中国革命館(毛語録・林彪前書き)
翻訳・解説 松田項司
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小さな解説 北のりゆき
ここに収録した文は、『毛語録』の前書きの翻訳である。後に反革命とされ死亡した林彪による前書きは毛語録から削除され、発行済みの毛語録からも例外なく切り取られ、事実上抹殺されてしまった。しかし、松田項司さんの翻訳によりここに復活させることができた。中国現代史を語るうえで貴重な資料となるだろう。また、文化大革命と毛沢東に関する詳細な解説と毛語録の一部抜粋も掲載させていただいた。心から感謝したい。
『毛語録』について
松田項司
正確には『毛沢東語録』と言われるが、中国で出版された原本(私の手元にあるものも含めて)には、『毛主席語録』と金色の文字で印刷されている。赤いビニールカバーが装丁されていて、カバーをめくると、「全世界のプロレタリアートよ、連合せよ!」の赤い文字が小さく踊り、当然毛沢東の肖像(天安門広場に掲げてある、でっかいのと同じアングル。ただし、こっちはセピア色)もしっかり4ページ目にお目見えしている。そしてこの写真がこの本に掲載されている唯一の写真映像でもある。当初は縦12.5センチ、横9センチだったのが、ついには縦6センチ、横4.5センチのサイズまで発行された。270ページある内容は全て毛沢東の著作、または談話から編集収録したもので、33編の内容に二百数十項目の文章が並んでいる。
1966年から1977年まで中国で吹き荒れた文化大革命は、現在では中国本国でも「十年の災難」と否定化されているが、特にその十年間の間におよそ中国、または中国人を撮影した写真の中に必ず顔を出していた赤い小冊子がこの『毛語録』である。ただし、その原形は1959年に林彪が中央軍事委員会を掌握してから、「毛主席の著作を学ぶことは、マルクス・レーニン主義を学ぶ近道だ」と、解放軍兵士の学習用に編集したもの。林彪がまず解放軍内に普及させ、文革が進むにつれて、全国に広がっていったのだ。1961年5月からは、解放軍内発行の新聞『解放軍報』の一面に毛語録から抜粋した文章を一つ、毎日掲載することになった。1966年の文革開始から、新華書店より発行され、1971年までに8億部が販売された。一般紙『人民日報』にも毛語録からの抜粋文が毎日掲載されるようになり、他の出版物にもその風潮は広まった。文革の十年間、『毛沢東選集』と並んで、「中国全土で一番ポピュラーな出版物」の地位を保った。
毛語録の生みの親といってもいい林彪だが、彼は腹の中では真に毛沢東に忠誠を尽くしていたわけではなかった。彼は文革を進めたがっていた毛沢東の後押しをすることによって、自らの地位を固め、野望を達成しようとしたのである。毛語録はその意味では体のいいおべっかの道具であった。しかし、毛沢東の方も紅軍第一軍団長、第115師団司令、第4野戦軍司令とキャリアを積み重ねてきた林彪の軍事力を必要としており、ここに両者の利害が一致した。毛沢東に対する個人崇拝の演出者になることで、政治的資本を手に入れようとしたわけである。現存する林彪の写真を見るとすぐ分かるが、彼は毛語録を持つ際、人差し指をページに挟み、いかにも今までそこを読んでいたと言いたげなポーズを取っていた。そうすることで、毛語録の学習熱を煽っていったわけである。林彪なりの政治的な道具として、毛語録は必要不可欠であった。毛語録にぎっしり詰まっているのは毛沢東の言葉だが、それに深く関わったのは、むしろ林彪と言っても過言ではない。1971年の劇的な「毛沢東暗殺未遂事件」での林彪の死と共に毛語録の出版も終わりを告げる。
ここでその林彪について簡単に触れてみよう。文革が否定されている今、中国側の文献で文革推進側の人物を把握するのは難しく、客観的な著書は無きに等しいので、調べるのに一苦労するからだ。毛沢東、江青、朱徳については、外国人の著作から調べるのが容易であるが、林彪についてはまとまった書物がない。エドガー・スノーの『中国の赤い星』、『中共雑記』から直接林彪から聞いたインタビューが断片的に拾えるのみである。
林彪は1908年、湖北省黄安に生まれ、16歳で上海で社会主義青年団に入り、その推薦で孫文が建校した黄埔軍官学校に入学。当時、この学校の校長が後の台湾の総統・蒋介石であり、後の中国首相の周恩来も、政治部主任として政治教育に当たっていた。
卒業後、副小隊長として北伐に参加、しかし1927年に蒋介石が共産党に対して反共クーデターを仕掛け、これにより国民党と共産党は袂を分かつことになる。林彪は共産党を選んだ。後に元帥となる朱徳の鉄軍と合流し、その鉄軍が当時江西省の井崗山に立て籠もっていた毛沢東と合流、中国労農紅軍第四軍を結成する。林彪は当初、弱冠二十歳の大隊長だったが、茶陵、瑞金、果ては広東、福建省にまで攻め込んで多く勝利をあげた頃には第一軍団長に昇進している。
蒋介石は瑞金を拠点としていたソビエトに5回に渡る大規模な包囲攻撃を仕掛けた。この作戦で、ソビエト地区内の戦死者及び餓死者は100万を越える。1934年、紅軍は瑞金を捨て、陜西省に至る一万二千キロに及ぶ脱出行を敢行。世に言う長征である。その途上の貴州省遵義での拡大政治局会議で毛沢東の指導権が確立されるが、このとき林彪は毛沢東が最高指導の地位に選出されるのを助けた。そして日中戦争が勃発すると、林彪は第115師団司令となる。
抗日戦争期の林彪の軍事行動の中で特筆すべきは、1937年に平型関で無敵と聞こえた板垣軍団を包囲殲滅したことであろう。日本降伏後、国共内戦でも多くの戦功をあげ、朝鮮戦争でも人民義勇軍を指揮したらしい。その後元帥に昇格、国防相にも就任する。毛沢東が「大躍進」、「反右派闘争」を展開したときも、林彪は毛の政策に軍事的保証を与え続け、文革期に副主席に昇進したときが、彼の絶頂期であった。
1969年の第九回党大会で毛沢東の後継者の地位を約束され、「毛主席の親密な戦友」と讃えられるほどにはなったが、彼は具体的な保証を欲しがった。「国家主席」である。中国の公式発表ではこの地位を得ようと画策し、失敗に終わってから毛沢東に対し、クーデターを企てるようになる。しかしその試みは灰燼に帰し、飛行機でソ連に逃亡しようとしてモンゴルで墜落死を遂げる。林彪の死は、そのニュースを知った世界の反応と同じく、毛語録にとっても、青天の霹靂であったろう。
文革というと、毛語録を振り上げた生きのいい紅衛兵のアンちゃん方(ネエちゃんも)を思い出す人もいると思うが、彼らの毛語録の持ち方には一定の形式があった。
親指を表紙につけ、人差し指・中指・薬指を裏表紙につける。これで「三つの忠誠」を表すのである。「三つの忠誠」とは、指導者・指導者の思想・指導者の革命路線に忠誠を尽くすこと。小指は毛語録の下を軽く支えるようにして持つ。これで「四つの無限」を表す。「四つの無限」とは、指導者に無限の忠誠を誓い、無限に熱愛し、無限に信仰し、無限に崇拝することである。こうして紅衛兵たちは手に手に毛語録を持ち、あっちこっち走り回っては、政治的茶番を繰り広げていたわけである。
文革の期間中、中国人民が日常生活の上で、まず何をおいてもやらなければならないのは、毛語録の暗唱であった。店頭で物を買うにも、仕事の合間にも、はては散髪屋に行っても、理髪師が突然毛語録の中の一節(前半)を暗唱し、客がその後を受けて、後半を暗唱しなければならないといった事まで起きた。例えば、買い物に入った店で、店員がいきなり「奮闘すれば犠牲者が出るし…」と前の句を言う。客はすかさず「人が死ぬのもよくあることだ」と継がなければならない。これでは記憶力に自信がないと、うっかり外出もできない。紅衛兵が横行していた時期は、通行人を呼び止め、「毛語録の何ページ第何ヶ条を言って見ろ」と命令することがあった。これができないと、油を絞られることになる。
結婚にも毛語録はついて回る。文革中の結婚祝いの贈り物は毛語録や毛沢東選集だった。もちろん別バージョンはないから、みんな同じ内容の本を持ってくるわけである。何十冊もの毛語録や毛沢東全集の山を前にした新郎新婦……何が悲しゅうて、の世界である。
文革中、会議や大会で発言する者は、始めに「同志のみなさん、毛沢東語録の第何ページを開いてください。毛主席が我々に教えておられます……」とやることが常だった。当時中国外相だった陳毅を、紅衛兵が一万人大会を開催し、彼を吊し上げようとした。陳毅は発言するにあたり、「同志のみなさん、どうか毛沢東語録の第271ページを開いてください。毛主席が我々に教えておられます。“陳毅はよい同志である”と」と言った。前に書いた通り、毛語録は270ページまでしかない。吊し上げに来ていた紅衛兵たちはドッと笑いだし、査問どころではなくなってしまったという逸話も残されている。
毛語録からは、いろいろな副産物が作られた。毛語録の言葉を印刷したカード、語録を入れる袋、語録の歌や、語録の体操まで作られた。特に文章の一節に曲をつけた『語録歌』と言うのが、文革の初期に作られ、大いに流行った(流行らされた?)。小学生が習う最初の歌も、『我らの事業を指導する中核の力』という語録歌であった。林彪の書いた『毛沢東語録再版の前書き』までも歌になった。これは737字もあり、作曲家は知恵を絞ってその全文に曲をつけ、毛沢東思想宣伝隊がこの歌を懸命に宣伝したのだが、あまりに長すぎて、完全に歌える人がほとんどいなかったということだ。
林彪の政治的な道具として、毛沢東思想の宣伝に一役も二役も買い、文革中は全国民がこれを携帯する義務を負い、人の潮流に必ず赤く混ざっていた。文革の是非も含んで、あの時代に人々がとった行動には色々議論の余地もあるだろうけど、政治的な理由があったにせよ、かつてはこれほどまでに人々の生活に溶け込んでいたのである。その文革も幕を閉じてから20年余り、あの毛語録が今、中国で骨董ブームとして、同じく文革時代に普及した毛沢東バッジと共にあちらこちらの骨董品屋の店頭で並べられているという。文革という時代もすでに“骨董”に入る時代になったのだ。私が偶然手に入れた一冊も、その激動の10年を越えた証人として、裏表紙の毛沢東宣伝隊のサインや1ページごとに刻まれているシミ、奥付けの日付の古さと共に何かを訴えてくる。この度、毛語録を翻訳してみようと思ったのも、この小冊の魔力に取り憑かれたせいなのかもしれない。
毛沢東語録
再版の前書き(林彪著)
毛沢東同志は、当代最も偉大なマルクス・レーニン主義者である。毛沢東同志は天才的に、創造的に、全面的にマルクス・レーニン主義を遵守し、かつ発展させ、マルクス・レーニン主義を斬新なものに昇華させたのである。
毛沢東思想は帝国主義の全面的な崩壊、社会主義の世界的勝利に向けての時代に現れたマルクス・レーニン主義である。毛沢東思想は帝国主義に反対する強力な思想的武器であり、修正主義と教条主義に反対する強力な思想的武器でもある。毛沢東思想は全党、全軍、及び全国全ての工作の指導方針でもあるのだ。
よって、毛沢東思想の偉大なる紅旗を永遠に高々と掲げ、毛沢東思想で全人民の頭脳を武装し、一切の工作において毛沢東思想を中心とすることが、我が党の政治思想工作の最も根本的な任務である。広範な工農兵群衆、広範な革命幹部、広範な知識分子、皆真に毛沢東思想を学び取らなくてはならず、人間として毛主席の書を読み、毛主席の話を聞き、毛主席の指示に従い、毛主席の好き戦士となろう。
毛主席の著作を学び、問題意識を持って学び、活用を学び、先学を急用し、すぐ効果が現れるよう、“用”の字に持てる力の全てを注ぎ込め。毛沢東思想を真に学び取るため、多くの毛主席の基本観点を反復学習し、重要な語句は暗記し、反復運用すること。新聞では実際の役に立つよう、毛主席の語録を掲載し、学習と運用に供している。数年に渡って広範な群衆が毛主席著作の経験を活用し、問題意識を持って毛主席の語録を学ぶのは、毛沢東思想を学ぶ良い方法であり、すぐに成果が現れるであろう。
この『毛主席語録』を編集したのは、広範な群衆に更に毛沢東思想を学びやすいものとさせるためである。各組織で学習する際には、情勢、任務、群衆の思想状況、及び工作状況を斟酌し、該当する内容を選んで学ぶべきである。
今、我々の偉大な祖国は、工農兵によるマルクス・レーニン主義、毛沢東思想の新しき時代を迎えつつある。毛沢東思想が広範な大衆の会得するところとなれば、無限なる力に変わり、強力無比の精神的な原爆となる。『毛主席語録』の大量出版は、大衆に毛沢東思想を学び取らせ、我が国の人民思想革命化を押し進める上で、極めて重要な措置である。一人一人の同志が真面目に、刻苦勉励し、全国において毛主席の著作を学ぶ新しき潮流を巻き起こし、偉大なる毛沢東思想の紅旗のもとに、現代的農業、現代的工業、現代的科学文化、現代的国防の備わった偉大なる社会主義国家を建設するために、奮闘して欲しい!
林彪
1966年12月16日
毛沢東語録
前書き(中国人民解放軍総政治部)
毛沢東同志は、当代最も偉大なマルクス・レーニン主義者である。毛沢東思想は帝国主義の崩壊、社会主義の勝利に向けての時代、中国革命の具体的な実践、党と人民の一致奮闘において、マルクス・レーニン主義を応用した普遍的真理であり、マルクス・レーニン主義を発展的に応用したものである。毛沢東思想は中国人民革命と社会主義建設の指針であり、帝国主義に反対する強力な思想的武器であり、修正主義と教条主義に反対する強力な思想的武器でもある。毛沢東同志は我が軍の堅固な政治的方向を定めたのみならず、軍建設の唯一正確な路線をも規定した。我が党の指導思想、我が党の闘争経験、我が党の理論は毛沢東思想の中に終極されている。よって、毛沢東思想の偉大なる紅旗を永遠に高々と掲げ、毛沢東思想で全人民の頭脳を武装し、一切の工作において毛沢東思想を中心とすることが、我が軍の政治思想工作の最も根本的な任務である。我が軍全ての同志は真に毛沢東思想を学び取らなくてはならず、人間として毛主席の書を読み、毛主席の話を聞き、毛主席の指示に従い、毛主席の好き戦士とならなくてはならない。
林彪同志はこう指示されている。毛沢東思想を真に学び取るためには、毛主席の多くの基本的観点を何度も学ばなくてはならず、重要な語句は暗記し、反復運用すること;並びに『解放軍報』紙上で実際と兼ね合わせた毛主席の語録を掲載し、幹部や戦士の学習に供している。数年来、部隊において毛主席の著作を学習活用した経験は、問題意識を持って毛主席の語録を学ぶことが、毛沢東思想を学ぶ良い方法であり、すぐに効果が現れることを証明している。基層幹部と戦士たち毛沢東思想学習をより良くできるように、『解放軍報』に掲載した語録に補充を加え、この『毛主席語録』を編集し、加えて少数精鋭の原則にのっとり、基層幹部及び戦士の需要水準にできるだけ適合させた。各部隊ごとの学習において、総合的な形勢、任務、部隊思想の情況、そして工作情況に応じて、内容を取捨選択して学ぶこともできる。この語録は1964年5月に出版されたものであるが、この度の再版では、少量の増減、及び部分的な調整を行っている。
林彪同志の指示に従い、『毛沢東著作全集』及び『毛主席語録』を武器と同じように全軍の全ての戦士に支給した。全ての同志が真剣にこれを学び、全軍において一段と毛主席著作学習の新しき風潮を起こし、我が軍の革命家、及び現代化の建設のために奮闘して欲しい。
総政治部
1965年8月1日
参考資料 毛沢東語録(本文抜粋)
八、人民戦争
革命戦争は大衆の戦争である。大衆を動員してこそ、戦争を遂行できるし、大衆に依託してこそ、戦争を遂行できる。
《大衆生活について、工作の方法に注意せよ》(1934年1月27日)、《毛沢東選集》第一巻第131ページ
本当の鉄壁とは何か?大衆である。心を込め、誠実に革命的群衆を守ることである。これぞ本当の鉄壁であり、いかような力も打ち破ることはできない。完全にできない。反革命が我々を打ち破ることはできないが、我々は反革命を打ち破らなければならない。革命政府の周囲には、百万千万の大衆が団結し、我々の革命戦争を発展さ
せれば、全中国を奪取することもできる。
《大衆生活について、工作の方法に注意せよ》(1934年1月27日)、《毛沢東選集》第一巻第134ページ
戦争の巨大な力のもっとも深い根元は、大衆の中に存在する。日本が我々を迫害する主な原因は、中国大衆が無秩序の状態だったからである。この欠点を克服すれば、日本侵略者が我々数億の立ち上がった人民の前に置かれた時、一匹の野牛が火陣の中に放り投げられたのと同じように、我々の恫喝がそれを飛び上がらんばかりに脅かすであろう。この野牛は必ず焼き殺さねばならない。
《持久戦論》(1938年5月)、《毛沢東選集》第二巻第501ページ
帝国主義者が我々を迫害するなら、真っ向から相手にならなくてはならない。我々には強大な正規軍だけでなく、大規模な民兵も必要である。こうすれば、帝国主義が我が国を侵略してきた時、一歩も進むのが困難となる。
新華社記者との談話(1958年9月29日)、1958 年10月1日《人民日報》
人民の遊撃戦争は、すべての革命戦争の観点から見れば、主力の紅軍と左右の手の間柄である。主力行軍だけで、人民の遊撃戦争がなければ、片腕の将軍のようなものだ。根拠地の人民の条件とは、具体的に、特に作戦方面で言えば、武装している人民である。敵はこれを恐れる。主要地の人民の条件もこの一点に尽きる。
《中国革命戦争の戦略問題》(1936年12月)、《毛沢東選集》第一巻第221ページ
戦争の勝敗は、主に双方の軍事、政治、経済、自然の諸条件で決まる。これは間違いない。しかしそれだけでなく、双方の主観指導の能力によっても決まる。軍事家は物質条件の許す範囲外で戦争の勝利を期待せず、物質条件の許す範囲内で勝利を勝ち取らなければならない。軍事家の活動する舞台は客観的物質条件の上に構築されるものだが、軍事家はこの舞台でいろいろな、荘厳な、勇猛な、勇壮な活劇を演出することができる。
《中国革命戦争の戦略問題》(1936年12月)、《毛沢東選集》第一巻第175ページ
戦争の目的とは他でもなく、“我を保ち、敵を消滅する”(消滅とは、敵の武装を解除することで、“敵の抵抗力を奪う”もの。肉体を消滅させるわけではない)ことである。古代の戦争は、矛と盾を用いた。矛は攻撃、敵を消滅するもの。盾は防御、自分を守るもの。今日の武器も、畢竟この二者の延長である。爆撃機、機関銃、遠距離射砲、毒ガス、これは矛の発展であり、防空壕、ヘルメット、コンクリート工事、防毒マスク、これは盾の発展したものである。戦車はこの二者が合体してできた新型兵器である。攻撃とは、敵を消滅する主要手段だが、防御も捨てるわけにはいかない。攻撃は直接的を消滅すると同時に自分を守るためでもあるから、敵を滅ぼさねば、自分が滅ぼされる。防御とは、自分を守る直接的なものだが、同時に攻撃を支え、もしくは攻撃に移るための一種の手段でもある。退却とは、防御の一種で、防御の継続でもある。追撃とは、攻撃の延長である。およそ戦争の目的の中で最も重要なのは、敵を消滅することで、自分を守ることはその次である。なぜなら、敵を大量に滅ぼすことにより、はじめて有効的に自分を守ることができるからである。よって敵を消滅させる主要手段にできる攻撃こそ最も重要で、敵を消滅させる補助手段や自分を守る手段にできる防御は次に重要である。実際の戦争では、防御に多くの時間を割き、その他の時間を攻撃に費やすのだが、戦争全体を通してみれば、やはり攻撃が主体である。
《持久戦論》(1938年5月)、《毛沢東選集》第二巻第471〜472ページ
あらゆる軍事行動の指導原則は、皆一つの基本原則から成り立っている。それは、できるだけ自軍の力を残し、敵軍の力を消滅させることだ。……戦争時に勇敢と犠牲を奨励するのはどういうことか?戦争の度に代価を払わねばならない。時には莫大な代価だ。これは“自分を守る”ことと相反しないのか?実は少しも矛盾していない。正確に言えば、相反するものにも同一性があると言うことである。この種の犠牲は敵を消滅するのに必要であるばかりでなく、自分を守るにも必要で――部分的な“損失”(犠牲もしくは支払い)は、軍全体の恒久的保存に必要だからである。この基本的な原則に則って、全体の軍事活動を指導する一系統の原則が発生する。射撃の原則(体の隠蔽、火器を使う。前者は自分を守るため、後者は敵を消滅するため)から始まって、戦略の原則まで、すべてこの基本原則の精神に通じている。すべての技術的、戦術的、戦役的、戦略的な原則は、この基本原則を施行したときの条件である。自分を守り、敵を消滅する原則は、すべて軍事原則的根拠である。
《抗日遊撃戦争の戦略問題》(1938年5月)、《毛沢東選集》第二巻第397〜398ページ
我々の軍事原則は、(1)分散または孤立した敵をまず叩き、それから集中または強大な敵と戦う。(2)まず小規模の都市から中規模の都市、広大な農村を取り、それから大都市を取る。(3)敵の生産力の殲滅を主要目的に置き、都市や地方の保護または奪取を主要目的にしない。都市や地方の保護、奪取は敵の生産力を壊滅したときの結果であり、往々にして何度も取りつ取られつして、やっと最後に保護か奪取できるからだ。(4)戦いの度に、絶対優勢な兵力を集中(敵軍に二倍、三倍、四倍、時には五倍、六倍にも勝る兵力)させ、完全に包囲し、これを殲滅する。アリ一匹漏らさない。特殊な状況下で、敵に壊滅的打撃を与える方法は、全力を集中して敵の正面及びその一翼または二翼を攻撃して瓦解させ、その間に我が軍が迅速に移動して他の敵軍を殲滅させることである。損失の多い、または損害の激しい消耗戦は極力避けることだ。こうすれば、(数の上では)我が軍が劣勢でも、一つ一つの局面、一つ一つの具体的な戦局上では我々が絶対的に有利であり、戦争の勝利を保証してくれる。時間の経緯に従い、我々はすべての敵を滅ぼすまで、全体局面上の優勢を得るであろう。(5)準備のない戦いはしない。自信のない戦いはしない。戦いの前はできるだけ準備を整えておくこと、敵軍の条件と比べて勝利の確信を持てるようにすること。(6)勇敢な戦闘、及び犠牲や疲労、連続作戦(短期間内での連続的な戦闘)を恐れない気風を育てること。(7)できるだけ大衆運動によって敵を倒すこと。同時に陣地攻撃で敵の拠点や都市を奪うことも重視すること。(8)都市攻撃の問題上、敵軍の守備の脆弱な拠点と都市を必ず奪取すること。中規模程度の守備で、状況によっては奪取できる拠点や都市は、機会を見てこれを取る。守備が強固な拠点や都市は機が熟した後で奪取すること。(9)敵軍捕虜のすべての武器と人員は我が軍に補充する。我が軍の人と物の供給源は主に前線からである。(10)戦いの合間を利用し、部隊を休息させ、整頓すること。休息の時間は長すぎてはいけない。敵軍を息を継がせる時間を与えないようにすればいい。以上、人民解放軍が蒋介石を打ち破った主な戦法である。そして、これは人民解放軍が国内外の敵軍と長期に渡った作戦の中で、培ってきたものであり、我々の現在の状況と完全に適合している。……我々の戦略戦術は人民戦争の基礎の上に立ったものであり、いかなる反人民の軍隊も我々の戦略戦術をまねることはできない。
《現在の形勢と我々の任務》(1947年12月25日)、《毛沢東選集》第四巻第1247〜1248
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優勢でありながら準備をしないのは、本当の優勢ではない。積極的でもない。これが分かれば、劣性でも準備を整えた軍隊は、敵軍に対して不意の攻勢を仕掛けることができ、優勢者を打ち負かすこともできる。
《持久戦論》(1938年5月)、《毛沢東選集》第二巻第481ページ
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