『50年代共産党非合法軍事文書集成6
治安機関に対する調査、各種工作に関する指令及び報告』前書き北のりゆき
この文は、冥土出版が発行した冊子『50年代共産党非合法軍事文書集成6 治安機関に対する調査、各種工作に関する指令及び報告』の前書きです。この冊子は遊撃インターネットでも通販をしています。
遊撃インターネットに戻る本書は、1952年当時、非合法下に軍事路線をとった日本共産党が密かに配布した地下文書と警察などの内部文書を、弾圧立法『破壊活動防止法』の成立を促進するため当時の権力機関が再編集し国会議員などに配布した書籍からの復刻である。そのため、権力側に都合の良い内容になっていることをあらかじめ了解されたい。また、読者の理解をたすけるため、難解な用語などに脚注を入れた。
解説
1952年当時、朝鮮戦争を契機として広範な共産党員の公職追放(レットパージ)などの重弾圧を受けた日本共産党は、コミンフォルム(『共産党・労働党情報局』スターリン、毛沢東に指導された各国共産党の国際組織)に、「愛される共産党」をスローガンにした穏健平和路線、野坂理論を批判され、武闘派とアンチ武闘派に分裂した。そして強硬路線をとる主流派指導部(所感派・徳田球一など)が地下に潜航し、過激な武装闘争を開始したのである。都市ゲリラ組織として中核自衛隊、農村ゲリラ組織として山村工作隊が結成された。最盛期には全国で約5百隊、1万人近くの武装組織を擁し、数百件の「事件」を引き起こしたといわれている。これは日本左翼の歴史史上最大の地下軍事組織であり、また最も激烈な武装闘争であった。2人の死者を出した「血のメーデー事件」をはじめ、白鳥警部射殺事件、吹田騒擾事件、大須騒擾事件、蒲田事件、曙村山林地主襲撃事件などが当時の大事件として知られている。この他にも数々の警察署襲撃、拳銃強奪、交番爆破、放火、リンチ事件などが行われた。当然この武装闘争は完全に失敗し、主な指導者は中国に亡命した。この後アンチ武闘派(国際派といわれる。宮本賢治など)が党内でヘゲモニーを握り、現在の選挙による平和革命路線への道を開くこととなった。現在の共産党の党史では、この国際派が主流だったように述べているが、24人の中央委員のうち7人を擁したにすぎず、また大衆団体から切断され、リーダーの宮本賢治なども九州に左遷されており、とても事実とは言いがたいようである。
この日共の暴力革命路線の破綻が直接の原因となり、現在の新左翼所党派が生まれたといってもよいだろう。現在の日本共産党のかたくななまでの自主独立路線の原因もここにある。52年当時の「事件」は、共産党にとってはあってはならない歴史であり、党史からもほとんど抹殺されている。しかし、実際に軍事活動を担った者の多くが今も活動しており、現在も切れば血の吹き出す事件である。そのため断片的なものを除いて、一般の書籍には当時の記録を見ることはできない。その意味でも本書は第一級の資料であり、創作活動の上でも貴重な資料となるだろう。
『革命』は『軍隊』の問題であるとされる。ロシア革命の際は、労働者農民ソビエトは赤衛隊という初歩的な軍事組織をもっていたが、革命の勝利を決定づけたのは帝制ロシア軍の獲得であった。革命の軍隊『赤軍』を生み出すのは、10月革命の後である。本書は、国家権力の暴力装置たる軍隊と警察に対する、日本における革命党派の働きかけを記した、おそらく唯一の資料であろう。
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