗信仰の根幹であり、日蓮正宗のみを正流であるとする根拠であり、日蓮正宗のアイデンティティともいえる最重要のものです。

 日蓮正宗教義の特徴を3つ挙げたいと思います。

 @血脈相承 A戒壇の大御本尊 B日蓮本仏論

 Bの日蓮本仏論について簡単に述べます。日蓮は、自らを『上行菩薩』の生まれ変わりであると述べています。『菩薩』とは、成仏が確定しているがあえて現世に残り衆生に仏の教えを広める者をいいます。言うなれば仏弟子なのですが、日蓮正宗では日蓮は『仏』であり法華経が顕現した者であるとしています。仏教の三宝といわれる『仏・法・僧』のなかで、日蓮は『仏』であり、同時に『南無妙法蓮華経』という題目でもあるという考えです。これはキリスト教の三位一体説と似ています。ちなみに日蓮正宗では『法』は法華経と題目を、『僧』は血脈を保った代々の管長を指すようです。

 日蓮宗では「日蓮聖人」とか「日蓮大菩薩」と呼んでいるのに対し、日蓮正宗では「日蓮大聖人」と呼び本仏として別格の扱いをしています。また、日蓮宗では、本仏は釈尊なので釈尊がとなえたとされる他教典に対しても比較的寛容ですが、日蓮正宗では法華経以外の教典は一切排撃し、その法華経の中でも寿量品と方便品だけを唱えます。日蓮正宗では法華経と日蓮と本尊の曼陀羅を同一視しているのですから、日蓮は本仏となり信仰の主体となります。初期日蓮宗の法華経絶対化が、日蓮本仏論と結びつき純化したように感じられます。

 世俗化し穏健になった日蓮宗がしばしば他宗の信仰を取り入れるのに対し、日蓮正宗は日蓮宗を含めた他教を徹底して排撃します。兄弟関係にある日蓮宗とライバル関係にある浄土真宗に対しては特に激しく攻撃し「極悪の邪宗教」とまで言いきります。日蓮正宗に入信するとまず最初に「謗法払い」を行います。これは信者たちが入信した人の自宅をタンスから天井裏・床下まで捜索し、神棚や仏壇など他宗教に関わるもの全てを回収し焼き払うという儀式です。なかにはキリスト教の形式で挙げた結婚写真すら焼き捨てる人もいます。仏教系でこれほど徹底した他教攻撃を行う宗派は他に例がないでしょう。

 

3 創価学会

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 日蓮系宗教は、昭和初期を中心に国家神道の時代には天照大神を法華経の下においているなどの理由で弾圧を受けています。天照大神を脇書きした本尊の曼陀羅が、不敬とされ非合法化されたこともあったようです。それと同時に日蓮系宗教の一種のブームが起こりました。日蓮系の国粋主義的で政治的な面と、国立戒壇など国家神道に対立する「革新的」な面が時代の風潮に合致したためでしょう。日蓮宗が中国からインドへと広宣流布していくという思想は、ひとつ間違えれば侵略イデオロギーへと転化する危険性があります。また、日蓮系特有の直接行動指向が要人へのテロ活動へと発展した教団もありました。実際、昭和初期の右翼政治事件の多くに日蓮系宗教が密接に関わっています。いくつか例を挙げましょう。二・二六事件の北一輝。血盟団事件の井上日昭。満州事変の黒幕石原莞爾。死のう団事件。田中智学の国柱会などすべて日蓮系です。ただしこれらは日蓮宗系で、日蓮正宗は関わっていないようです。

 創価学会(当時は創価教育学会)は、小学校校長であった牧口常三郎が発表した教育理論である価値論と日蓮正宗教学を接合し、1930年に創設されました。日蓮正宗はそれぞれの寺に信徒団体である『講』をもうけています。創価学会は、日蓮正宗の講のひとつとして誕生したのです。また、後に日本最大の宗教団体に成長したときでさえ、創価学会は独自に宗教法人の認証を受けながらも立場的には日蓮正宗の講のひとつにすぎませんでした。戦前の創価教育学会は、教育関係者を中心に数千人程度の勢力を得ていたようです。しかし、昭和18年には国家が日蓮正宗を信じなければ戦争に勝てないと主張し神札を祭ることを拒否したため、会長をはじめ数十名の幹部が投獄され壊滅してしまいました。創価学会以外の法華講も不敬罪などの弾圧を受けています。日蓮正宗本体は国家による日蓮宗合同は拒否したものの、神札は受け取るだけ受け取るといった融和的な態度をとり弾圧を免れたようです。しかし、寺を宿舎にしていた軍属に火事を起こされ、管長が焼死しています。

 よく創価学会は、戦争に反対したため大弾圧を受けたと宣伝します。これは事実ではありません。神札を祭ることを拒否しましたが戦争自体に反対したわけではなく、戦勝祈願なども行っています。また、宗門の指導を受けて神札を受けるという通牒を出したという説もあります。弾圧の程度も数十名の幹部が投獄された程度で、一万人以上が検挙され百人以上の拷問死や獄死者を出した共産党や、天皇崇拝を拒否したため数千人の信者が根こそぎ逮捕され官憲に宗教施設が爆破された大本教に比べればそれほど激しいとはいえないものでした。また、牧口会長と後の2代会長戸田城聖の2人以外は、転向して釈放されたようです。

 終戦を迎えると、獄死した牧口初代会長のあとを継いだ戸田二代会長のもと、創価学会は爆発的に成長します。これは当時の社会情勢など様々な要因があったと考えられます。創価学会が組織化した主要な社会階層は、大都市の下層中産階級あるいはルンペンプロレタリアと呼ばれる人たちでした。労働組合など存在し得ない小規模工場の工員や、いつつぶれてもおかしくない街の小商店主などです。

 昭和30年代から現在に至るまでの生活水準の上昇により、創価学会員の社会階層の上昇も見ることができます。しかし、基本的に現在も創価学会は下層中産階級を中心とした組織であるといえるでしょう。これは革新政党の組織化を受けず、また保守政党の利益誘導にもあずかる事のできない人々。地縁血縁とも無縁な政治から忘れられた都市の吹き溜まりのような恵まれない階層です。誤解を恐れずにいうと、これはナチスなどファシズムを支持した階層に近いといえます。念のために書きますが、創価学会がナチスと同じであると言っているわけではありません。しかし、支持階層が近いため多くの類似点が見られます。革新政党の模倣もそのひとつです。名称ひとつとっても創価学会のイベント部門である民音は共産党系の労音のマネ。創価学会本部がある創価文化会館は社会党本部のある社会文化会館のマネといった調子です。よく初期の創価学会が軍隊式の組織であったといわれますが、これも労働組合の組織論の模倣から始まったようです。下層中産階級が主体となった組織の特徴として、強烈な反共意識、指導者崇拝、行動の極端性なども挙げられるでしょう。また、良く言えば柔軟、悪くとれば無節操な機会主義的な行動をとります。全共闘運動が流行するとゲバスタイルの新学同を旗揚げしてみたり、人権がもてはやされると「人権の世紀」などと言い出すのも機会主義の表れに思えます。中小企業の未組織労働者の組織化を課題とし、そのため創価学会と競合関係にあった新左翼系の労働組合は、創価学会を「ファシズム前駆運動」規定しています。そこまでいえるかは疑問ですが、そのような側面があることは否定できません。

 創価学会に組織化されうる社会的な層があったとともに、強引ともいえる折伏によって創価学会の組織拡大はなされました。他宗教の集会に乗り込み質問と称し説法している僧侶を立ち往生させるなど序の口で、暴力沙汰になったり、折伏問題が殺人事件にまで発展した例まであります。1955年には公明政治連盟(後の公明党)を結成し国会に進出します。折伏とならび、創価学会の選挙活動は広宣流布の一環と位置づけられ熾烈を極めました。数万人の学会員による戸別訪問や、替え玉投票のための投票券抜き取りなどで幹部の逮捕事件が相次ぎます。後の池田大作3代会長(当時は青年部参謀室長などを歴任)も1957年に選挙違反で逮捕されています。

 戸田城聖2代会長死後3年を経て1960年に3代会長に就任した池田大作氏のもと、創価学会はさらに勢力を伸ばします。この池田大作3代会長に関しては経歴に不明な点も多いのですが、戸田城聖2代会長の経営していた金融会社で資金回収などの仕事に従事していたようです。3年に及ぶ権力闘争を勝ち抜き会長の座を獲得した池田は、大衆の組織化に天才的な手腕を発揮します。62年には会員数が公称300万世帯を突破しました。64年には池田会長は、宗門により法華講総講頭に任命されます。これは池田会長が創価学会を含む日蓮正宗全ての講の最高の位に立ったことを意味します。

 ここで日蓮正宗と信徒団体である法華講・創価学会の関係について整理します。日蓮正宗は厳格な中央集権制をとります。総本山である大石寺が末寺の住職を任命するのです。他宗と異なり末寺の独立性は少なく住職の世襲は基本的にはありません。また、出家した僧侶の育成も末寺ではなく総本山大石寺でおこないます(12才から18才まで。その後末寺で修行)。末寺には代々檀家として数百から数千人程度の法華講がついています。法華講にはそれぞれ**講とか##講という名前がつけられており、一応法華講連合会を組織していますがそれぞれ異なる講として独立しあまり横の連絡はありません。法華講は寺院の維持には役立ったと思いますが、墓檀家と揶揄されていたように、おおむね創価学会のような戦闘的な折伏活動は行っていませんでした。日蓮正宗本体と法華講すべてをあわせたよりもはるかに巨大となった創価学会も、立場的には講のひとつにすぎなかったわけです。日蓮正宗の教義について口をはさむことはできませんでしたし、本尊の曼陀羅も独自に作ることはできず総本山大石寺から下げ渡されるというかたちを取りました。

 宗門と創価学会の関係を図にすると下のようになります。

         → 末寺−法華講

 総本山大石寺  → 末寺−法華講

         → 末寺−講のひとつとして創価学会

         → 末寺−法華講

 ここで池田会長が信徒の最高位に立ったとしても、宗門(総本山大石寺)には手をつけられず、また、創価学会以外の各法華講がそれぞれ独自に動いているということを理解して下さい。池田会長が法華講総講頭に任命されたということは、信徒の関係が下の図のようになったということです。

             → 法華講

 池田大作法華講総講頭  → 法華講

             → 法華講

             → 創価学会(会長池田大作)

 

4 冨士大石寺顕正会

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 日蓮正宗から破門された顕正会(当時は妙信講)も末寺についている法華講のひとつでした。講頭は日蓮正宗関係書籍の印刷業をしていた浅井甚兵衛氏、中心となって活動していたのは息子の浅井昭衛氏(現顕正会会長)です。創価学会が700万人の信徒を獲得した47年時点で7000世帯の講員があったと言われています。これは法華講の中でも最大のものでした。法華講には珍しく創価学会のように強力な折伏活動を行っていたのです。この最大にして最も活動的な法華講が、創価学会と宗門に叛旗を翻しました。

 顕正会には宗門の教義逸脱を諫めたため弾圧を受けて破門とされたとしており、叛旗を翻したという意識はないようです。47年当時、創価学会を中心に日蓮正宗総本山大石寺に『正本堂』の建設が進められていました。この『正本堂』は日蓮出世の本懐と言われたあの『戒壇の大御本尊』を安置する『事の戒壇』とされる予定でした。事の戒壇とは、勅宣(天皇の命令)と教書(国主の命令)があり建立した戒壇(神聖不可侵の聖域、修行の根本道場)をいいます。

 日蓮正宗においては『戒壇の大御本尊』は、日蓮正宗が日本の国教になるという広宣流布の暁まで宝蔵に厳護しなければならないとされています。その点から、顕正会(妙信講)が正本堂の建設と『戒壇の大御本尊』の安置に反対したのです。そんなことを思うかもしれませんが、これは日蓮正宗信仰の根幹に関わる問題でした。顕正会の主張は、国家により建てられるもの以外は『事の戒壇』とは言えず、現在建築中の正本堂はニセ戒壇であり、そこに戒壇の大御本尊を安置することは日蓮の遺命に反することであり不敬であるため断固として反対するというものでした。いかに『戒壇の大御本尊』が強い信仰の対象になっているかは下の文章を読めば分かると思います。顕正会幹部で後に宗門に移籍した人のホームページから転載させてもらいました。

 総本山で行われた会合に参加して、初めて戒壇の大御本尊様にお目通りが叶ったときは、滂沱(ぼうだ)たる涙をおさえることが出来なかった。今生にはお目に掛かることが出来ないと思っていた戒壇の大御本尊様が、いま眼前に在す。感激が五体に漲(みなぎ)り、塔中を跳ねるようにして歩いて帰ったことを覚えている。

 しかし、学会はすでに数百億円にのぼる『正本堂』建設費用の供養を集めていました。これを今さら『正本堂』は事の戒壇ではないとするわけにはいきません。宗門ともども詐欺で訴えられてしまいます。また、ちょうどこのころ創価学会による言論出版妨害事件や宮本共産党委員長宅盗聴事件が表面化し、創価学会は日蓮正宗の国教化を目指しており、憲法を否定し信教の自由を侵害するものなのではないかという世論が盛り上がっていました。池田会長の国会喚問を求める動きも広がります。それに対し創価学会は組織を戦闘的な折伏団体から文化団体に衣替えするとともに、なんとしても『正本堂』を事の戒壇とし、国立戒壇の放棄を明らかにする必要に迫られたのです。

 宗門を抱き込んだ創価学会の動きに顕正会(妙信講)は、日蓮系の特徴とも言える諫暁書の提出や法論などで抵抗しました。教義的には顕正会側に分があるため宗門も揺れたようです。結局宗門は「『戒壇の大御本尊』を安置している場所はいかなる場所でも事の戒壇である」とし、その時点では広宣流布が達成されたと言えないにしても正本堂は現在の事の戒壇であるとしました。勅宣と教書により建立した『事の戒壇』に安置すべき本尊が『戒壇の大御本尊』なのですが、ここでは『戒壇の大御本尊』が安置されているから事の戒壇であると逆転しています。宗門の説明は苦しいレトリックに思えます。

 また宗門は国立戒壇に関しては、明治時代に生じた用語であり民主主義の時代にはそぐわないとして否定しました。つまり天皇や国主(幕府・政府)の帰伏ではなく、民衆を組織化することをもって広宣流布とするとしました。具体的に日本の人口の三分の一が日蓮正宗となった状態を広宣流布の達成とすると規定したのです。日蓮正宗のバイブルとも言える日蓮の著述を集めた『日蓮大聖人御書(御書)』には、当然の事ながら「日本の人口の三分の一が日蓮正宗となった状態が広宣流布の達成である」などとは書いてありません。顕正会には『御書』の文句をそのまま受け取る御書原理主義とでもいえる傾向があります。創価学会に追随する宗門の姿勢は教義逸脱と映りました。宗門が創価学会寄りの姿勢に固まると、顕正会は日蓮系の特徴である直接行動に訴えたのです。宣伝カーを先頭にハチマキを締めた顕正会青年部80人が創価学会本部に押しかけ、門を破って突入。事前に情報を察知し待ち受けていた警備の学会員と乱闘になり、「襲撃」したかたちになった顕正会員に10数人もの逮捕者を出しました。

 顕正会の諫暁もエスカレートしてきました。下の文は72年に当時の日達管長に宛てられたものです。

 男子精鋭二千の憤りは抑えがたく、仏法守護の刀杖を帯びるに至りました。もし妙信講一死を賭して立つの時、流血の惨を見ること必至であります。この時、一国は震憾として始めて御本仏の御遺命を知り、宗務当局また始めて御遺命に背くの恐ろしさ、正直の講中を欺くの深刻さをはだえに感じ、ここに誑惑は一挙に破れ、仏法の正義は輝くものと確信いたします。この時、妙信講も斃れ、同時に学会の暗雲もなく、宗務当局の奸策もなし。

 これではほとんど脅迫です。とうとう74年に顕正会は日蓮正宗から破門されてしまいました。

 破門された直後は、創価学会員が身分を隠して入り込んで組織を攪乱したりと大変だったようです。それ以上に日蓮正宗から破門されたということは、入信した人がいても本尊の曼陀羅を受けることができないということです。さらに日蓮正宗信者の聖地ともいうべき大石寺にも入れず、当然『戒壇の大御本尊』に直接題目をあげることもできません。これは日蓮正宗信者としては致命的なことです。しかし顕正会員は大石寺門前の石畳に座って題目をあげたり、曼陀羅の代わりに大石寺に向かい勤行するという信仰のかたちを取りました。顕正会は『御書』の文句に極めて忠実なため宗門の権能は認めており、後の創宗戦争時の創価学会と異なり、自分たちで曼陀羅の本尊を制作したり「血脈相承」自体を否定することはしていません。創価学会のため腐敗堕落した宗門を顕正し、正しい信仰が大石寺に戻ったら復帰したいと考えているようです。

 顕正会の行動は、昭和30年代の初期創価学会に近い過激なものです。特に折伏の強引さは日蓮正宗系団体の中でも群を抜いています。最近も折伏で暴力事件や監禁事件などを起こし警察沙汰になったこともありました。政治的には右翼で「日蓮大聖人に帰依しないと日本は必ず滅ぶ」という信念のもと折伏に励んでいます。憲法改正を主張し、国立戒壇を建立しないとソ連が、ソ連崩壊後は中国が攻めてくると主張しています。どうも顕正会会長浅井昭衛氏には予言癖があり、25年以内に広宣流布ができないと核戦争が起こるのだそうです。大集会では数万の顕正会員全員が黒の礼服を着て参加し、なかなかの迫力だそうです。また、会員数が100万を突破したら国会に国立戒壇建立の請願デモをかけるとも聞きました。

 会員の方には失礼ながら、終末思想や強引な布教、陰謀論など顕正会はカルト宗教の要件を満たしているように思えます。最近も法華講に押しかけて乱闘事件を起こしたり、日蓮正宗信徒の聖地であるはずの総本山大石寺に街宣車で抗議活動したりと問題行動が多く、また、破門後少しずつ題目の方法などが宗門と異なってきているなど、宗門から見ると異流義化が進んでいるようです。これでは復帰は難しいでしょう。

 破門後、団体名を妙信講から日蓮正宗顕正会に変更し、96年には冨士大石寺顕正会として独自に宗教法人の認証を受けました。74年の破門時の会員数は1万2千人だったと言われています。98年時点で会員数は公称55万人に成長しました。しかしわけ分からないまま入会させられてしまった幽霊会員が相当おり、実際に活動している者は10万人に達しない思われます。かなりの戦闘性と過激度を持ち中規模教団程度の組織があるため、今後顕正会の折伏行動などは社会問題化する事も考えられます。      

 

5 正信会(正信覚醒運動)

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 昭和50年代に入ると創価学会組織の腐敗が著しくなったように感じられます。象徴的なのが、静岡県富士宮市での創価学会系墓園造成反対派リーダー傷害事件でした。創価学会系企業が造成していた墓園に対する反対運動のリーダー宅に投石など執拗な嫌がらせが続けられ、ついに山口組系暴力団員が大型ブルドーザーで突っ込み、日本刀を持って家の中に侵入。リーダーに切りつけ重傷を負わせたという事件です。この時は一命はとりとめたものの、このリーダーは数年後に死亡しました。創価学会が罪に問われることはありませんでしたが、なぜ暴力団が墓園造成反対派リーダーを襲撃したのか創価学会に疑惑がもたれました。後の創宗戦争の際も、創価学会幹部を同乗させた右翼の街宣車が大挙して総本山大石寺に押しかけたり、寺院に銃弾が撃ち込まれる事件が起こっています。

 先にも書きましたが創価学会は信徒団体にすぎず、教義の解釈や本尊の曼陀羅の下附は宗門の権能でした。ところが昭和52年になると創価学会は独自の教義を打ち出し、学会会館安置の本尊を独自に作るという挙に出ました。これを昭和52年路線といいます。創価学会の昭和52年路線は、学会版の経本の製造、模刻本尊の安置、寺院否定論などのかたちを取って表れました。宗門から分かれ独自の在家仏教団体として独立する予兆ともいえるものです。

 池田会長に対する創価学会の個人崇拝は頂点に達しました。日蓮正宗においては信仰の正当性を示す血脈は代々日蓮正宗総本山大石寺の管長一人に流れているとされています。信徒団体にすぎない創価学会の代々会長を崇拝の対象にするのは教義逸脱といわれても仕方がありません。ただし会長本仏論は公然とは唱えられず、学会会館に代々会長の写真を飾り本尊とともに拝むなどといった隠微なかたちをとりました。また、本来寺院の仕事であったはずの彼岸供養なども創価学会が独自に行うようになりました。とりわけ本尊の模刻は、日蓮正宗では大不敬・大謗法とされ絶対許されない行為でした。日蓮の肖像を描いた者は皆狂い死にしていると言い伝えられていますし、写真やビデオに本尊の曼陀羅を撮影することも厳しく禁じられています。信じていない人にはただの紙に思えますが、信者が本尊の曼陀羅を大切に扱うことは異常に思えるほどです。信者の体験を集めた本によると、自宅が火事にあった際、親や子供より先に御本尊様を守り、子供2人と老母が焼死してしまっても妻と次男が生き残ったのは御本尊様の功徳だと感謝しているほどです。創価学会が無断で紙幅の本尊を板本尊に彫刻して学会会館に安置したという事件は、宗門を震撼させる大問題になりました。

 ここに至って宗門内の若手僧侶が正信覚醒運動として創価学会の教義逸脱を正すという活動を始めました。ここで注意したいのは、当初の正信覚醒運動は、創価学会の解体を目指すものではなく、その教義逸脱を正すという目的で始められたという点です。前の顕正会問題でも見られるように、宗門は教義上も巨大化した創価学会に引きずられる傾向がありました。正信覚醒運動は創価学会の教義逸脱を正すとともに、宗門の改革運動でもありました。日興上人時代の日蓮正宗に回帰しようという復古運動の色彩がうかがえます。同時に宗門僧の執行範囲に学会が食い込んできたために起こった衝突ともいえるでしょう。

 中央集権制をとる日蓮正宗では、血脈を保つとされる管長(法主)の意向が全てを決するといってもいいでしょう。当初細井日達管長は正信覚醒運動に同情的でした。勢いを得た活動家僧侶は日蓮正宗寺院を拠点に創価学会の教義逸脱を指弾し、学会員に寺院直属の檀徒として結集するように呼びかけます。この活動寺院は戦後創価学会に建立されたところが主で、旧来からの法華講はあまり加わらなかったようです。このときには10万人近い学会員が組織を離れ寺院についたといわれています。これによる家庭崩壊などは社会問題にもなりました。在家団体にすぎない顕正会の問題と異なり、宗門内部の正信覚醒運動には創価学会も対応に苦慮したようです。総本山大石寺への登山停止などの兵糧攻めで対抗しました。しかし、まだ宗派として独立する踏ん切りはつかず、世論も正信覚醒運動に同情的だったため形勢不利と見た創価学会は、78年(昭和53年)「おわび登山」として池田会長以下2000人の学会幹部が大石寺に出向き教義逸脱を謝罪し、翌79年池田大作氏が創価学会会長と法華講総講頭を辞任しました。会長辞任といっても、池田大作氏は名誉会長として創価学会の実権を保持したままです。これで創価学会と宗門との関係は一応修復され、細井日達管長は、正信覚醒運動に対し創価学会への批判を禁止します。しかし、正信覚醒運動はさらに勢いづき反創価学会運動は静まりませんでした。一度謗法化した団体は反省のポーズを見せたとしてももはや日蓮正宗とは認めがたいという考えで、ここまでくると創価学会の解体を目指す運動に変質したといっていいでしょう。まがりなりにも謝罪したことだし、宗門は群を抜いて巨大な信徒団体である創価学会との絶縁までは考えていませんでした。あくまで創価学会との対決姿勢を変えない正信覚醒運動と宗門との関係は悪化します。

 79年に細井日達管長が死去すると創価学会の巻き返しが始まります。若手のいわゆる活動家僧侶が中心の正信覚醒運動に対し、新しく管長に就任した阿部日顕氏を中心に宗門内部でも主流派が憂宗護法会を結成し対峙します。正信覚醒運動も正信会を結成し、組織の引き締めをはかりました。しかし、管長の座と宗務院を確保した宗門により、80年には正信会系信徒による檀徒大会の中止命令が出されました。正信会は命令を無視し、12000人を集め檀徒大会を決行。激烈な学会批判を行います。これに対し宗門は、5人の擯斥(ひんせき・クビにすること)を含む僧侶201人の大量処分を行いました。これをきっかけに正信会僧侶の処分が相次ぎ、最終的に178人もの僧侶が擯斥処分となります。これは当時の宗門住職の3分の1にもあたる大量処分です。擯斥された僧侶は寺院の明け渡しを拒否。寺院についた檀徒を巻き込むかたちで実に150寺以上が正信会として宗門から独立しました。宗門は、正信会に対し寺院の明け渡し要求訴訟を起こします。これに対抗するように正信会側も阿部日顕氏の管長地位不存在確認の訴訟を起こしました。この管長地位不存在確認提訴とは、正信会が日顕管長は血脈を受けていないニセ管長だと主張するものです。また、創価学会に対しても自民党の一部と結びつくかたちで「創価学会の社会的不正を糺す会」を発足させ、池田名誉会長の国会喚問を求め130万人の署名を集めるなど運動を展開しました。

 阿部日顕氏は、前管長の死去の混乱に乗じて法主の座を簒奪したのだという正信会の主張は正しいと思われません。日蓮正宗では教学部長がつぎの管長になるという伝統があり、当時宗門の教学部長だった阿部日顕氏が管長の座を引き継いだのは既定のものだったでしょう。正信覚醒運動も阿部日顕氏が管長の座を継いでしばらくは何ら異議を差しはさみませんでした。内々でどういっていたかは分かりませんが、正信会が阿部日顕氏はニセ管長だと唱えるのは、宗門との対立が激しくなってからです。また、阿部日顕管長が創価学会に買収されて正信会を破門したとも主張しますが、実際には細井日達管長在命中から創価学会への批判を禁止するなど、宗門の姿勢は大きく創価学会に振れていました。

 先にも書きましたが「血脈相承」は日蓮正宗のみを正流であるとする根拠であり、身延日蓮宗など他宗を邪教と見なし攻撃する寄りどころでもあります。この「血脈」が宗門から切れていると主張するということは、日蓮正宗の正当性を自ら否定するに等しいものです。また、大石寺歴代管長は「血脈相承」によりただ一人日蓮の法魂を受け継ぎ信仰の正当性を保持していると見なされているのですから、唯授一人の血脈相承者に対するリコールなどには違和感を感じます。もちろん民主主義は現代社会の規範となるものですが、他宗は全て邪教だとして排撃し否定する日蓮正宗には民主主義一般はそぐわないように思えます。日蓮正宗では日蓮による身延相承書や二箇相承書により「血脈相承」は証明されているとしています(偽書の説もあります)。正信会は、法主が腐敗堕落した際は正しく信仰を守っている大衆に血脈が流れるという「大衆血脈論」を唱えました。しかし、この「大衆血脈論」には日蓮による文証がないのが苦しいところです。

 創価学会の教義逸脱を正すという目的で始められた正信覚醒運動が、矛先を創価学会から宗門に変え日蓮正宗のみを正流だとする根本教義である「血脈相承」の否定に至ったわけです。これには正信会についた檀徒にも動揺が広がりました。相当の脱落者が出たようです。こうなったら新しい法主を立て新宗派として独立するほかないように思えるのですが、そうはいきませんでした。日蓮正宗信仰の柱である「血脈相承」を否定しても、『戒壇の大御本尊』を否定できなかったのです。本尊の曼陀羅は『戒壇の大御本尊』とつながっていないと威力はないとされています。新たに立宗して大石寺の『戒壇の大御本尊』を否定したら、正信会信徒が題目をあげている本尊の曼陀羅をも否定することになってしまいます。

 現在、正信会信徒は3万人程度と言われています。自分たちこそ本流と主張し法華講を名乗っているので、宗門の法華講とまぎらわしく困ってしまいます。99年現在機関紙などを読んでも、以前のような戦闘性はあまり感じられません。また、創価学会に対するよりも宗門への批判が多くなっています。新規信者を獲得するための折伏はあまりせず、子供に信仰を受け継がせるという法燈相続を重視しているようです。これは本尊の曼陀羅を書写できるのは血脈を相承した法主のみとされているので、新しい法主を立てたわけではない正信会は入信者がいても本尊の曼陀羅を下附する事ができないからでしょう。したがって信徒数はジリ貧の傾向にあるようです。しかし、信者の子供を出家させ独自に正信会僧侶にするこということはしています。

 もともと正信会は宗門や創価学会のような中央集権組織ではなく、顕正会のような戦闘的な組織でもありません。活動寺院の連合体のような組織でした。それぞれの寺院による教義解釈の違いもあらわれているようです。公然とは唱えられませんが、どうも宗門復帰を期待している向きもあるようです。宗門の一般信徒には正信会は評判は悪くありません。宗門が創価学会を破門した現在、宗門復帰の垣根は低くなったように思えます。しかし一方で、宗門は創価学会の影響を受けた異流義に毒されているとも主張しています。それでは宗門は謗法(他宗教)と化したと主張しているのかといえば、そうともいえず、富士門流の伝統法義を守れといったりします。日顕管長の血脈相承を否定して裁判まで起こしたのですから、日顕管長が在命のあいだに復帰することは難しいでしょう。また管長が代替わりしたとしても、それぞれの寺院が今までの謗法を詫びて帰伏するというかたちをとらなければ宗門復帰はできないように思えます。復帰したとしても正信会独自に出家した僧侶の扱いはどうするかなど問題は多いようです。

 

 6 創宗戦争

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 正信覚醒運動に対する真の勝者は創価学会だといえるでしょう。主敵正信会を排除し同時に宗門の力を弱めることに成功した手腕は見事でした。宗門と創価学会は短い蜜月に入ります。池田名誉会長は、再び法華講総講頭に返り咲きました。

 現実問題として日蓮正宗の発展は創価学会があってはじめて可能だったのであり、創価学会の存在がなければ今だに弱小な泡沫宗団であったでしょう。その意味で創価学会が広宣流布に果たした役割は否定できません。いわば身内ともいうべき僧侶の3分の1を排除してまで創価学会と結びついたのは、意識したにせよ無意識的にせよこのような認識が宗門にあったためと見てよいと思います。しかし、同時に宗門は絶対無謬の教義を持つ日蓮正宗があったからこそ創価学会は発展し得たのだという捉え方もしていたようです。逆に創価学会は、大衆を組織する運動に成果を上げておらず、教義や運動の進め方にいちいち口をはさみ阻害する宗門に侮蔑の念を抱いていたようです。宗門は日蓮正宗の伝統教学の厳守を至上命題としたのに対し、創価学会は教義を現代人の生活規範として展開しようとしました。創価学会は本尊の曼陀羅を幸福製造機にたとえ「生命の根元」だとか「宇宙の波動」などといった物理現象のようにとらえましたが、宗門は本尊の曼陀羅は仏様であり人格神としてとらえています。「南無妙法蓮華経」という題目も、宗門は仏様にたいするお願い=お祈りに近い感覚なのに対し、創価学会は唱えると良いことがあるという呪文に近い感覚に思えます。創価学会は現代新興宗教的なのに対し、宗門は伝統宗教に近いスタンスをとったといえるでしょう。

 創価学会の運動が僧侶を擁さない在家仏教運動として展開したため、僧侶中心の宗門とは組織や行動のみならず教義や理念にも相違が生じてきたのは当然でした。いつしか両者が衝突し、たもとを分かつのは必然ですらあったように思えます。平成に入ると創価学会は、宗門を学会の祭礼部門として見る傾向が強くなります。同時に200寺建立寄進計画など飴とムチの政策をとりました。しかし、宗教的確信者には飴もムチも効果はありません。創価学会は宗門を思ったように操作できなかったようです。逆に血脈相承論により唯一絶対の正当性を保持しているという宗教的確信をいだいている宗門は、創価学会の独立教団化に危機感を覚えたようです。

 90年に宗門は、池田名誉会長の宗門批判的発言の真意をただすという「お尋ね」を提示しました。宗門の感覚では恐れ入ってわびないといけないところなのですが、創価学会は「お尋ね」への回答を拒否し、逆に宗門批判ともいうべき「お伺い」を突きつけたのです。自己の宗教的権威を無視されたかたちになった宗門は、臨時宗会を召集し池田氏を法華講総講頭から解任しました。反発した創価学会は寺院への押しかけ抗議などを行い、ここに創宗戦争の幕が開いたのです。

 創価学会によると、腐敗を諫める創価学会を切り捨てるために宗門が巧妙に計画したC作戦(カット作戦)により抗争を仕掛けられたとしています。しかし、当時創価学会は日蓮正宗信者数の99パーセント以上を擁していました。財政面でも折伏布教の面でも事実上創価学会に依存していた宗門がそこまで踏み切るとはちょっと考えられません。自らの身内ともいうべき僧侶の3分の1までを切り捨てた正信覚醒運動に対する処分を見ても、いかに宗門が創価学会を重視していたか分かると思います。むしろ宗門の専権事項であるはずの宗義の面に創価学会が踏み込んできたため、反発して「お尋ね」を提示したと見る方が正解でしょう。自らの宗教的権威を過信していた宗門は、創価学会の謝罪を予想していたように思えます。創価学会が「お尋ね」への回答を拒否し「お伺い」を突きつけ対決姿勢を見せたのには、驚かされたのではないでしょうか。逆に創価学会は、宗門を従属させ、事実上学会の祭礼部門にしたいと考えていたようです。そのため宗門蔑視の発言を繰り返して挑発したというところが真相でしょう。創価学会としても泥沼の創宗戦争は望むところではなかったはずです。力関係からいって宗門が最終的に創価学会に降ると予想していたように思えます。小さいながらも宗教的確信者集団である宗門を甘く見ていたようです。宗門は、抗争が始まってから1年近くも創価学会組織にたいする処分は行っていません。91年11月に創価学会組織の解散勧告、12月に破門というかたちで処分を行いましたが、その後も個々の創価学会員は未だ日蓮正宗の信徒とされていました。池田名誉会長の法華講総講頭罷免から1年近くおき、組織は破門しても個々の学会員の信徒資格を残したということは、おそらく創価学会内での反池田運動などを期待していたのでしょう。以上の点から私はC作戦を創価学会が被害者であると宣伝する創作であるとみます。

 創宗戦争では、暴力事件や非合法な盗聴事件が頻発しました。創価学会員が寺院に押しかけ僧侶を吊し上げたり、脱会運動を行っている法華講員に暴行を加えるなど学会側が仕掛けた例が多かったようです。創宗戦争は、それ以上に言論戦でもありました。これも創価学会が宗門の醜聞を暴き立て、宗門側が反論するというかたちを取りました。創価学会のスキャンダル攻撃は、創価学会系メディアを総動員した非常に大規模、執拗なものです。パターンとしてファックス送付などの怪文書が送られ、それをネタに創価学会系マスコミが記事を書き、さらにそれを膨らませて創価学会男子部機関紙創価新報が掲載し、さらに膨らませてまたまた怪文書が送付されという暴露の自己回転運動ともいうべきものでした。怪文書の消し忘れファックス宛名が聖教新聞社であったこともあり、元をたどると創価学会に行きつくことが多かったようです。代表的なものをいくつか挙げます。

 シアトル事件

 阿部日顕管長(当時教学部長)が昭和38年にシアトルに出張した際、深夜2時に市内の売春街で2人の売春婦と金銭トラブルを起こし、駆けつけた現地の創価学会支部長のヒロエ・クロウ氏が日顕管長の事情聴取を許してもらう代わりに現地の警察に調書を取られたという事件。しかし、現在ならいざ知らず、昭和38年に治安の悪いアメリカで英語のしゃべれない人が1人で深夜2時の売春街にいき、金銭トラブルを起こして売春婦2人相手に大暴れし警察が駆けつけるという事件を起こすでしょうか。そのうえ被害者(?)の売春婦が警官に売春の料金を払ってくれないと述べたというのです。そんなことを言ったらその売春婦は逮捕されてしまいます。アメリカで売春婦と料金トラブルを起こして暴れたら、警察がでてくるまでもなくマフィアに叩きのめされてしまうでしょう。シアトル事件は創価学会の創作と見て間違いないとおもいます。宗門にうそつき呼ばわりされ名誉を毀損されたとしてヒロエ・クロウ氏がアメリカで起こした訴訟も宗門側が勝訴しました。日本では逆に宗門が名誉毀損で創価学会を訴えています。

 日顕管長宴席写真事件

 創価学会男子部機関紙創価新報が、日顕管長が芸者に囲まれた記念写真を掲載し、「日顕が芸者をあげて放蕩三昧している写真」「芸者漬け」「放蕩魔の地獄遊びの姿」「日顕堕落宗」「放蕩と邪淫」「放蕩法主 日顕芸下」などと書いた事件。宗門側の調査では問題の写真は僧侶の古希祝いに日顕管長が招かれた際の記念撮影で、芸者写真は左右にいる男性をカットし日顕管長が一人で芸者に囲まれているように見せたものだと判明しました。また、宴席には日顕管長の夫人も同伴していたようで、夫婦で招待された古希祝いに芸者がいたからといって「放蕩魔の地獄遊びの姿」とはなかなか言えないでしょう。この事件でも名誉毀損で宗門が創価学会を訴えています。

(追記)99年12月6日東京地方裁判所にて創価学会敗訴。創価学会と池田大作に400万円の損害賠償を命じる。創価学会は判決を不服として即日控訴。

 悪僧養成所報道

 日顕管長に対するものだけでなく総本山大石寺の僧侶養成所に対する批判も辛らつを極めました。これは宗門を抜け創価学会についた離脱僧の証言が元になっています。それによると総本山大石寺の僧侶養成所は「暴力横行の悪の棲み家」と化しており、「金属バットで37発、フルスイングで尻をたたかれた」とか「木づちを真上から力いっぱい振り下ろし、所化(見習い僧)の頭を叩いた。叩かれるたびに血が飛び散った」というものです。木づちで力いっぱい何度も頭を殴ったら、殴られた人はたぶん死ぬでしょう。学会員はよく信じるなぁと思いますが、こんなヨタ記事でも紙面に掲載されると相当な迫力です。

 この他にも寺院が信者の遺骨を無くしたなどの理由で、全国各地で創価学会員が80件以上の訴訟を起こしました。創価新報と宗門系機関紙の慧妙を読み比べると、これらの裁判はおおむね宗門側が勝訴しているようです。いずれの機関紙も自分の負けた訴訟については報道せず、勝ったことばかり大きく掲載しています。比べると創価新報より慧妙の方が勝訴報道がずっと多いのです。

 

 逆に宗門側が仕掛けた攻撃も挙げておきます。

 信平レイプ訴訟

 昭和48年と58年に2度に渡り創価学会幹部の信平信子氏が池田名誉会長に強姦されたというもの。裁判では、昭和48年のレイプに関しては時効として門前払い。残りは継続審議とされています。信平信子氏は後に創価学会から法華講に移っていますし、昭和48年の強姦事件を平成の創宗戦争時に告訴しているなど政治的意図が濃い訴訟のように思われます。

 東村山市議転落死事件報道

 創価学会の勢力が強い東村山市で反学会活動をしていた朝木明代市議が、東村山駅前のビルから謎の転落死を遂げた事件。朝木市議が死亡直前まで創価学会員から執拗な嫌がらせを受けていたのは事実のようです。また、朝木市議は、事件の前に1900円相当のブラウスを万引きしたとして書類送検されています。しかし、万引きしたとされる店は創価学会系のもので、また、担当検事とその上司も創価学会員だったと伝えられます。警察は自殺と発表しましたが、上のような理由で創価学会に疑惑がもたれました。しかし、テロというものは威嚇の効果が主なのであり、敵対する人物を殺すだけではほとんど意味はありません。単に敵対的な人物を殺害するだけでは、あとを継ぐ議員が現れるだけです。オウムの坂本弁護士一家殺害事件も、オウム真理教が殺害を否定したため威嚇効果が得られず結局反オウムの弁護士を結集させただけで逆効果になりました。朝木市議を創価学会が組織をあげて抹殺したということはほとんど考えられません。創価学会員の嫌がらせでノイローゼ状態になり自殺に追い込まれたか、末端の会員が跳ね上がって殺害したという可能性ならあるかもしれませんが、それは創価学会組織が計画的に抹殺したということと次元が異なるでしょう。

 

 創価学会組織を破門し、創価学会員に学会組織を抜けて寺院につくように呼びかけた宗門ですが、学会員の雪崩現象は起こりませんでした。創価学会員の実数はおよそ700万人といわれています。そのうち宗門についたのは10万人以下に過ぎませんでした。もともと宗門にいた信者が相当数いると思われますので、学会から出たのはおそらく約5万人、創価学会員の1パーセント以下にすぎません。これは、創価学会系メディアがなりふり構わずフル回転して宗門攻撃を行ったこと、宗門には正信覚醒運動の際に学会を抜け正信会に加わった人を破門したという前歴があること、当初創価学会との全面抗争を予想しておらず宗門の方針が定まらないうちに創価学会の逆宣伝に先手を打たれたという点が理由に挙げられるでしょう。この抗争では教義面での正統性は宗門にあるようですが、宗門が創価学会の分裂を呼びかけるなど組織面では創価学会に正統性があるようです。創価学会も宗門法華講員を脱会させるという脱講運動を開始し反撃に出ました。

 93年には創価学会は、独自に本尊の曼陀羅を作成し会員に配布しました。本尊の曼陀羅の書写は血脈を保った日蓮正宗法主のみができることとしています。これは顕正会も正信会もやらなかったことでした。この時点で創価学会は日蓮正宗と完全に絶縁した独立教団と化したとみてよいでしょう。もともと創価学会が他宗信者を折伏する際に他宗教を排撃した根拠は、日蓮から相承した信仰の正当性を示す血脈が宗門を通じて創価学会に流れているからというものだったはずです。たとえ日蓮が書いたものだとしても、日蓮正宗以外の本尊の曼陀羅は血脈が流れておらず邪教化しているとしていました。その宗門の血脈を否定し、いうなれば勝手に本尊を作ってしまったわけです。

 創価学会によると実は宗門は以前から堕落しており、とうに血脈は切れており、正しい信仰を保っている創価学会だけが日蓮から直接血脈を得ているとしています(大聖人直結論)。御書から日蓮の記述を取り上げてこの大聖人直結論を正当化しようとしていますが、どうもコジツケの感は否めません。日蓮正宗宗門には、偽書の説があるとはいえ日蓮による二箇相承書により「血脈相承」は証明されているのですが、この「大聖人直結論」には日蓮による文証がないのが苦しいところです。創価学会の「大聖人直結論」に従えば、自分は日蓮とつながっている確信すれば別に創価学会に属さなくてもよいということになってしまうし、本尊の曼陀羅も創価学会からもらわなくても曼陀羅の写真を撮影して拝めばそれでよいことになるでしょう。これではお告げ婆さんの御筆先をあがめる新興宗教と何ら変わるところはないと思えます。昭和40年代、昭和52年路線、その後のおわび路線、さらに創宗戦争の血脈否定と創価学会の教義は基礎となる土台の部分で180度の変転を重ねています。事実上創価学会は教義的には破綻していると見て良いでしょう。

 逆に教義的には正統性を保った宗門ですが、組織を維持・拡大する能力に欠け、このまま伝統宗教化するかと思われました。しかし、宗門法華講の中に妙信講(顕正会)の再来とも思える妙観講が生まれるのです。創価学会と絶縁したことで、逆に宗門は創価学会化したように思われます。中核派と革マル派の抗争でもそうですが、敵対し抗争を繰り広げる党派はお互い行動パターンが似てくる傾向があります。

 宗門はかつての創価学会のようにノルマを課しての折伏運動を始めました。注目すべきは宗門法華講に極めて活動的な講が現れた点です。約1万2千人の講員を擁する妙観講です。高齢者が多く比較的おとなしいとされる法華講では異色の存在で、初期創価学会や顕正会に近いほど活動的で、日顕管長に絶対的に信伏する「猊下の親衛隊」とでも呼びたくなるような集団です。宗門法華講の中では3番目に大きいといわれ、激しい折伏活動で急激に組織を延ばしました。メディアの抗争では宗門はやられっ放しなのですが、唯一妙観講の機関紙『慧妙』は創価学会に徹底的な反撃を加えています。日顕管長のボディガードもしているようで、日顕管長が宿泊する予定のホテルに仕掛けられた盗聴器を発見したり、最近ではスパイのため偽装入講した創価学会員を摘発したりと大変な活躍ぶりです。創価学会に対してだけではなく、あの暴力的な顕正会からも会員を100人以上引き抜き、抗争に突入しました。以下は顕正会幹部で後に妙観講に移籍した人のホームページから転載させてもらいました。

 当時の妙観講本部は、小金井市の閑静な住宅街にあり、細い私道の奥である。そこに、街宣車を押し立て、スーツ姿の顕正会男子部員数十名が押し込んだのだ、大変な迫力である。

 妙観講本部前にいた講員が、急を知らせに建物内に入ると、妙観講本部は蜂の巣をつついた騒ぎになった様に見えた。階段や、建物内を行き来する音が聞こえ、二階の窓は急いでブラインドが下ろされ、ブラインドの隙間からは何度も何度もこちらを覗き込んでいる。

 (略)

 引き続いて、拡声器と共に、一斉に大声でシュプレヒコールが始まった。シュプレヒコールが幾度も繰り返されている、その最中、我慢しきれなくなった妙観講員が、これをやめさせようと表に飛び出してきた。それもその筈である。閑静な住宅街にあって、近隣住民にも迷惑の掛かるこの状況を、看過出来ようはずもない。

 後はもうグチャグチャの大乱闘となってしまった。壁は揺れ、怒号が飛び交い、収集がつく状況ではない。間もなく妙観講からの通報によって警察が駆けつけ、漸く事態は収められた。顕正会側には暴行行為を働いて逮捕された者が出たが、双方ともに重傷を負う者がいなかった事だけが、不幸中の幸いであった。

 この他にも、大阪で妙観講と顕正会が数十名ずつを率いて衝突しました。「法論」ということで集まったようなのですが、話し合いらしいことは成立せず、すぐに乱闘になってしまったそうです。数に勝る顕正会との殴り合いではたいてい妙観講が負けているようです。しかし、あの顕正会と五分に渡り合う、かなりの暴力性を有した組織ともいえそうです。日蓮正宗の教義には、排他的、戦闘的で分派を生みやすい側面があります。新宗教の立宗が禁じられていた江戸時代にさえ、三鳥派や完器講などの分派が生じました。妙観講は、徹底して法主に信伏するという特徴から親衛隊の役割を担っています。しかし、将来にわたっての保証はありません。その発展と闘争ぶりから見ても、場合によっては顕正会のような右翼的な活動団体となりうる危険性を秘めているようにも思えます。

 ここまで宗門と創価学会の抗争にしぼって書いてきましたが、実際はこの抗争には顕正会と正信会も関与し、四つどもえの争いとなっています。

 最近の注目すべき事件は、宗門による正本堂からの戒壇の大御本尊遷座(移動)です。顕正会が破門される原因となった、あの『戒壇の大御本尊』を安置した正本堂は取り壊されました。数百億円をかけて建設された世界最大の宗教建築物は、30年あまりで地上から消えることになったのです。これは創価学会の遺物を総本山大石寺から一掃するという宗門の決意の現れでしょう。耐震上問題があるともいっていますが、別のところでは『戒壇の大御本尊』を謗法団体と化した創価学会が建てた正本堂には置けないとも述べています。正本堂取り壊しに対する創価学会の反応はかなり激しいものでした。創価学会系メディアを使い正本堂取り壊し反対キャンペーンを張りました。建設業者に圧力をかけたりもしたようですが、取り壊しを阻止することはできませんでした。現在は正本堂取り壊しが周辺の環境破壊をもたらしたというキャンペーンを行っています。

 逆に顕正会は、文字通り泣いて喜んだようです。幹部が礼服を着て顕正会芙蓉会館に集合し、「御遺命守護完結奉告法要」というものを開催。浅井会長が嗚咽しながら本部会館の本尊の曼陀羅に奉安殿への戒壇御本尊の遷座達成の奉告、と感謝の言葉をささげたのだそうです。

 「只今、大聖人様の御前に於いて御遺命守護の完結をご報告させて頂きました。二十六年間日夜祈り続けた事が、そして誰人にも不可能と思われたことが大聖人様の絶大威力に因ってここに事実となったのであります。こんなに有難いことはない。こんなに嬉しいことはない。(以下略)」

 正信会は下のような抗議文を宗門に送りつけています。ただし正信会は一枚岩の組織ではないので、内部では正本堂取り壊しは良いことだとする意見もあるようです。日顕管長が独断で正本堂取り壊すことを決めるという、宗門の独裁的な組織運営を問題にしました。

一、理由の不明確な正本堂解体を直ちに中止せよ 

一、富士の伝統法門を遵守せよ

一、正信会の主張と行動の正当性を認め謝罪せよ

一、これまでの宗門学会問題について責任をとって潔く退座せよ

 

7 今後の展望

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 信仰心というものは暴力によって変えさせることはできません。殴っても殺して拷問にかけても無駄です。弱い信仰心の持ち主ならば暴力で屈服させることができるため、権力者は宗教弾圧に暴力を用いてきました。しかしそれは常に強い信仰心の持ち主によってはねかえされてきたのです。江戸時代のキリシタンや日蓮宗不受不施派などがよい例でしょう。岡山県の少数宗派にすぎない不受不施派が、江戸幕府の寺壇制度のもとで300年間生き延びたことには驚かされます。

 一般に宗教的確信者ほど他人の信仰には無理解です。自宗以外の宗教を全て邪教として排撃する日蓮正宗系宗教の信者であるならばなおのことです。自己の信仰が絶対的に正しいと確信することは、他の信仰が間違っていると信じることでもあります。ですから、間違った信仰を持っている人間に正しい信仰を教えてやれば、すぐにその誤った信仰を捨てて帰伏すると信じ込みます。実際に信仰が浅い者に対しては折伏は有効で、信者を獲得することができます。しかし、異なる信仰を持つ宗教的確信者同士がぶつかった場合は、そうはいきません。結局相手を殺しつくすか、100年戦争になるか、相手の信仰を認め合うしか方法はありません。現代の日本で敵対宗派を皆殺しする事は不可能です。創宗戦争は、100年戦争になるか、相手の信仰を認め合うかの2つの道しかありません。

 宗門は、法華講員の再折伏運動によりかなりの人数の学会員を引き抜くことが可能かもしれません。創価学会は脱講運動で法華講の勢力をそぐことも可能でしょう。しかし結局は創価学会が宗門を解体することも、宗門が創価学会を解体することも不可能です。それぞれの組織の中心には現代日本で最強ともいえる強固な信仰心の持ち主が相当数存在しているからです。両宗派の中心をなすこの信者たちは、おそらく殺されるとしてもその信仰を捨てることはないでしょう。顕正会と正信会にも同様に強固な信仰心の持ち主が存在しているはずです。冷静に考えれば創宗戦争と呼ばれる一連の抗争は、全くの無駄。エネルギーの浪費であることに気がつきます。しかし、他宗教を排撃し(謗法厳戒)法華経の国教化を目指す(広宣流布)のが日蓮正宗の根本教義です。創価学会と宗門は、お互いを最悪の謗法と認識しているのですから、和解はあり得ません。創宗戦争は徐々に沈静化しながらも、100年戦争化して今後相当長期間続くでしょう。

 あらゆる信仰の腐敗は他思想・他宗教の自由の圧殺からはじまります。邪教のレッテルを貼れば思想・信仰の自由を奪ってよいという考えは、非国民のレッテルさえ貼れば思想・信仰の自由を奪ってよいというファシズムの思想と何ら変わるところはありません。他宗教を排撃し、法華経の国教化を目指す日蓮正宗の根本教義には、この腐敗の芽が潜んでいるように思えます。戦闘的に布教を進める宗派が教義面で他宗教を論難することは当然です。また、日常的に暴力や脅迫を用いて折伏を進めている訳ではないのですから、日蓮正宗系宗派が一部の過激派やかつてのキリスト教のように腐敗しきっているわけではありません。しかし、分裂した一方に謗法のレッテルを貼れば、非合法な汚い手段も許されるという創価学会を筆頭とする日蓮正宗系宗派の退廃の元をたどれば、日蓮正宗系宗派の独善的で偏狭な他宗教排撃路線にたどり着くように思えるのです。

 強固な信仰心の持ち主は、なにも日蓮正宗系宗派のみにいるわけではありません。天理教にも、真言宗にも、稲荷信仰にも、オウム真理教にも強固な信仰心の持ち主は存在するはずです。現実問題として現在の日本では、かつてのキリスト教徒のような他宗教の信者を絶滅させてまでの布教はできません。日蓮正宗系宗派最大の創価学会ですら、会員数は日本の人口の5パーセント程度にすぎません。法華経の国教化を目指す広宣流布の運動は、強固な信仰心の持つ他宗教信者らによってはねかえされるでしょう。この「強固な信仰心の持つ他宗教信者ら」とは、信教の自由などの理念を信ずる民主主義の信奉者や無神論の共産主義者なども含まれます。

 公明党が政権に加わることが広宣流布であるという創価学会の戦略や、細井日達前管長による日本の人口の三分の一が日蓮正宗となった状態を広宣流布の達成とするとの規定は、事実上法華経の国教化が不可能であると認め、日本人全員を信者にするという言葉通りの広宣流布路線の放棄として評価できます。これに反発して分裂した顕正会は、他思想・他宗教の自由の圧殺を一定程度路線化したより危険な宗派といえるでしょう。今後、顕正会が組織を伸ばすならば、その強引な折伏と暴力性は社会問題になることが予想されます。

 他宗教排撃と法華経の国教化に加え、血脈相承にもとづく中央集権制が日蓮正宗の3本柱です。これは相互に重複し密接に絡み合った不可分の3本柱に思えます。他宗教排撃(謗法厳戒)と法華経の国教化(広宣流布)は堅持するが、中央集権制(血脈相承)を取りやめるということは不可能でしょう。日蓮正宗はそれなりに完成された教義を持っているため、そのようなことを行ったら教義のすべてが崩壊してしまいます。正信会の宗門に対する組織運営上の非難は、管長独裁ともいえる中央集権制に対する非難に行きつきますが、他宗教排撃(謗法厳戒)と法華経の国教化(広宣流布)の主張を弱めなければ中央集権制(血脈相承)の放棄や弱化は不可能でしょう。謗法厳戒、広宣流布、血脈相承を放棄した日蓮正宗は、どのような本尊を拝んでいたとしてももはや日蓮正宗ではありません。もはや活力を失った日蓮宗の一小宗派にすぎないでしょう。ここに正信会の自家撞着があるように思えます。おそらく正信会は徐々に縮小しながら日蓮正宗の小分派として続き、一部は宗門に吸収されるかもしれません。

 学会員には異論があるでしょうが、創価学会は、昭和50年代から今までに教義の根本的なところで二転三転しています。教義面ではズタズタといっていいでしょう。下層中産階級が主体となった組織の特徴のひとつである機会主義の表れともいえます。また、独裁的権力者である池田名誉会長の「思いつき」によって組織が左右されているともいえるでしょう。宗教組織としては致命的な教義の脆弱性を持ちながらも、なぜ日本最大の宗教組織として存在し得るかというと、創価学会は宗教組織であると同時に下層中産階級の互助組織でもあるからです。これは下層中産階級の利益代表として公明党議員を各級議会に送り、活動的な学会員を公営住宅に優先入居させるなどといった利益誘導からも見て取れます。御利益宗教とも揶揄される創価学会は、日本の貧弱な社会福祉を補う互助組織としての機能を果たしています。特に初期の創価学会員は、田舎から都会に出て中小企業で肉体労働に従事し、休日になってもほとんど友人もいないという、都会のデラシネ(根無し草)ともいうべき人が多かったのです。そのような人々に帰属感を与えることができたのが創価学会の成功の一因でした。言ってしまえば、互助組織としての創価学会に加わっている人や、創価学会組織に拠り所を求めて参加したような人には、宗教としての教義にはたいして関心がないのです。ですから、宗門が創価学会の教義面での逸脱をいくら非難したとしても大きな成果を上げ得るとは思えません。

 いずれ訪れるであろう池田名誉会長の死去とともに、創価学会は分裂し衰退に向かうだろうと予想する人がいます。池田名誉会長はあらゆる独裁的権力者と同様に、組織に自らの地位を危うくするようなナンバー2を置いていません。宗門のように教学部長が次期管長になるというような権力継承のシステムがないため、池田名誉会長の死去は創価学会に相当な混乱を引き起こすでしょう。いくつかの小グループの分離・離脱はあり得ます。しかし、創価学会の中枢を占める三千人ともいわれる宗教官僚は極めて優秀であり、また、強力です。創価学会機関紙である聖教新聞の専従者など周辺企業や公明党各級議員を含めれば一万人以上が宗教労働者として創価学会に職を得ていると思われます。創価学会は互助組織であるとともに官僚組織であり、同時に一大宗教産業ともいえるのです。互助組織としての性格から創価学会を離れる一般会員は少数でしょう。戸田2代会長死去後、池田三代会長が立つまでの3年間に創価学会を二つに割るような事態が起こらなかったように、今回も組織を維持するでしょう。創価学会が官僚組織として完備している点から見て、おそらく次の権力者の座には宗教官僚出身者が着くことになると予想されます。

 今の日本では、田舎から都会に出て中小企業で肉体労働に従事しているというような下層中産階級は少なくなりました。創価学会が文化団体に衣替えしたのは、このような生活水準の向上など社会構成の変動に対応したものでした。しかし「歌って踊って楽しい創価学会」では、組織の戦闘性の維持は難しいでしょう。今後創価学会は、組織は維持しつつも徐々に戦闘性を失い、また、支持階層の減少とともに会員数もわずかずつ減少すると思われます。現在の労働組合と同様の道をたどるといえば分かりやすいでしょうか。これからの創価学会は戦闘的な折伏を展開するのではなく、組織の維持が優先されるでしょう。

 日蓮正宗宗門は、戦前のような小教団に戻ることはないでしょう。創価学会の手法を吸収し妙観講を中心に強力な折伏運動を行っています。現在約10万人の法華講員を3年後の2002年までに30万人に増やし、総本山大石寺に総登山するという計画を発表しました。この期限とノルマを定め折伏してゆくというのは、まさに創価学会の手法です。3年で信者を三倍に増やすというのは難しいとしても、完成された教義を持ち中枢となる組織が強固な宗門は、顕正会程度の中規模教団には成長し得ると思われます。しかし、終戦後の価値観の崩壊や経済成長に伴う都市における下層中産階級の集積といった条件がないため、かつての創価学会のような爆発的な成長は望めません。

 創価学会と日蓮正宗の成長は、戦後日本の一定の条件が生み出した社会現象でした。もし日蓮正宗から創価学会が誕生しなかったとしても、同様の宗教団体が急成長していたでしょう。組織には自己を保存しようとする本能があります。創価学会は社会の構成が変化するとしても、持ち前の柔軟性を発揮しそれなりに適応してゆくでしょう。創価学会が崩壊し急速に消滅するとは考えられません。しかし、理想と活力に満ちた創価学会と日蓮正宗の急成長というかつての栄華が再び訪れることは最早ないでしょう。


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